自分は何者で、どこへ向かうのか
「体の調子はもう大丈夫かい?」白州さんが訊いた。
僕は首をぐるりと回して親指と人差し指でこめかみを掴む。酒のせいで眠くなっている気もしたけれど「なんともありません」と答えた。
髪が乾いてきて広がるので携帯用のブラシを通して整える。抜けた髪を集めてくずかごに入れる。サンルームの窓から庭を見る。物干しで僕の服が時々ひらひら揺れて、白いシャツが蛍光塗料みたいに光る。その向こうに植物の緑が鏡のように輝いている。サンルームには小さな丸テーブルにそれとお揃いのデザインの椅子が二脚あって、庭に向って窓が三方にあるのでちょうど東屋のような雰囲気だった。
「君をモデルにしたらいい絵が描けそうだ」白州さんはピアノ椅子にピアノを背にして座り、僕の背中に向かって言った。九十度くらいに膝を開いて、その上に腕を置いている。体が前に傾いている。「本当にそう思う。単に美しいというんじゃない。君の後姿にはその年頃に特有の悩みや悲しみや憧れが点滅して見える。僕は今それを上手く捉えて絵の中に表現できそうな気がしている」
僕は妙に気恥かしくなって手元に目を落とす。自分の手が窓の縁に乗っている。
「自分は何者で、どこへ向かうのか。君の歳頃に……いや、違う、今の君に特有のとても深い問題だ」
「歳頃でもいいんじゃないでしょうか。大勢が同じような問題を抱えながら、自分は孤独だと嘆いている」
「しかし君にとっては唯一絶対の命題だ。他人がどうしようと、それは君自身が答えを求めなければいけない。他人の答えは君の答えではない。違うかい?」
僕は頷く。
「多くの大人がそれを一過性のものだからと言って安心させようとするだろう。でもそんな言葉を信用しちゃいけない。君にとってそれは生命にかかわる問題であり、自分の力でしか解決できない問題だ。そして僕のこの言葉も君にとっては気休めに過ぎないだろう」
僕は彼の方に体を半分向け、つまり期待と疑いを半々に、慎重を期して「なぜそう思うんです?」と訊いた。
「僕が美術家だからさ」白州さんは答える。「じっくり話をしよう、話せばわかる、話し合わないからいさかいが起きるのだ、言葉のやり取りが全てを解決すると思っていたら馬鹿を見る。言葉は感性の海に手を突っ込んで底から掬い上げた泥に過ぎない。それは時にさらさらと柔らかく、時に岩のように硬い。しかしいずれにしてもそれは感性の海そのものではない。伝達装置としての言葉の不足を僕はそんなふうに捉えている。そして我々美術家は何も触らずにじっと感性の海を観察することに慣れている」彼は短く息を吹き出す。「詭弁じゃないか。この説明自体が言葉なのだからね。でも当たっていると思うよ」
とはいえ我々は話を続ける。言葉は不足だ。しかし不要ではない。意思疎通のために、また自分自身の思考を説得するために言葉は必要だ。だから言葉は朽ちない。人間の論理の発達とともに変化してきた。
「それは、例えば性的なアイデンティティ」僕は呟く。半身のままどこにも手を触れずサンルームに立っている。
白州さんはためらいがちに頷く。「そうかもしれない。ジェンダーであり、セックスの問題でもある。ギリシャ風に言えばエロスか。愛とは何か。自分は男である、女である。男を愛するか、女を愛するか。ジェンダーというのは人間の頭が創り出した区別だからね、いつかはその境界にある障壁が取り除かれるだろう。しかし、男らしく、女らしくという傾向は嗜好によって残されるかもしれない。技術の飛躍でセックスの区別が滅んだって残るかもしれないな」
「意思が肉体に優越する?」
「まあ、現状は違う。我々は現在に生き、現状、人間は肉体に囚われている」
足の裏が暑い。少し立ち位置をずらす。フローリングの上に足跡が残っている。
「本当に美しいものは女性的なものだと思う」僕は言った。「何が女性的か、女性らしさとは何か、簡単に説明できるものではないけど」
「君はそれを求めているのかい?」
「女性的な美しさなら、たぶん白州さんだって求めている。女性に恋をする男性なら、誰でも」
「君自身はそこに含まれるのかい?」
「それは、そう。結局のところ、そうなんでしょう」僕は答えた。
白州さんは膝の間に垂らしていた右手を擡げて顎のつっかえにした。
「しかし、君の欲求はその美しさを手の中に抱くことよりも、自分自身がその美しさに近いものに変化することを求めているように見えるよ」
「変化」
「そうさ」
「美しさを外に求めることは相対的に自分の醜さを甘受することじゃないでしょうか」
「ふむ、外に美しさを求めることが美しい行為ではない、か」と彼は頷く。「つまりそこが君の捉えている矛盾なんだ」
どういうことだろう。
「君は好きな画家にミュシャを挙げたね」白州さんは続ける。
「ええ。感触というか。平面的ではあるけど、輪郭線の中にすごい柔らかさが眠っているように感じるんです」
「それもまた美しさである」
「ええ」僕は肯く。
「ミコトもミュシャの好みの体をしているよね。いささかおっぱいが大きすぎるかもしれないが。彼の場合には、作品や習作を見た感じでは、あまりおっぱいの大きすぎる女性は好まないだろうからね」
「深理さんですか」
「急に名前を出したんで驚いたかな」
「少し」
「でも、それは文脈なんだよ。君にとっての美は彼女なんだ。違うかい?」
僕はさすがに委縮して俯いた。裸足の爪先が見える。
「いいんだ。個人的な立場の相違はできるだけ無視しよう。僕はいま君と話したい」白州さんはソファの座りを少し浅くして、険しい言い方を慎重に避けて再び呼びかけた。
僕は半歩下がってサンルームの窓枠に寄りかかり、腰の横で桟に両手を置く。
「僕は確かに彼女のことが好きなんだと思います」
「うん」白州さんは紳士的な表情ではっきり頷く。
「けれどまだ知らないことが多すぎるんです。彼女が僕のことを本当に大事にしてくれているのか、それとも誑かしているだけなのか、僕にはまだ彼女の心の形がわからない。それなのに本当に彼女を好きになれるのかどうか……。つまり、それは彼女が綺麗だから、僕の思う外的な美しさに満ちているから、そういう動機かもしれないんです」
「彼女が自分の体にコンプレックスを抱えているから、君が彼女の体を美しいと感じても、彼女に合わせてそれを否定しようとしてるのかい?」
「そういうことじゃない。ただ、本源的なのは精神の美であって、肉体だけを好きになるのは浅はかだと思うからです」
「肉体的欲求ではいけないのか?」白州さんは平板な発音で訊いた。中立的な、テストの設問のような訊き方を意図していた。「君は本当に肉体はただ精神を秘匿する殻に過ぎないと思うのかい? 僕はそうは思わない。その人の生まれ持った代えようのない肉体を肯定しないままで、それで一人の人間を愛するということにはならないと思う」
僕は考える。眉間に皺を寄せる。考えるふりをしていただけかもしれない。
「それに、君が誰かと接する時、あるいは想う時、そこには必ず相手の形質が介在している。顔や声や。それら五感を閉ざして相手と接することはできない。そんな相手は実在しない。君が彼女の肉体を好きであるなら、その気持ちをあえて否定することはない。君はまだ彼女の心について多くを知らず、それと同じように肉体についても多くは知らないのだ」
白州さんはそこで一度下を向いて唾を飲み込んだ。
「だが知らないということをそこまで危惧することもない。君にはその心に触れたことがあると思える相手がどれほどいる? せいぜい自分くらいじゃないか。他人のことなんて思っている以上に知らないものさ。ただね、知ろうとするからこそ知らない部分がはっきりとした空白になって見えてくるだけなんだよ。多くの他人に対して人間は普通それほど知りたいという興味を持たない。好きになるというのは、そういった興味を持つことであり、また同時に多くを知らない、知ることができないかもしれないという不安を抱くことでもある」
僕は彼の言ったことを少し考える。時間をかけて飲み込む。その間窓枠に寄りかかったまま、片足ずつ少しだけ持ち上げて爪先まで伸ばし、それから足首を回した。右足を上げて下ろす。左足を上げて下ろす。
「僕が彼女を好きであるということを白州さんは肯定するんですか」
「肯定も否定もしない。君の心に干渉する権利も能力も僕にはない。それは君とミコトだけの問題だよ。そしてまた、彼女が君のことを好きなのかどうか、僕は本心を知らない。知っていたとしてもそればかりは君が直接答えを受け取るべきことだ。断わってくれと頼まれたわけでもない」
「白州さんにも彼女の本心がわからないですか」
そう訊くと彼はずいぶん不意打ちを食らったように目を丸くした。それから彼もソファに座ったまま後ろに反って体を伸ばした。欠伸をしながら答える。
「それは我々の関係の過大評価だよ。人間関係というのはそんなに単純なものじゃない。行き先は見えず、大地はぬかるみ、風向きは絶えず変わる。新月の沼地のようなものだ。それでも確かに僕は彼女のことを愛しているつもりだ。それは言える」
「彼女の心も肉体も隔てなく?」
「彼女の読む本は僕も読むし、彼女の聴く音楽は僕も聴く。彼女とセックスをする前には……まあ、そういうことだ。それくらいするさ。だけどね、あまりすっきりした関係ではないな。少なくとも僕はそう思っている。我々は二人とも屈折した人間だから」白州さんは後ろに手を突いたまま続ける。「これは確信に近いんだけど、君はかなり激しい肉体的欲求をミコトに対して感じているんじゃないかな」
「かもしれない」
「でもまだ寝たことはない」
「ありませんよ」僕は真剣に否定した。
「君が言えば、もしかしたら彼女は君の求めに応えてくれるかもしれない。彼女は君のことを親密な人だと認めているから。それはこの間彼女が君をここに連れてきたことが明示している。だけど僕がそう思うのにはもっと深い訳があるんだ。今の彼女は一人では生きていけない人間なんだよ。誰かから存在を求められて、その欲求に応じることで自分の必要性を実感できるという人間なんだ。それがいわば積極的な優しさや寛容さになって表れている。彼女自身は何となくそうしなきゃいけない気がしているだけで、自覚はないかもしれないけど、僕はそう思うよ。だから君が求めれば彼女は応じるだろう。だけど、僕はそうしろというんじゃない。逆だ。君は静かに待つ方がいいだろうと思う。もし君が本当に彼女のことが好きなら、彼女の優しさの対象にならないことだ。本当に彼女を救えるのは、長く彼女のそばにいて、本当に彼女のことが好きで、でもそれを口にせずにずっと待っている人だろうからね。僕らが相容れない立場になりかねないから、相手に対して大人しくしていろと言うんじゃない。それは断っておく」
「なぜですか」
「まるで僕が自分の力で彼女を幸福にしてやろうとしていないみたいだと?」
「少し」
「それはだね、つまり……」白州さんは横に体を傾けて、浮いた右手で左の腿を何度か叩いた。手が止まる。「僕はさっき彼女を愛しているつもりだと言ったね」
僕は肯く。
「僕にとっては愛でも、彼女にとっては違うかもしれないということさ。それだけのことだ」
白州さんは何かをイメージしながら言った。でも僕にはその具体的な内容が全く思い浮かばなかった。それは光の届かない海の底に眠っているもののように感じられた。
「僕は彼女のことをもっとよく知らないといけない」僕は言った。
「それは僕が答えなきゃいけないことだろうね。君が訊けば、だけど」
「聞きます。いつか」
僕は欠伸をする。実はすごく眠かった。体が泥になりそうなくらいだった。
「眠いかい?」と白州さんは訊く。
「少し」
「疲労と、きっとアルコールが効いたんだろう。眠ればいい。ベッドなら客間にあるけど、二階は暑そうだな。ソファでよければ毛布だけ持ってこようか」
「じゃあお願いします。毛布だけ」
白州さんが上の階に行っている間僕はふらふら立っていた。受け取った重たい毛布にくるまって乳白色の革のソファの上で横になる。革の独特の匂いが頭を痛くする。毛布の裾を引っ張って顔とソファの間に挟み込む。毛布は長い間押入れに仕舞われていた匂いがする。こちらは嫌な匂いではない。僕はすぐに眠ってしまう。でもその前にひとつだけ訊いた。
「白州さん、美とは何ですか」
「……僕の感覚に過ぎない意見だということを断っておくけど、人に関していえば、それは、仕草だよ。誰かを想う時、人は容姿そのものではなく相手の仕草を愛するんだ。形状ではなく、動きを、だ。笑い方とか、手の使い方とかね。それは容姿を下地としたものであって、形而下だが、変えようのない人間性を仄かに映している」
白州さんの言葉は今にも閉じようとする僕の意識の穴の中に滑り込むと、それからしばらくの間音を立てて空洞の中を転がっていた。人は容姿ではなく仕草を愛するのだ。それは変えようのない人間性を映している。
散々天使について話したせいか、あるいはセックスのことでショックを受けたせいか、その時の夢は浅くて現実との分離も完全ではない代物だった。橙色にハレーションを起こしたサンルームの手前にピアノがあって、つまりそれはアトリエからの視点なのだけれど、ピアノ椅子に座った天使が鍵盤の蓋の上に肘を置いてこちらを眺めている。その隙に白州さんはピアノの向こう側を回って天使の肩に手をかけ、その肩に肘を置くくらいまで腕を滑らせて、今度は胸の上で手を重ねる。天使は振り向きながら彼の肩や喉元に額をあてる。ほんの数齣の短いサイレントだった。
件の66話です。物語全体を見ればこの白州さんのパートがちょうど中間、折返し地点。したがって第3章があともう半分、そのあとが全部第4章あるいは第4章とエピローグで等分となればいいのですが。




