モンジュイックの天使
白州さんは席を立って「ちょっと来てもらえないかな」と僕を呼ぶ。僕はグラスをテーブルに置いて彼の後をついていく。地下への階段を下る。彼がスイッチを押すと暖色の埋め込み照明が天井に一列に灯った。壁に貼ってあるポスターが前回からいくつか入れ替わっている。そのうちの一枚はアイルランドかどこか霧深い森に続く小径の写真だった。人が踏んで歩くのでそこだけ草が剥がれて黒く湿った土が露出している。僕はちょうどそんな気分だった。自分の足で歩いているのにどこへ向かおうとしているのかわからない。
書庫に入る。古く乾いた紙の匂いがする。換気装置が働いていてかすかに空気の流れを感じる。白州さんはガラス戸の付いた書架から厚い図版を取り出す。黒っぽいハードカバーで、正方形をした変形版。表紙にはスペイン語かポルトガル語で何か書いてある。
「天使は聖書の図説化のために人の手によってニケから翼を与えられた。翼は人間と天使の視覚的区別のために宗教画家が借りた記号なんだ。聖書そのものに翼があると明記してあるわけじゃない。ここじゃ暗くて見づらいから上に持って行こう」
「その本は?」
「バルセロナの観光案内みたいなものだよ。全部向こうの言葉で書かれているから僕には内容はわからないんだが、写真がなかなかいいもので買ってしまった。ああ、ミコトに頼めば少しくらいは意味を取ってくれるかもしれないね」
「バルセロナに行ったんですか」
「教会の建設現場を見に行ったんだ。旅行という感じじゃなかったな。かなりハードな勉強会だった」
脱衣所ではまだ洗濯機が回っている。光が眩しい。相変わらず日差しの明るいリビングに戻ってガラスのテーブルに図版を広げる。白州さんは水滴まみれになったグラスのソーダを飲み干して流しに持っていき、布巾を持ってきてテーブルの上の水分を拭い去る。僕のグラスにはライチトニックがまだ半分くらい残っている。アルコールが薄いとはいえ一気飲みは厳しい。白州さんは僕の様子を見て「少し多かったかな」と訊く。
「少し」
「何か別のものがいいか。水かソーダなら冷えているよ」
「水の方が」
彼は僕のグラスを受け取って調理台に置き、新しい軽いグラスに氷を二つ入れてミネラルウォーターを注ぐ。
僕は冷えた水を一口飲んでから、開いた図版にある見出しのローマ字を苦労して読もうとした。「セメントリオ・デ・モントジュイック」
「モンジュイック墓地」と白州さん。
「モンジュイック」
「ここの天使像はどれも表現が豊かだね」
図版には大理石でできた彫刻作品の写真がたくさん載っている。中でも翼を持った女性の姿が圧倒的に多い。彼女たち天使の体には確かに動きや、仕草がある。それは古典期ギリシャ彫刻のようなやけくその躍動感ではなくて、今の人間がそんな恰好をするだろうなと思えるような自然な動きだ。街中で綺麗な人に声をかけてモデルをやってもらって、これを着てこれを持ってこんなポーズをしてみて、と言っただけのような、ある種の気安さというか親近感のある天使の彫刻だった。
墓地の背景は荒廃の気配の中にある。雑草がふさふさ生えて、石は爛れたように艶を失っている。そこに多くの死が眠っていることを僕は簡単に理解する。その景色の中で彼女たちはただ十字架とともに立って祈るだけではない。巨大神殿の束石ような石棺に腰かけたり、寄り添ったり、寝そべってたりしている。あるものは悲しみに暮れ、あるものは慈しみを堪え、あるものは毅然と、しかしいずれもどこか疲れを感じさせる仕草で石棺の傍にいる。その姿は神と人とを媒介する天使というよりは、意識の戻らない病床の人を献身的に世話する恋人のように健気で、透き通った悲しみに満ちている。
「バルセロナは十九世紀の中頃からかなり手の込んだ都市計画によって整備された都市でね、しばしばガウディの街と呼ばれるが、それは単なる売り文句ではなくて、実際に彼が街の建設に一役買っているからなんだ。歴史はそんなに古くない。街路はきっちり格子状で、上から見ると建物の集まった一区画がそれこそサイコロの形に見える。モンジュイック墓地も十九世紀の後半に作られた場所だから、それより古い彫刻は存在しないだろう。あるかもしれないが、少なくとも僕が見た限りでは。ここにある天使を見て君はどう感じる?」白州さんは図版のページをいくらか捲る。
「まず、写実的ですね」
「それから?」
「仕草や体勢がとても自然だ」
「僕もそう思う。ベルニーニのような過度な躍動感もなく、かといって記号的なぞんざいな肉体表現でもない。彼女たち天使は死者の守りという特有の役割を与えられてはいるんだが、なんだかとても人間的で、感情の描写には彼女らが僕ら以上の存在でもなく、それ以下でもないという親さを感じる。それはたぶん彼女たちが天使でありながら決して特別な存在ではないというところに一因がある。つまり、ガブリエルやミカエルといった聖書に役割のある天使とは違う、それ自身に信仰や崇拝の集まらない無名の天使たちなんだ。ガブリエルが作品に現れる時、鑑賞者はそれが聖書の一場面を描いたものではないかと考える。例えば受胎告知。そこでガブリエルは神から預かった伝言を喜びを持ってマリアに伝える。そこには場面や状況としての喜びが漂っていて、物語性が聖書としてすでに完結している。ガブリエルの喜びは文脈に組み込まれた表情から一方的に強いられたものだ。しかしここにある天使たちには万人に認識しうるような物語はない。ある人間の死について個別の小さな物語があるだけだ。近くに行って見ていると、何かこう、普通に人間と向かい合っているような感覚がある。それは死という経験がもっと普遍的で、聖書のように物語として傍観するわけにいかないものだからかもしれない。僕はそういうところにむしろ純粋な美を感じる。人の肉体や感情の表現として美しいんだよ」
図版は中ほどのページが開かれている。右のページには稲穂のような月桂樹の枝を抱えて立つ天使の像の写真、左のページには崖面にワッフルのように区画された集合墓とその手前に建つ塔の上に佇む天使の像の写真がある。
「でも天使は天使なのでしょう? それは人間ではない。人間の代わりにそこにいて、代わりに祈りを捧げている」僕は言った。
「そう。それが実際の人間の不純をうまく濾過しているのかもしれない。人間のそうありたいという姿が天使として結実している。どうだろう、君の絵にも通じるものがあるんじゃないかな。実際の人間ではなく、人間のひとつの側面を演じているというのは」白州さんはグラスを持ち上げる。
「そうあってほしいという、濾過された人間の理想像。それが天使」
「そう、君の彫刻が表現しているのは、あるいはそういうものかもしれない」
そこで玄関の方から洗濯機の鳴き声が聞こえる。洗濯が終わったのだ。
「君の像を見た時、僕はここにある天使たちを思い浮かべた。ニケなんて神性を持ったものには見えなかったんだ」そう言うと彼は脱衣所に歩いていって洗濯機の扉を開いて中を覗く。「皺を伸ばしておいてくれよ。僕は庭に物干しを用意しておくから。この天気だ。きっとすぐに乾くだろう」彼は洗濯機を僕に任せてリビングに戻る。
僕は絡まった洗濯物をドラムから出して広げ、ばたばたとやって皺が付かないように丸める。柔軟剤のいい匂いがした。それを抱えて廊下を歩いていくと、白州さんはガラス戸を開いてデッキに出ていた。シャツとパンツはハンガーに掛け、下着と靴下は洗濯バサミで、X型の脚をした物干しにかけておく。ものすごい勢力の暑さが暴風のように全方位から吹きつけている。早く部屋に入らないと溶けてしまいそうだ。
これを書くためにモンジュイック墓地の天使像の写真をかなり集めました。でも本当はたくさん集めたからこんなトピックを書いたのかもしれない。どっちが先だったかな…




