ニスを塗らなければならない
一時間ほど経って僕は目を覚ます。意識と現実の擦り合わせのためにそのまま二十分くらいじっとしていた。時計の針が回る。辺りの雰囲気が妙に不安を誘う変化を起こしていることに気づく。
天気が悪くなっていた。青空は隠れて灰色の雲に閉ざされている。コーヒーテーブルの上のグラスと図版はなくなっている。僕の洗濯物も取り込まれている。ハンガーはカーテンレールに、下着と靴下は広げた状態でソファのアームレストに掛けられている。
台所へ行って蛇口から両手に水を汲んでうがいをする。タオルで口と手を拭く。リビングの真ん中には僕のニケがまだ突っ立っている。白州さんの姿は見えない。ダイニングテーブルに動画編集をしていたパソコンがまだ伏せられている。アトリエにも居ない。壁に立てかけたカンバスの前に木椅子と作業台が置かれているだけで、作家が座るべき席はぽっかりと空いている。前に描きかけだった絵は画架に乗せられたまま少し奥の方へ追いやられている。絵具が塗られ、既にそれなりの完成品くらいの精度に達している。しかしまだ写実の域ではない。筆の感触がくっきり残っている。白州さんは彫刻するように絵を描く人なのだ。モデルはやはり深理さんで、首を前に出してこちらを静かに見つめている。けれど注意して見ると、顔の正面を画面の正面からほんのわずかに逸らしていて、それがそのまま彼女と鑑賞者の気持ちの疎通にも影響を与えるような感じだった。何か一つだけ真正面に受け止められないことがある。だけど何だろう。わからない。
振り返るとリビングにはニケが立っている。
何か完全不変の神のようなものを思いながら僕はあの像を彫ったのだ。それをふと思い出した。終えてみれば、けれど、理想通りの作品などというものはない。僕の腕や手が完全なものではないからだ。
白州さんの取り込んでくれた服が乾いているのを触って確認してそちらに着替える。借りた服は畳んで脱衣所の洗濯機の上に置いておく。リビングに戻って庭に出るためのガラス戸を開いて外に顔を出す。乾いた冷たい空気が部屋から流れ出る。湿ってびりびりと電気を含んだ空気が空から降っている。デッキに爪先を下ろすとまだ太陽の熱が半分の半分くらい残っていた。熱いと温かいの境界。
誰かが玄関の扉を開ける。風が通って僕は背中からカーテンに吸いつかれる。
「よく眠れたかい」白州さんの声が背後から飛んできた。「結構疲れていたみたいだね。すぐ眠ってしまったから。呼んでも全く反応しなかった」
僕はカーテンの抱擁を掻き分けて彼の手元を見た。「七宝焼?」
「ああ。完成品だよ」白州さんは僕の方へ歩いてきてつっかけでデッキに出る。作品を空に翳す。汗で彼の鼻筋が光っていた。「自然光の方が発色がいいはずなんだが」
それは初音ミクを模したステンドグラスだった。コミック調でせいぜい三等身。輪郭の真鍮が金色に光る。ライトグリーンの透き通った孔雀石のような流紋が綺麗だった。
「綺麗ですね」
「なかなかの出来だ。何度か失敗してここまで来た」白州さんは初音ミクを下ろして細めた目で空を見上げる。
「天気が悪くなりましたね」
「今日はひと雨あるらしい。ニケ像はどうするか決めたかい? 持って帰るか、それともここへ置いていくか。早く決めないと、雨が降ってからでは積み込めない」白州さんは部屋に入ってガラス戸とカーテンを閉める。「おっと、毛布を畳んでくれたのか。大変ありがたいんだがしばらくのあいだ干しておいた方がいいかもしれないな。広げるよ?」
「ええ」
白州さんはソファの背に毛布を広げて左右の高さを合わせて掛けた。ぴんと張った片持ち式のテントみたいだ。
「洗濯物、ありがとうございます」毛布のことで思い出したので腕を広げてお礼を言った。
「それは構わない」白州さんは一度だけ簡潔に首を振る。「それで、ニケだが」
「こいつの処分は僕に責任があります」
「処分、と言うと?」
僕は答えに詰まった。
「壊したいということか。今すぐにというわけでもなさそうだが、だけどそれはあまりにもったいないな」
「正直なところ、この彫刻が常に自分の目や手の届く場所に置かれているという状況を想像したくないんです。同じ家の中でうまく共存できないような気がする。それは何か不吉な感触のする想像なんです」
「うん。少しわかる気がするよ。自分の作品というのは完成させたつもりでもじっと見ていると悶々としてくるものだ。どこか手を加え足りないところがあるんじゃないかって。作品の完成のタイミングというのは作品の方から教えてくれるものではないからね。しかし、わかるとはいえ、壊すのはお勧めできないな。特にこういった材料、テーマのものは。時間をかけた分だけ君は魂の火をここに注いだのだ。君が霊的なものを信じるかどうかはわからないが、僕の始末が悪い。それだったら僕が貰う方がいい。それともここへ来た時に見かけるのも厭かな? まあ、でも、どちらにしても保存のためにニスは塗っておいた方がいいな。うちに置いとくんなら、君自身で何度か来てやってもらう手間は省きようがない。生憎僕は人の作品に手を入れたり、その逆も嫌いだから、そこは勘弁してくれよ」
「白州さんが良ければ、置いていってもいいですか」僕はそう言って、それからちょっと付け足す。「ニスは責任持ってやります」
「それは貸す、預けるという意味で?」
「できれば引き取ってほしい。差し上げます」
「いいのかい?」
「いや、迷惑じゃありませんか?」僕は意外さと情けなさでいっぱいだった。
白州さんはわざとらしく笑った。「とんでもない。芸術の贈り物というのもなかなかないからね。さあ、アトリエから見えるところに移動させよう」
「制作の邪魔になりませんか。気が散りそうだけど」
「いいんだ。最近の僕は少なからず君の影響を受けている。ミコトが君の話をした時からなんだか魚の骨が引っかかったみたいな感じがしているんだ。人は一度感化されたら嫌でもその影響下でしばらくの間はやっていかなければならない。だったらとことん影響されてみるのも悪くないだろう」
白州さんはニケの膝を持って抱え上げ、僕は下敷きのゴム板をグランドピアノの横に移動させる。白州さんはアトリエに入って、いつも彼が使っている椅子に座って具合が悪くないか検証した。向きを少し窓の方へ動かしてもう一度確かめる。今度は彼の理想に嵌ったようだ。
「ニスって普通に水性ニスでいいんですか?」
「たぶん。……いや、どうだろう。水性か油性か、あるいは渋や油の方がいいのか。僕も木彫にはあまり縁がなかったんでね、材は……、ええと、タブノキと言ったか。詳しい知り合いに今度訊いてみるよ。美術部の先生もちょっと頼れないだろ? 僕の方で訊いて、そしたらまた君に連絡を入れよう」
「すみません」僕はピアノ椅子に腰かけてニケを見上げる。「僕はこの像に自分のアイデンティティを求めていたんだと思います。不変の作品によってその作者もまた不変のアイデンティティを与えられる。まず神様がいて、誰か人間を手の上に乗せて命を吹き込むように。でも不完全な人間には完全な神様はつくれない。だから妙に人間くさい天使、僕のための天使になってしまったのだと思う。ただ、意識的にしろ無意識的にしろ、そういう目的があって、僕はこのニケを他の誰も作らないような形で作りたかった。ニケのステレオタイプには返したくなかった」
「反俗的精神だね」
「かもしれない。でも僕はそれは区別だと思う。僕と他人とは違う。僕はこれをつくったが、他人はつくっていない。白州さんは自分の作品に対して『こんなものだったら誰でも作れるじゃないか』なんて感じることがありますか」
白州さんは作業台の上にあるクサカベ油絵具・バーミリオン・9号を手に取ってキャップを締め直す。固まった絵の具がチューブの首の部分から塊のまま床に落ちる。彼はそれを拾って作業台の上に置く。バーミリオンの9号チューブは丁寧に尻尾を巻かれて生まれれた時の半分くらいの長さになっていた。
「誰でも作れる、か。昔は多かったよ。でも他の誰とも違うものというのはそれが個性的であるという意味で結局単線的で偏ったつまらない作品になってしまうのかもしれない。若い人が思っているより鑑賞者の目は繊細だよ。細かな違いもきちんと見分けてくれる。誰が描いた絵か作った彫刻か、そういったものはほとんど直感的にわかってしまう。君はこの彫刻によって自分の特異性を強調したかったのかもしれない。でも僕は君の描くニケの新しいイメージより、むしろ肉体の描写や彫刻の痕跡に君の人間性を見出している。それは必ずしも君の特異性の賜物というわけではないが、確かに君の仕事だ。だから必要以上に悩むことはない。君の作品を見る時、僕の中にはある特徴的な感覚が決まって現れるようになっている」
「ある特徴的な感覚?」
「そうだな、まだうまく言葉で表すことはできないけれどね。どうも僕の作品にもそういったどこか一貫した感触があって、僕の絵を見てくれる人々に認識されている。制作者自身には分かりにくいもののようだね。僕も人に評価されるまでは気付かなかった。気付くまでは何をするのもハードに感じる。特に人と違ったことを続けるのは難しいことだ。僕の場合は、描いても描いてもなにも見つけられないような状況が続いていた。その頃は人生どこへも進めずにその場にとどまって沈んでいくような感じがした」白州さんはチューブを作業台に戻して、右手の指先に付いた絵具の屑を掌ではたいた。




