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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第1章 詩――あるいは蛇について
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絵は解析であり、記憶の触媒である

 再び欄間を見上げる。鷹や鷺のモチーフなら田舎で見たことがあった。孔雀はない。初めてだ。尖った嘴、カールした飾り羽。精巧な彫り。厚さの制約があるので奥行きが少し押し潰されて完全な立体ではないのだけど。

 踏み台代わりに折り畳み椅子を出してもらって、正面から彫刻が見える位置に立てる。鞄から鉛筆とクロッキー帳を出して椅子に登り、新しいページに彫刻を輪郭から写していく。

 そして時々自分の手元越しに狭霧の様子を窺う。狭霧はノート写しに集中している。集中しつつも僕の方を気にかけている。でも僕の視線には気づいていない。

 彼女は僕に何かを求めているのだろうか。僕が今日ノートを渡しに来ただけなのはわかっているはずだ。それでいて僕にお茶を出したりようかんを出したりする。現にかなり長い時間話し込んでいる。一人でいる寂しさが話し相手を求めさせただけなのだろうか。

 一人きりで考えることはもう十分やったから、今度はそれについて誰かと議論しよう。

 それは理解できる気持ちだ。だけど、それにしてはどこか煮え切らない。ここから先はやめておこう。言わない方がいい。そんな躊躇をこの日の狭霧にうっすらと感じた。学校にいる時の同級生として割り切った距離感ではないのだ。

 とうとう狭霧と目が合った。目を向けたまま考えごとを始めてしまったせいだ。

「気が散るかな」僕は訊いた。

「いいえ、全然」狭霧は目を大きくする。僕の言葉が意外だったらしい。

「気が散るなあって目をしていたよ」

「困ったな。ほんとにそんな気はぜんぜんしてないのに。ところで、スケッチは終わった?」

「だいたいね」

 狭霧が膝立ちで居間の端まで歩いてきたので僕は椅子の上にしゃがんでクロッキーを彼女に見せた。

「すごく精巧に描くんだ」

「形を憶えておきたいから」

「形を憶えておきたくて?」狭霧は顔を上げた。

「そうだよ」

「写真ではなくて」

「カメラを持っていたら使っただろうけど、でも描く方が形を捉えるにはいいと思う。対象物をよく見なければ写しようがないから。それに、よく見なければわからないこともある。複雑に見えるものが実は単純なつくりをしていることもある。単純に見えるものが実は複雑なつくりをしていることもある」

「解析であり記憶だ」

「解析であり、記憶」僕は繰り返した。

「違う?」

「いや、違わない」

「ミシロはいつかこの絵を見てその欄間を思い出す」

「そのために描いたんだ」

「じゃあ、記憶の補助であって、絵の中に全てが表れているわけではない」

「だろうね。色をつけていないし、材質もわからない」

 狭霧は片方の目をぎゅっと瞑って拳の背で自分の頭をこんこん叩く。何かアイデアが出かかっているらしい。

「つまり絵は記憶そのものではなく記憶の触媒なんだ」

「ふむ」

「そして絵は現実そのものではなく現実に対する感覚を記憶する」狭霧はクロッキーを閉じて僕に返した。僕はしゃがんだままそれを膝と胸の間に差し込んだ。

「私はイギリスに行ってきっと変わるよ」

「でもそれは肯定的な意味じゃないんだね?」

「別の人間になる。夏休みの始まりまでここで生きていた私は永遠に失われてしまう。記憶が残っても、私そのものはきっとそうじゃない」

 狭霧は僕に手を差し出した。僕はその動作の脈絡を読み取ることができずにしばらく椅子の上にしゃがんだままだった。

「いくつか訊きたいことがあるの。遠い未来じゃなく、目と鼻の先にある問題について。二日後の問題について」

 狭霧は理科二分野のノートを写し終えていた。あとは解説だ。僕は座布団の上に戻って彼女の質問に答える。

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