ネフシュタン
彼は僕を家まで送ってくれるという。今度はノアではなく落ち着いたブルーのBMWを出す。車庫の中でルーフを閉め、僕は助手席に乗る。途中で雨雲の下に入る。ウィンドウに水滴が付き、やがて無数の筋になって外の景色が見えなくなる。
「そういえば、ミシロくん、君はミュシャの最期を知っているか?」
「さいご?」
「死に際だよ」
「いいえ」僕はしばらく心当たりがないか考えてから答えた。「一九一〇年くらいからボヘミアに戻ってチェコやスラヴ民族のための作品に傾倒していったのは知っていますけど」
「ナチス・ドイツの獄中で死んだんだ」
「エスエス」
「いや、ゲシュタポだ」
「ゲシュタポ。秘密警察」
「うん。ちょうどスペインのファシストとコミュニストのゲリラがドンパチを収めた頃だよ。二次大戦の直前、チェコはその一部地域をドイツに併合された。土地を奪われたんだ。いや、しかし強奪ではない。イギリスや他の列強の承認のもとによる合法的な併合さ。結局のちの侵攻によってナチ党が全土を影響下に置くわけだが、アーリア『人種』至上主義を掲げる彼らにとって東方民族興隆の旗手となりうるミュシャは危険な存在だった。何らかの創作活動に難癖をつけてしょっぴくのは大して難しいことじゃなかったはずだ。ファシズムというのは監視と予防を尊ぶものだからね。ゲシュタポは決して過酷で非人道的な尋問をしたわけじゃない。仮にするつもりだったとしても彼が死んだのはそれ以前のことだった。老人の肉体は収監という生活環境そのものにもはや耐えられなくなっていたんだ」
僕はミュシャが死にゆくときの様子を漠然と想像した。けれど四〇年代の冷たくて傲慢な質感の牢屋の中にいる年老いたミュシャの姿をイメージするのは簡単なことではなかった。ミュシャが一世を風靡した花の時代と戦争の時代とを上手く結びつけることができなかった。二つの時代は本当に同じ世界の出来事なのだろうか。
堀切橋を渡る手前でのろのろした車列の後尾につく。右前方に救急車がいた。回転灯を点けず、サイレンも鳴らしていない。
「ネフシュタン」白州さんはとても小さな声で呟いた。それからその呟きをかき消すように言った。「前に救急車がいるね」
「はい」
「なぜサイレンを鳴らさないんだろうか」
「緊急性のない移送なんでしょう」
「東京都消防庁の救急車だよ」
「ええ」
「消防の持っている甲種の救急車はそういった用途には使われない」
僕はそれを聞いてようやく背筋がぞくっとした。
「ボディの横に杖に絡みついた蛇のマークが描かれているのが見えるかい」
「ええ」
「病院という空間はある人間にとっては再生を待つ場所だが、またある人間にとっては死を迎え入れる場所でもある」
「ええ」
「蛇はそれそのものが異端に満ちた魔であると同時に、知や再生の象徴でもある。『汝蛇を作りて桿上に載せ置くべし。凡て咬まれたる者之を仰ぎ観ば生くべし』」
「蛇をつくって棹の上に載せなさい。咬まれた人々は全員それを仰ぎ見れば生きるだろう」
「そうだね」
「咬まれた?」
「蛇に咬まれた人々だよ。放っておけば毒が回って死んでしまう。しかしその毒を浄化するのもまた蛇だ。蛇の像だ」
「その像がネフシュタンですか」
白州さんは僕の問いには答えないまま掌で顔を拭い、肩で息を吐いた。湿気が鬱陶しいのだろう。
雨はフロントガラスに降りつける。ワイパーのパッキンがぎいぎいガラスをこすりながら水を上下に追いやっている。
「人間は生産と消費の中で生きている」と彼は言う。「世の中を食い潰すだけの人間は馬鹿だ。物質的に、精神的に、どちらでもいい、何か創造することをしなければならない。さもなければ、何百何万とニュースの中で数を読み上げられるだけの人間に紛れ込んでしまう」
「だから白州さんは描き続ける。つくり続ける」
「君もだろ」
肯く。
「でも今この二つの席の間には大きな違いがある。広い溝が。あるいは僕の創造は消費的な活動かもしれない。主人に要求されればそれに応じて作らなければいけない時もある。すでに他人の中にでき上がっているイメージを具現化するという消費だ」
「僕は僕の作ったものがすでに誰かによってつくられたものではないか、酷似していないか、影響を受けていて独自性が無いと判じられないか、それが不安です」
「誰にも創造できないものはある。何者にも生産できず、ただ消費するしかないものが。何だと思う?」
僕はしばらく考え込んで「過去」と答えた。
「過去か。記憶や歴史ということか。面白い答えだね。そして僕の考えた答えに限りなく近い。だけど、思い出すことや事実の探求が必ずしも生産性を持たないというわけではないと思うな。そこには必ず人間という主体があり、彼の主観によって解釈され、彼以外の人間に伝えられるという性質を持つ。それはあくまで彼の語る過去であり普遍的な過去にはなり得ない。そこには創出の余地がある」
「じゃあ、何です」
「それは時間だ。人間、時間に限っては消費するしかない。創り出すことも、取り戻すこともできない。あまりに速く過ぎ去った喜びがあり、あまりに遅々として訪れない不安がある。衝動の下では短すぎ、無聊の下では長すぎるが、保存や融通は利かない。過ぎたことは受け入れるか、忘れるしかない。有限性は人を焦らせることもある。自分が死ぬ前に、眠くなる前に、意欲が尽きる前に、自由が終わる前に、誰かが先を越す前に、すべきことはあまりに多い。人間は変化する。心も、体も、そこに与えられる価値も、一定ではない。生まれるものには期待を、失われるものには恐怖を。とりわけいま手の中にあるものの消失を怖れる」
「自分が失われてしまう恐怖と闘いながら生きている」
「お化け屋敷が好きな人と嫌いな人がいるように、人によってその恐怖を感じる度合いは違う。とても前向きなモチベーションとして捉えられる人もいる。しかし未来と過去について考える時、人は良くも悪くもナーバスになる。何を得たか、何を失ったか。自分の生き方が正しい方向かどうか。これでいいのか。これでいいのか」
白州さんは右側のウィンドウを少しだけ開く。
雨の匂いが堤防を越えた川のように流れ込んできた。
「時々思うんだ。僕は実は傘寿を超したお爺さんなんじゃないかって。何かの拍子に魔法にかけられて体だけ若返って、昔のことはすっかり忘れている。ただ長く生きてきた感覚だけが心に刻み込まれているんじゃないかって」
その夜僕は羽田のバレエのビデオをテレビに繋いで見直した。そして記憶を頼りに二三枚丁寧に描いた。ビデオは彼女のしなやかな体や恐ろしく細い手足はきちんと記録していた。彼女の体はとてもきれいで、僕は何度でもその映像を見直していたかった。けれど僕の感じた踊りの良さは何もかも失われてしまっていた。まるで夢の中で手に入れたもののように跡形もなく消えてなくなってしまっていた。だから僕は最後に動画データを削除した。彼女の踊りの価値を本当に綺麗なまま生かしておくためにはその映像は消去してしまわなければならなかったのだ。
絵は良い仕上がりだった。感性をニュートラルに戻すために風呂に浸かって、それからリビングの壁に留めて眺めてみても、やっぱりそれ以上手を加えたいと思わなかった。僕はそれをプリンターでスキャンして、容量を小さくしてからメールで羽田に送った。
返信は翌朝にあって、「ありがとう/とても上手」と二行だけだった。おそらく字面通りほとんど何も感じなかったのだろうけれど、僕は受け取り方を工夫して、彼女がもっと多くを感じた中から言葉になったのがその二言だけだったのだと信じることにした。それで納得できるくらい気持ちのいい朝だった。
ニスの件は三日後に白州さんから電話があって、水性ニスを買ったから塗りに来てくれと言われた。薄く重ね塗りをしてその合間に表面を研いでやるといい艶が出てコーティングも強くなる。四度重ね塗りすることにして、時間はあったので一日か二日置きに白州さんのところに通った。アトリエの隅に新聞紙を敷いて、その上にニケを移して、目の細かい鑢で表面を優しく磨いたあと、翼の先や指先から順に薄めたニスを刷毛で塗っていく。僕が黙って塗っていると、時には白州さんも自分で仕事をしていた。そんな時僕はアトリエに新聞紙の広さの分だけ領土を得たようで気持ちがよかった。四日も通えば日ごとに館の状況は違っていた。二日目は昼過ぎの遅くに作業を始めて受験生のクラスにぶつかりそうになったし、次の日には教室の大学生と白州さんの知り合いの彫刻家が来ていた。
僕が着いた時白州さんはガレージで彫刻家と話していて、僕の方はもういつも通りのことなので彼の対応は素っ気なく「上がってくれ」と言って上を指すだけだった。それで上がってみるとアトリエに見知らぬ人がいた。絵を習いにきた大学生だろう。でもそう立て続けにイレギュラーが起こるとも予測できないわけで、僕はあからさまにびっくりした。
彼は大判のカンバスとイーゼルの手前に座ったまま腰を捻ってこっちに半身を向けた。黒いエプロンをしっかり締めて、頭の形がよく、利発そうな目をした、すらっとした青年だった。絵の方は油彩、全体的に象牙色で、その中にあっさりと人や建物の輪郭が描き入れられ、光がまだ単色の早朝の風景のようだった。
「もしかして君があのニケを持って来たって人?」大学生が訊いた。取り澄ましていて戸惑った様子はちっともなかった。
「鑢の音、気になりませんか」僕の返事はかなり飛躍していた。
「構わないよ」大学生はやはり泰然として答えた。けれど体の向きを戻そうとした時にパレットと親指の間に挟んでいた筆を床に落としてしまった。「しまったな」
大学生は壁の作業台からティッシュを一枚取ってきて、そこに洗筆用の油を含ませて床を拭った。
「それだけきちんと敷いていればいいだろうけど、君もまさかニスやなんかこぼしてないだろうね」
「今のところは」
「こういうの気にするからさ」
「確かに、床、綺麗ですよね」
「床でも壁でも、先生はあんまり汚したくないんだと思うよ。この建物を所有しているわけじゃないから、そこに汚れがついて自分の痕跡が残るの、自分のものになるみたいで厭なんじゃないかな。こんなところに住めたらきっといいだろうけど、住んでみたら住んでみたで、住むだけの問題でもなくなってくるのかもしれないね」
見上げた生活を与えられて、それが羨ましむべきものであることは否定のしようがない。かといって不安が消えるわけではない。もっと繊細な問題を生じることになるだけで。
大学生はティッシュを捨ててついでに窓際まで歩き、目を細めて庭を眺めた。景色は日差しのせいでほとんど白く抜けていた。
無心にニスを塗ったり表面を研いだりしていると時々無性に深理さんの声やピアノの音が聞きたくなった。僕の話をゆっくり聞いてほしいような気がした。 四日の間、けれどどの日にも深理さんは来ていなかった。まあ僕の知っている人がいるなら白州さんも言ってくれるだろうし、期待が叶ったところで二人の関係を邪魔する筋合いは僕にはない。
僕は作業を続ける。研磨するとニスの表面が滑らかになる代わりに曇るので、最後の塗りの後は触らずに置いて、それで完成にした。
白州さんの歴史認識はあまり正確ではないです。歴史家じゃないし、歴史マニアでもない。きっとミシロくんとの出合い以降にちょっと気になってミュシャの経歴でも調べてみたんだと思います。
ここでは互いに隔たったミュシャの時代(「僕」)と戦争の時代(狭霧)を結びつけています。




