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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第3章 音楽――あるいは愛について
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羽田と水族館に行く

 羽田はノースリーブの上にクリオネのような紺色のポンチョを着て、下は股下幾寸もないベージュのホットパンツを履いていた。従ってその裾からサンダルの足先まで彼女の仄赤い異様に細い脚は剥き出しだった。彼女は僕を探しながら歩いてきて、見つけたところでぱっと歯を見せて少し明るい表情をした。けれどそれは彼女が僕の前に立つまでにほとんど消えていた。風に目を細めて明るい駅前の方を見ながら「なぜ来るの」と乾いた口調で訊いた。変な挨拶である。

「君が呼んだからだよ」僕は数拍遅れて返事をした。

「でも私には気がないのよね」

「気がない?」

「このあいだそう言ったでしょ。あなたには好く人がいて、それは私ではないと」

「気がなければ応えてはいけないんだろうか」

「いいえ、別に」

 羽田は南に向かって歩き始める。彼女はたぶん僕の気が変わっていないか確かめたのだろう。もし親切心で嫌々来たんならどうぞ今の反応で堪忍しきれなくなって帰ってほしいというわけだ。でも僕は羽田と前回みたいな話ができるのをむしろ楽しみにしていた。

 勝手に歩いていく羽田を追いかける。この日の羽田は歩くのが速かった。アキレス腱の長くくっきりした脚を大股に繰り出して進んでいく。振り返りもしない。結局我々はそのまま話さずにゲートに着いた。券売所の前にいくつか列ができて、我々の前には三組ほど並んでいた。日陰に入ったので僕は帽子を取って髪をぱさぱさした。僕は白とグレーのボーダーシャツに脛を絞った黒のサルエルを着ていた。靴は履き慣れたスリップオンだった。

「七百円」と羽田。「一緒に頼んであげるから出して」

 僕は財布を開けて百円玉が一枚足りないので千円札を出した。羽田は溜息をついて百円玉を二枚と五十円玉二枚で返した。

「どうして葛西に?」

「別のところがよかった?」

「そんなことないよ。どこでもいいって言っておきながら理由を訊くのも確かに変だけど、何か見たい生き物がいるのかと思って。ウミヘビか何か」

「別に、ウミヘビでもないし、チンアナゴでもない。何でもないし、何でもいいの。生き物全般。水の中にある生き物」

「前は動物園だったからね」

「まあね。あなたと話すなら生き物園の方がいいと思ったの。それとも美術館がよかった?」

「いいや。僕は東京の美術館って好きじゃないんだ。人間にデリカシーがないから。あんなの一分か三十秒だってひとつの作品を一人で独占していられないじゃないか」

「じゃあ水族館でよかったね」

「どうして?」

「相手が動物だもの。動物は自分で誰の前にいるか選べるでしょう」

「たしかに」

 前の親子が捌けたので前に進む。羽田は券売機にお金を入れて「一般二名」のボタンを押す。それぞらクラゲとコウイカの写真がついた入場券が当たった。羽田はコウイカの方を僕に手渡す。もぎりのおばさんの前を通って半券を返してもらう。

「それに、いいでしょう? 何某の画家とかフィレンツェやデルフトの社会について云々するより、他の生き物の話をする方が漠然としていて」羽田は話を続ける。

「漠然と?」

「例えば、海原のように」

「海原」僕は納得しないまま復唱した。

「船に乗ったことある?」

「アヒルさんボートくらいならね」

 僕が答えると羽田は立ち止まって険しい顔で何かを思い出そうとした。

「あ、前にも訊いたか」と羽田。

「うん。不忍池で」

 ボートの話をしたはずだ。

「そうだ」

「あと動かない船なら横須賀の三笠と横浜の氷川丸にも」

「じゃ沖に出たことはないのね」

「ない」

「結構昔、家族で北海道を旅行するのにフェリーを使ったことがあってね、函館連絡船じゃなくて大洗からだったと思うんだけど、なぜって晴れていたのに船の上から全然陸地が見えなかったから。船が走っている間に甲板に出て、風にあたって、船が吹き上げた風にカモメが乗っているのが見えて、船は後ろの方にずっと白波を引いていて、そういうのはすごく気持ちがよかったのよ。ほとんど揺れもなかったもの。でも舷側から真下を見た時に真っ黒みたいな底の見えない海があるの。そこに落ちたらどうなるんだろうって、私すごく肝を冷やしたな。手摺を握ってるけど、汗をかいて滑りそうで。実際潜ってみたら色々生き物はいるのだろうけど、そこは人間の日常が及ばない世界。人間が居続けてはいけない世界。人間には鰓もないし、潮水も飲めないし、そこで生き続けるには何かが不足する」

 羽田はようやくゆっくり歩きながら、途中自分で自分の話に頷きながらにこりともせずに話した。

「大概の生き物は人間の世界とは別の世界に生きている」

 彼女の言いたいことはだいたいわかってきた。

「つまり、知ったかぶって細かい薀蓄論議をするのを許さないんだ。生き物というのは。未知の領域は憶測を前提に語らなければならない。そういうところが、つまり、漠然としている」まだ喋りたいことがあるのか羽田の様子を見てから僕は言った。

「まあね」羽田の答えはあまりぱっとしなかった。

「ここには慣れているの?」僕は別の質問をした。あまり掘り下げるのもナンセンスな気がしたからだ。

「それなりに。小学校のオリエンテーションだとか、中学の校外学習でも。ことある度に来るものだから。でもここ三年くらい来てない。だから、マンネリってことはない。あなたは?」

「僕は初めてだよ。水族館といったら専ら八景島だったから」

「イルカのいる」

「うん。なんだか地の果てのような場所だったな」

「同じ東京湾でしょ?」

「まあ、そうなんだけど」

 ゲートからエントランスまではマスドライバーの発射台のようなまっすぐの道が敷かれている。階段を上がると空気の霞みの下に冴えない黒っぽい灰色をした海が広がっていた。左右に港湾やプラントの人工的な陸地が続いているので茫漠とした広がりは感じられない。羽田の言う海原とはきっと別物だ。それに八景島とも。

 後者の場合、八景島と葛西の比較というより、過去の僕と今の僕の比較でもあるのだろう。僕がこの世界をどれほどの広がりの中に捉えているのかという問題なのだ。ティーンエイジになるまでの僕はきっと外国や海の外の世界を本当には信じていなかった。かつて僕の世界はとても狭い領域の中で完結していて、僕にとってはテレビの中の外国は仮想に過ぎないもので、行ったことのある場所だけが実在だった。

 巨大なライトブイのような雰囲気のガラスの塔から館内に入る。エスカレーターの縦穴は海中に潜っていく感じがある。魚たちの泳ぐ水槽の中にマリンブルーのハイライトがあり、対して壁や床や人間のいる側の構造は何もかも闇に塗り込められている。

 人間は影であり、存在せず、人間同士空間の中で接近していながら互いの関係性を持たない。水槽が大きいから、こちら側に人間が多くても一人が水槽を独占していられる。その独占が他の独占に影響を及ぼすことはない。水槽は縦横も奥行きも大きい。魚はその中でのびのびと泳いでいる。サメもマグロも大きい。一人の人間の影のうしろにじっと隠れて見えないなんてことがない。我々は水槽ごとにアクリルから離れて通路の壁に背中をつけ、青く透き通った水の中を眺めた。爬虫類館とは違う。鑑賞に集中できる。人間の肉体を忘れて視点だけが水中にあって、魚たちが泳ぐのを近くで見ているような感じ。マグロが秩序のない隊列を組みながら銀色の徹甲爆弾のような体をわずかに左右に振ってゆったりと泳ぐ。肌の質感の金属的なところ、あるいは樹脂のようなところ、真っ黒な大きな目玉、その動き。

「なにを考えているのだと思う?」羽田は隣で顎を上げたまま訊いた。

「君が?」

「違う。この魚たちが」

「なにも」

「なにも、ね」

「羽田の見立ては?」

「イワシをどうやって捕まえるかに関しては様々な計略を巡らしているに違いないと思うの。でもそれは技術であり選択的思考に過ぎない。なぜそれを選択するか、自分が何者であるか、そうした科学的思考を持たない。つまり哲学を。それは人間と比較した時、多くの生き物がより幸福な点であると思う」

「そうだろうね」

「私時々自分が人間であるということが嫌になるの。なぜ人間はこんなに考えるのだろうって。他の生き物は自分について考えることに時間を割いたりしない。哲学をしない別の方法に従って生きている。人間が考えている間に世界についてもっとたくさんのことを感じ、受け入れ、無意識の下で理解している。そういう生き方が時々恋しくなる。何も考えず、感じることが全てであり当然で、こうした言葉さえ動物にとってはナンセンスだ。でも、そんなふうに思うのは時々。いつもいつもじゃない。なぜって、実際に自分が他の動物になることを考えると、そこに言葉がなく、言葉による記憶もなく、そういった空白がなんとなく怖ろしいからなの。怖ろしいの。そこから言えるのは、つまり、人間的な充実というものは幸福からは最も遠い場所にあるのよ。無意識の理解というのは人間より多くのことを知っているということ。だけど、でもそれを明確な形で説明したり記憶したりできないということは人間の基準でいうある種の頭の良さからは外れている。私が言いたいこと、わかる?」

「わかるよ。僕も全てのすいすい泳ぐ魚たちが一流大学の理学部で流体力学をみっちり学んできたとは思わない」

「私考えすぎなの」と羽田。「それはわかっているのだけど、最近ありとあらゆることに考えが及んで、まるで思考がいつもより小さな粒に分解して物事の奥深くに浸透していくみたいに、色々なことに気がついて、それについてぐるぐる考えている」

「君は頭のいい人間だから、あえて考えているんだ」

「そうね。もし幸福になりたいのなら悩む必要なんてない。自分には悩み事がある、自分は不幸だという人間は世の中に結構いるけど、全く欺瞞だと思う。私は違う。私はただその方が満足できるから深く潜っていくの。そこには光もなくて、小さな生き物の死骸がふわふわ漂っていて、ほとんど垂直に落ちる崖の側面だけが続いていて、そこにわずかに細く連なった深海サンゴの足場を辿っていくしかないの。底を覗き込んだらいけない。もっと真っ暗で気を失いそうになるから」

 僕は羽田が言ったような深海のイメージを以前にも想像したことがあるのを思い出した。ふと、羽田をその深海へ誘い込んでいるのは僕なんじゃないかという気がした。爬虫類館に誘ってしまったからかもしれない。

「マリアナ海溝へ」と僕。

「そう、とても深い。魚にも過酷な世界」

「大鳳の残骸を見つけよう」

「なに?」

「空母だよ。七十年前にちょうど海溝の上で潜水艦に沈められた」

「あなたもわりとそういうの好きよね」

「まあね」僕はそう言って少しほっとした。羽田は空母には興味がないみたいだ。

 羽田は肩を竦めたあと、少し目を大きくして水槽の中の闇を見つめた。ほとんど目の前をマグロが泳ぐ。ずっしりと重い金属の球体のような目玉が少し動いてこちらを見る。束の間にマグロは泳ぎ去る。羽田はその後を目で追い、その尾鰭がガラスの屈折の中に消えてしまうと左足を一歩引いて水槽のこちら側にいる人間たちの影を見渡した。人間も流れている。その流れに加わって次に進む。マグロの水槽は上から見ると大きな環形をしていて、上に跨る通路から寄り道して環の中に降りるのが順路になっていた。

「僕」は羽田の狭霧化を危惧しているわけです。自分が毒を染してしまったんじゃないかと。

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