中性的な生き物
「私、近頃海部の話を聞いてあげているの」羽田はそう言って段を上がりながら仄かに光るような青い水槽に顔を向けた。微妙なニュアンスだったので僕は黙って次の言葉を待った。
「デートなんかじゃなくて、時間を決めてメールででやりとりする。大抵は夜、あとは眠る他に何もすることがないという時に話し始めて、どっちかが寝落ちしたらおしまい」
「対面や電話じゃいけない?」
「話すって、限定的な意味でよ。挨拶をしたり、アニメの話をしたり、そういった世間的な話題ではなくて」
「込み入った、個人的な?」
「そう。お互い綿密に組み立てた文章でやり取りするのよ。正確にね。まあ、でも、それできちんと伝わったかどうかは確認しようがないし、当然、巧く説明できなければそれまでだけど」
「でも、会って時間を共有するという選択肢が失われたわけではないんでしょ」
「確かにね。対面だってよく考えながら話せば、今あなたとこうしているみたいに行くかもしれない。だけど、私は彼にこんなふうに時間と場所を割くほどの価値を見出せない。いわば人生の表側でしょう。それは他のことに余裕を持たせるために取っておいて、できるだけエネルギーを使わずに、裏側でゆったりと落ち着いて、お互いの他の生活を気にせずに話したいのよ。そういうのってわかる?」
僕はしばらく考えを巡らせてから頷く。「それで、メールでは何を話すの?」
「アリゼのこと」羽田は僕を振り向く。その名前を僕が把握しているかどうか確認するための視線だった。
「あいつの彼女をやっている間はなんとなく鬱陶しい話題だったけど、それが解けてから、今は妙に聞いてみたいという気持ちがしているのよ。どんな人間なのかって。男女の距離感って難しいのね。知り合いなのか、付き合っているのか、夫婦なのか、段階が小刻みで、一つの枠組みの幅に柔軟性がなくて、そこに拘って。お互い何年か放っておいたら、別々の誰かと関係を持って、昔の関係は朽ちていって。移り変わる不安定なもの。そんな枠組みなんか、離脱してしまった方がいいのかもしれないのに」
我々は熱帯魚の水槽の前に来る。遠目に立って全体を見渡す。水はブルーハワイのシロップを少し薄めたような鮮明な水色に光っている。深い青色をしたスズメダイの群れが偃月型の黄色いしっぽを目印みたいにひらひら翻しながら泳いでいる。
「知ってる? 世の中には性別の決まっていない生き物もいるの」と羽田は訊く。「男か女かになんて囚われずにのらりくらりと生きていく生き物」
「生殖細胞を持たない生き物?」と僕。
「それは性別が決まっていないんじゃなくて、ないの」
「植物はほとんど雌雄一体じゃないかな。性別があるのはブドウやイチョウや」
「動物なら? 例えばカタツムリやウミウシ。彼らは這って生活する。ゆっくりとしか移動できない。同じ種類の他の個体に接触する機会さえ少ない。もし個体に性別があったら、異性に出会う確率はもっと小さくなってしまう。オスとかメスとかいう区別はない。両方が生殖に必要なオスの器官とメスの器官を兼ね備えている。交尾の時は中性のままではない。どちらかがオス役になり、もう一方がメス役になる。母体がなければ新しい個体は生まれることができないから。でも彼らに性があるのは交尾の時だけで、子育てはしないから父と母の区別はない」
僕は腕を組んで彼女の話を聞いていた。
「それから、オスとメスは分かれるけど、生きている間に性転換をする生き物もいる」と羽田。
「魚?」
「うん。クマノミは一生を同じイソギンチャクの周辺で過ごす。ひとつのイソギンチャクに数匹のクマノミが住んでいる。その中で一番大きい個体がメスになる。二番目がオスで、それ以下は中性。というか、生まれた時はみんな性別がない。成長して、村の中での序列が上がることによって性が生じる。そこにはメスの体が大きい方がたくさん卵を産むことができるという合理性が潜んでいる。メスが死ぬと二番目の大きさだったオスがメスになり、中性だった中で一番大きいのがオスになる。産みつけた卵の世話はオスがするから、父と母の区別がある。彼らにとって自分以外のすべての個体との距離は均質で、社会的役割によって在り方も接し方も決まっている。クマノミだけでなく、少なからず一部の種の魚類が一生の間にオスとメスと両方を経験する可能性を持っている」
「生物的にとか、社会的にとか、性別がわかれて役割が決まる」
「そうね」
「分かたれたあとの雄と雌の関係は、人間と同じように、あるいはもっと不安定なものじゃないだろうか。激しい生存競争に晒され、種によっては交尾だけが唯一の接点になる貧しい関係しか残らない。研ぎ澄まされた、合理的な」
「でも一生どちらかの性に縛り付けられて生きていくわけではないのよ。強いられた枠組みの中にあっても、自分を変えながら生きていくことができる。変えているのか、変わってしまうのか、それは謎だけど」
「謎だろうね。少なくとも人間の思考が捉える範囲では」
羽田はそれから口の中で少し言葉を練って、「動物的無意識の理解、すなわち疑いなき受容」と言って首を傾げる。
水槽の前で黒い影になった少女が手を高く上げる。その先に大きなテングダイが泳いでいる。テングダイは少女の行動などまるで気にしていないように見える。手の届く距離なのに二者の間は分厚いアクリルによって絶望的に隔てられている。テングダイには少女の手に触れられる心配などない。ここで隔離されているのは人間の方みたいだ。
通路の先に自然光の明るさが見える。磯を再現した広くて浅い水槽のところまで来ると、海中や影の人間のイメージは消失してごたごたと人の多いだけの行楽地の雰囲気に戻ってくる。屋外のペンギンの岩場に向かっている人の流れから逸れて「東京の海」のコーナーに進む。建物のカーブに沿った窓から太陽が差し、際立った壁付きの水槽はない。解説パネルが増えて博物館然としている。
奥へ行くと水色に統一された真新しい仮設のブースがあって、その中の鉄アレイ型の平面形をしたひときわ浅い水槽に人だかりができていた。サメとエイの泳ぐ水の中に小さな手がたくさん突っ込まれている。魚に触ってもいいよ、というブースなのだ。魚のストレスを気にしてか時間を区切っている。内科の診察時間みたいな区切り方だった。
僕が診察時間を気にしている間に羽田は隙間を見つけて水槽に取りついていた。僕はその様子を離れて見ていた。子供向けの展示なのだけど、子供には親がついているもので、親たちも袖を捲って手を入れていたから彼女の姿はそんなに目立たなかった。ただの華奢な少女にすぎない。ひらひらした袖を肩のところに綰ってプールの縁に左手を突き、上体をぐっと水の上に倒して中州の横を通り過ぎるサメの背中に触る。同じ位置で少し待ってエイの背中にも触る。
いつか羽田は自分のことが異常かもしれないと言ったけれど、たぶんそんなことはない。彼女自身は真剣だし、言い回しは変わっているけれど、その根底にある感性がそんなに特異なものだとは僕は思わない。異常であるという自覚を持てるのであれば、そこには基準があり比較がある。結局、「普通」というものを意識し、認識している。きちんと認識している。だから他の女の子の気持ちを代弁できるのであり、そこに彼女自身の立場をぶつけることができる。いわばそれは反俗という広義の俗なのだ。
羽田はエイやサメの背中に手を伸ばしてたっぷりニ二分くらいプールに居座ったあと、ハンカチで手を拭きながら戻ってきた。笑ってはいないけれど楽しそうだった。
「手を入れると向こうから近寄ってくるんだ」と彼女は言った。「触られるのが好きなのかもしれない。あなたも触ってきたら?」
「僕はいいよ」
「どうして?」
「子供たちの中に混じるのが恥ずかしいから」
「サメが恐いんじゃない?」
「恐くはないよ。触ってもいいサメなんだから」
「ふうん。変なの」
南側のテラスに出る。「あっつい」と羽田。蒸し器の中みたいな暑さだった。「外の方が海の匂いがするのね」
白いカンバスの四角いパラソルが簀造りの台座に立てられ、それが群れで日陰を作っている。日陰の中にステンレスの丸テーブルと椅子が並べられている。冷房がないから人気もまるでない。ここで鬼ごっこをやったって、熱中症で倒れるかどうかは別にして、誰も文句なんか言いやしないだろう。羽田はテーブルに鞄を置いて財布を取り出す。僕はその向かいに座り、持ってきた水筒を見せて「飲む?」と訊いた。
「なに、もしかして豆乳?」
「違う。麦茶。冷えてるよ」
「そう。準備がいいね。でも要らない」
羽田は背中の裾をクリオネみたいにぱたぱたしながら歩いていって自動販売機でリモーネの缶を買ってくる。テーブルの海側の椅子に座って僕には半身を向けたまま、両手を一杯に使ってプルタブを引く。一口飲んで「いかが、近頃の調子は」と訊く。彼女の目は窓の中を眺めていて、「なんだか大勢と目が合ってる気がする」と呟いた。
日差しが強いので目が慣れるまでガラスは真っ黒に見える。屋内のレストランは暗くて雑多で、大勢の人間が立ち止まったり話したりしている。向こうからはこちらが明るく見えるのだろう。
「調子って?」僕は訊き返す。
「好きな人との関係は」
「良くも悪くも」僕は首を振る。「平行線だよ」
「それはあなたが進まないからね」
「そうだね」
「なぜ?」
「彼女には彼女の生活があって、恋人がいて、友達がいて、学校や仕事があって、僕のことを必要とする隙間のようなものが少ないからだと思う。僕が彼女の人生の一部になるためには、その中の何かと交換しなくちゃいけないかもしれない。……つまり、彼女が――それが完璧なものだからじゃないかな。完全無欠という意味じゃないよ。ただ、今のままで完成されていて、閉じていて、繊細だけど安定している。僕なしで完璧なんだから、そこに触れて傾けたり罅を入れたりするのは結局僕の愛するものを自ら破壊することに他ならないかもしれない。それならそっとしておく方がいい」
羽田は僕が話している間に椅子を動かして僕に体の正面を向けた。
「臆病」と羽田。
「だろうね」
「破壊しなければ新しいものは生み出せないわ」
「確かに。だけどそれでは駄目なものもある」
「何?」
「僕が好いているのは今の完璧さだから。それが破壊と再生を経た後に回復するものなのだとしても、等質でも、別物だ。今のままではない」
「あなたってソクラテスみたいね」
「ソクラテス?」
「彼は男色だったでしょう。それで運動場へ行って汗も滴る青少年を朝から晩まで眺めているのが好きだったのよ。好きだった、というか、それより先に進むことができなかったの。うちへ連れ込んだり、身体的な接触を求めたり、なんてところまでは進めなかった」羽田はそこまで言って下目に僕を見た。
僕は考えるための時間を与えられたのだろうけど、特に何も答えなかった。
羽田は続ける。
「なぜって、あなたと同じよ。不細工で年老いた自分によって愛すべき彼らの完璧な美が汚されてしまうことを拒んだのよ」羽田は手を前に出した。「ごめん、同じではないわ。あなたは不細工でもないし老人でもない」
「いや、構わないよ」
僕は海の方を見上げた。美とは何か。性とは何か。様々な議論が風のように僕の中を通り抜けていった。
海側にはプールを隔ててもう少し広いデッキがあって、そっちには帆船のジブに似た背の高いカンバスが三角の影を落としている。その上空に何羽かカモメが飛んでいるのが見える。彼らは翼の先を震わせて器用に風に乗っていた。
前回の羽田とのデートシーンで僕は羽田に新大陸的なイメージを抱きながら推敲していたのですが、いや、違いますね。羽田はギリシャだ。ダンスの曲もエル・チョクロじゃない方がいいかもしれない。
それはそうとこのシーンは書いてる時にサメプールが2010年当時どんな形だったか調べるのにだいぶ苦労した記憶があります。ええ、そういうの結構ちゃんと調べて書いてるんですよ。月齢とか天気とかね。




