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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第3章 音楽――あるいは愛について
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ブドウ棚で話す

 羽田と二度目のデートを約束したのはまだ七月だった。

 教室の冷房が点くまでの間、僕は相変わらずブドウ棚の下のベンチに座ってカラスと遊びながらグリム童話を読んでいた。朝の空気はまだラムネのように冷たく、陽の光は浅く差し込んで校舎の薄汚れたクラックだらけの壁を白く照らし、カラスは時々体を膨らませてどこかに向かって鳴く。重なり合った葉の間から青い空が見える。体育館の高い窓から試合用タイマーのブザーが聞こえる。全て遠い。僕の近くには誰もいない。無視されるのでもなく、遠ざけられるのでもなく、そもそも誰もこの場所を意識していない。根本的な不干渉。少しの窮屈さもない。僕はそれが好きだった。

 そこへ羽田が現れた。ブドウ棚に人間の侵入者があったのは初めてのことだ。カラスは棚の屋根の上に飛び移った。僕は何かの気配を感じて本を閉じ、校舎の間から歩いてくる羽田の足の運びを見守った。ほとんど厚みのない肩や腹にぴったりとしたクリーム色のサマーセーター、スエードの赤いタイトスカート。彼女は僕の横へ来てベンチに腰を下ろした。どちらも挨拶をしないまま数秒の沈黙があった。沈黙は静寂とは少し違っている。

「ねえ」羽田が先に口を開いた。「女が子供を産む時ってすごいのね。激しいセックスのような。あれで男は悶々としないのかしら。そんなことより生まれてくる子供に注目しているから?」

「お姉さんのこと?」

「そう。産んだの」

「それはおめでとう」

「そうね。だけど、私にはそうじゃないの。その時私も立ち会わせてもらったの。なんだかやむにやまれなくて、お願いしますって頼んで」羽田は眉間に皺を寄せて足元の石ころを見つめて言った。「ただ、なんというか、綺麗だったな。私のお姉さんは綺麗だって思った。産む直前まで苦しんで喘いで、私その間手を握りながらぐじょぐじょに濡れていたけど、それが、お医者さんが赤ん坊を取り上げて、お姉さんはほっとして、私の方も途端に気持ちが晴れて、その姿がとても綺麗だと思えたのよ」

 彼女は目を上げて僕を見据える。僕は「うん」と頷く。

「私、異常じゃない?」訊き方は微妙なニュアンスだった。

「どうだろう」

「身内って難しいものね。距離なんかないはずなのに、愛情を伝えるのにキスやハグなんて抵抗があってとてもできないんだ。赤の他人なら、親密でありさえすれば簡単なのにね。おじいさんもおばあさんも家族がみんな喜んでいるのに、私だけ巧く笑えなかった」

「嬉しいのに笑えなかった」

「喜びではないの。それは喪失でもあるの。でも全て肯定的な気持ち、綺麗な気持ちなのよ。わかる?」

「なんとなく」

「そう」羽田は体の中に溜まりすぎた空気を吐きだして長い溜息をついた。息が震えていた。

「身体的な慰めを求めてる?」僕ははっとしてそのまま訊いてしまった。

「少し」

 僕は本を置いて、羽田の方へ腰を寄せて右手で背中を撫でた。早く捕まえてやらないとどこか遠い世界まで浮かんでいって二度と戻ってこられないような気がした。セーターのウール越しに余分のない背中の硬さや薄っぺらい脇の鋭いエッジを感じた。羽田は僕の顎の下に頭を差し込んで右手で僕の左の手首を握っていた。羽田の肉体のあまりに華奢な手触りや熱や心臓の鼓動は確かに僕の感覚の中にするすると入ってきた。しかしあまりにするするしているので僕の感覚の中で熱を感じるほどの摩擦を起こさなかった。

「君はたぶん異常性の中に自分自身を求めていたんだ。だけどそれは大して異常なことじゃなかったし、俗に混じることを怖れることもなかったんだ。アルフォンス・ミュシャは広告や商品にどっさりイラストを卸す通俗的な画家だったけど、彼の絵はどう見ても彼の絵だったよ」僕は始終舌先と唇だけで呟いた。結局聞かれてしまったのだろうけど、はっきり伝わるような声量で言う気にはなれなかった。

 そのうち彼女が「もういい、放して」と言った。僕は羽田の体を撫でるのをやめて元の位置まで離れ、本を膝の上に置いた。羽田はほとんど素面に戻っていた。両手を腿の下に敷き込んで背中を丸めたまま真上を見る。天井に止まっている虫を確かめようとするみたいだった。

「ブドウの匂いがする」と羽田。「房がなっている」

「ブドウだからね」

「いい匂い」

「ブドウが好き?」

「巨峰は好き。デラウェアは好きじゃない」

「どうして?」

「粒が小さいから。あの粒をひとつずつ口に入れてひとつずつ中身を押し出しているうちに舌の奥がざらざらしてこない? お姉さんのお見舞いにもデラウェアの入ったフルーツのバスケットがあって、どうして巨峰にしないんだろうって思った」

「キャンベル・アーリーは巨峰の直系の先祖なんだよ」

「へえ。そういう品種なの?」

「そこの銘板に書いてある」僕は左手の柱を指す。

 羽田は立ち上がって銘板を読みに行く。

「キャンベルズ・アーリー この葡萄はウィリアム・マクヘラルド君と眞方淑生君の数奇なる交流の記念として雄雌株とも1998年にオハイオ州デラウェアのメアリーズビル高校から贈られたものです。当品種キャンベルズアーリーは園芸家のジョージ・ワシントン・キャンベル(1817‐1898)が1890年にデラウェアの地で交配に成功し誕生しました。日本には1897年に持ち込まれ、今日でも北海道や青森県など比較的寒冷な地域で栽培されています。当校では専門家の指導を受け敷地内で最も栽培環境に適する場所を選んでこの葡萄棚を設置しました。1998年12月吉日」

 羽田はきっちり最初から最後まで読み終えて僕に目を向ける。「どんな味がするか、食べたことがある?」

「ない。収穫の時期になると誰かが鋏でもってちょん切ってどこかへ持っていっちゃうんだ。用務員のおじさんか、それか生物部だと思うけど、おいしく食べてるのかな。二学期になるとなくなっていて、枝についたまま枯れたのも辺りに食べ散らかした形跡も見たことがない」

「夏休みの間なのね」

「夏休みだから僕にはわからない」

 羽田は戻ってきて僕の横に座る。

「あなたどうしてここに来るの」

「昨日も一昨日も、先週の金曜日もここに来た。習慣だよ」僕は答えた。

「去年からずっと?」

「雨でも降らなければね」

「テストの朝も」

「まあ」

「習慣になる以前にはここに来る理由があったでしょう?」

「まあね」

「何?」

「確か教室でじっとしているのが息苦しくなったから」

「きっと空が見えないとだめなのね」

 僕はそう言われてみて真上を見る。「そうかもしれない。羽田はどうやって僕の居場所を突き止めたの?」

「海部に訊いた」

「じゃあ海部は僕がここに来ることを知っているわけだな」

「由々しき事態ね」

「由々しき事態だ」

「ところであなたはブドウ棚の時間を荒されて苛々しないの? 一人になるためにここにいるんでしょう」

「言われてみればそういう目的もあったかもしれない」

「やっぱりね。じゃあ私行くわ」羽田は立ち上がった。背中を向けて肩に鞄をかけ、振り返って訊く。「ねえ、もう一度だけデートしない?。今は劇団の公演があってハードだから、もう少ししてから」

「構わないよ」

 僕が答えると彼女はしっかりと一度だけ頷いて校舎の間に消えてしまった。僕は首を伸ばして教室の窓の中に姿が見えないか探したけれど、彼女は教室には入ってこなかったし、廊下を歩いていく気配もなかった。部活の朝練の前だったのかもしれない。僕の隣にいたのはほんの五分程度だった。羽田がいなくなると僕の周りには朝の静かな空気が戻ってきた。それは白く透き通っていて、吸い込むと草の先についた露の味がした。

 それが七月のことで、羽田の言ったデートは結局八月下旬になった。彼女は行き先に葛西臨海公園、時刻に九時半を指定した。僕はその十五分前に着いてコンコースの壁で『第二の性』を読んで待っていた。

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