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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第3章 音楽――あるいは愛について
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ニケ、あるいは受容の天使


 白州さんは像にかぶせた幌を留めている縄を一ヶ所ずつ外していく。中からタブ材の天使が現れる。すると彼はまず驚いて「あれ、これ白木じゃないか」と言う。「ニスは塗らなかったの?」

「そういえば」僕は肯く。

 それから彼は顔を近づけて匂いを嗅ぎ、難しい顔をして「何の木だろう」と訊く。

「タブノキ」と僕は答える。「昔は船とか、枕木、あと仏像に使ったらしいです」

 背中の一対の羽は別パーツでぷちぷちを挟んで脚に巻き付けてあった。根元の四ヶ所を棍棒みたいに太い黒いネジで連結するのだけど、もともと外して美術室に置いていたので僕は工具を持っていなかった。白州さんが玄関の納戸から六角レンチのセットを探し出してきて、羽を支えてもらっている間に僕がネジを回した。最後に彼が締める。

 羽が両翼とも固定されたところで彼は「これは天使だな」と呟いた。梱包に使っていたぷちぶちシートとカンバスを畳み、ナイロン縄は巻いて像の周りを綺麗にする。それから白州さんは目を近づけてじっくりと観察する。「触っても?」と訊く。

 僕は肯く。

 彼は手の感触でもって表面の具合を確かめる。階段を上がる時だって羽をくっつける時だってこの像に触っていたのに、それでもこうして完全な形になると彼にとってそれはまた別の意味を持った存在になるのかもしれない。像は変化しない。白州さんが変化する。ただの人間から芸術家の目になる。背中の翼の先端から足の爪先まで余すところなく念入りに観察する。例えば、もしこれが僕のような素人の彫刻ではなくて美術館に置くべき名だたる美術家の彫刻だったなら、彼がやるように自分の家で自分だけのものにして鑑賞するというのはとても気持ちのいいものだろう。どれだけべたべた触っても文句を言われない。

 でももっと重要なのは、美術館では鑑賞者と対象が一対一で向かい合える時間が限られているということだ。限られているというか、それをぶった切ってしまう他者が存在している。他の客だ。それが立て続けに起こると鑑賞どころではない。都心で開かれる企画展なんてだいたいそんなものだろう。絵や像の全体が見えるところに立って眺めているとだいたい誰かが目の前を狭苦しそうに通り抜けていく。同じ公共空間でも客入りの少ない田舎の美術館では比較的じっくりと作品を見ることができる。今白州さんが堪能している状況はそれに近い。他者に邪魔される不安はない。たぶん。

 僕は邪魔だろうか。

 白州さんが振り向く。僕はダイニングテーブルの一番遠い席に座っていた。

「これを学校で作ったんだ。まさか授業作品じゃないだろうね。こんな制作カリキュラムがあったら、見る方は喜ぶだろうけど、保護者は阿鼻叫喚だな」

「授業じゃないです」

「部活で、ということ?」

「まあ」

「顧問の先生の専門は?」

「油絵です」

「造形じゃないのか。そうするとこの像の仕上がりの大部分は君のセンスによるものだね。初めてじゃないだろう」

「木像を作ったのは初めてですよ」

「かもしれないが、木の扱い方をある程度わかっているという感じがする」

「中学校の技術でブックスタンドを作ったくらいです。あとは昔木製飛行機を作っていた」

「ああ、それだよ。バルサ材の骨を削るのなんて相当繊細な作業じゃないか」

「まあ」

「時期は」

「小学校の間」

「なるほどね。それはいい経験をした」白州さんはアームチェアとソファの間まで下がって腰に手を当て、像の左側面の全体を遠くから見る。「それにしても、よくこんな太い材木が手に入ったね。少なくとも直径五十センチくらいは必要じゃないか」

「もっと太かったと思います。学校の近所に立っていたのが悪くなったからとかで切り倒したらしいんですが、その先の方をわけてもらったんです。翼は別に取って組み立てですけど」

「相当な大木だったんだろう」

「雷が落ちて幹が割れちゃったんです。先端の方が隣の立体駐車場に倒れかかって天井がへこんだくらい」

「それはすごいな」白州さんは苦笑いした。「うん、とはいえ、木彫で天使をつくるとはね。僕としてもなかなか意表を突かれた。これだけの材料を使えるのも羨ましいよ。なにより、雷パワーも宿している」

「自分でも不思議です。こんなものをよく削り出したと」

「いつ作ったんだい」

「去年の夏休みにがーっとやって、それから冬にかけて。ちょうど一年前。ほとんど毎日学校へ行って、美術室でこれを削ってました」

「何かの課題で?」

「文化祭と勧誘の展示でもあるんですけど、でもほとんど自主的に」

「ほう」

「とにかく、今年はとてもそんな気持ちにはなれない」

「あの頃の自分は勢いとエネルギーに満ちていた、か」

「本当にそう思います」

「大人な発言だね」

「それってどういう評価です?」

「さあ、ただ、それだけだよ。僕が勢いとエネルギーに満ちた自分を回顧する時、それは君の年頃の自分だ」白州さんは自分のトニックを一杯空ける。冷蔵庫からボトルを持ってきて残った氷の上に半分ほど注ぐ。グラスは結露して濡れている。「ところで」と彼は飲み込みながら言う。喉にまだものが残っている様子だった。「一切合切作品を持ち帰るように言われたって?」

「はい。制作中のもの以外は全部」

 白州さんはトニックのボトルを冷蔵庫に仕舞いに行って、帰りに戸口の柱に手を突いて立ち止まる。

「いや、僕がこんなことを訊くのはだね、ひょっとすると君がクラブで使っているスケッチブックやなんかを持っているんじゃないかと思ったからなんだ」

 僕ははっとしてグラスを置いた。「あると思います。準備室に置いている私物全般を持ち帰るように言われたので、忘れていなければ。こいつに気を取られていたからな、あるといいんだけど」

 果たして鞄にはスケッチブックが三冊入っていた。一冊は二年の五月から使っている現役のもの。これが入っているのはわかっていた。二冊目は高校に入って最初の美術の授業で配られたもの。最後の一冊は二冊目が終わった時に家に余っていたのを持ってきたものだった。

「君が最初にここにミコトと来た時、僕はいつか見せてもらおうと言った」

「僕、なんて答えましたっけ」

「嫌だとは言わなかったはずだよ。あまり待たずに済んだな」

 白州さんはソファに座って脚を組み、また美術家の目になって僕のスケッチブックを捲った。そこには汗だくになって運んできた像の下書きがある。『ノスフェラトウ』の下書きもある。彫刻や展覧会用の絵に成長しなかった多くの草案がある。それをじっと待っているのも息が詰まるので僕は自分のグラスを持ったまま像の周りを一回りする。なんだか仕上げの粗っぽいところが残っているようで気になってきた。作品を見られると自分自身までじろじろ観察されているような感じがするんだ。

「案外人の絵も描くんじゃないか」白州さんが呟く。

 僕は体をまっすぐにして彼の方を向いた。

「君の描く人の絵は、もちろんそうでないものはいくつもあるが、しかし多くが現実の誰かを描いたものというよりも、抽象的な観念や感覚を具体的に演じさせたもののようだね」

「そうだと思います」僕は一口飲んでから答える。「何かを見て描いたものよりも、頭の中のイメージを映したものが多い」

「誰かにモデルを頼むということはないのかい?」

「ほとんど」首を横に振る。「あの、どう見えますか」

 白州さんはページを戻したり進めたりしながらしばらく悩んだ。

「例えばこのノスフェラトウという少女の姿は彼女自身に対する怯えを感じさせる。考えや意志だけでは動かしたり止めたりすることのできない自分という存在、自分という客体を表現している。欲や感情の擬人化、アレゴリーというのは美術史にも前例があるだろうけど、それに近いのかな。内心の葛藤を肖像として描いているというか。あるものは理想であり、あるものはそこに及ばない理不尽な実際の姿が表れる。場合によってはその二つを同じ画面に描き合わせることで理想と現実の対比にもなり、するとそれは個人の内部ではなく、人と人との関係を表現したもののようにも見えてくる。君は実際の誰か個人から発想を得てこれらを描いたのだろうし、人間に普遍的な命題への昇華という点ではいささか閉鎖的で意味が不明な部分もあるが、僕にも共感しうる内容を持っている」

 白州さんはそこでぱらぱらとページを戻る。「僕が気に入ったのはこのページにある『弱き助け』という絵だ。か細い少女といささか大きく重い翼を持った天使が描かれていて、偉大な素質と助けの気高さ、いや、力の大きさと心の強さの対比が巧く描かれている。物語的にも広がりがあって面白い」

 僕は気恥ずかしくなって耳の手前の髪を指で撫でつけた。ついでに突っ立っているのも居心地が悪いのでアームチェアに浅く腰を下ろす。

「君の絵が面白いのは、どの絵も、なんというか、演劇的なところだな。心的なイメージである以上現実ではないのだか、それを現実に行われているものとして人間が演じるための衣装や舞台が画面の中に用意されている。しかしあえて言えば、ここにあるリアリティはかなりぎりぎりのものだな。君の描く飛行機に比べれば、特に人物は写実性の拘りをあまり受けていない。人間の造形に対して捉え方にまだ妥協がある。違うかな」

「実際の肉体を見て描かないから巧く描けないんでしょうか」

「巧いかどうかではなく、君の肉体の表現は少しアニメ的になりつつある。違和感なく人体に見えるというだけの質感を欠いたものになりつつある。デフォルメ。無論それが好みでそれを目指しているというのなら構わない。その一方で君の絵には人間のはらわたを描こうという意欲もあるように思える。何かグロテスクな内部を、だ。だとすれば写実性は必要じゃないかな。君は前に言ったね。飛行機の絵を描く時資料を見るのは模写するためではなく頭の中に実物をイメージするためだと。そして絵はそのイメージの投影だと。それはなかなか説得力のある言葉だった。確かに君は人間の肉体についてイメージを構成しようと試みている。それはその像を見ればわかるし、その像の肉体表現はスケッチよりかなり写実的だ。立体だからそれらしい表現で妥協できる場所がなかったせいかもしれない。だからあえて助言をするなら……」白州さんはそこで言葉を止めて僕を見た。先を言っていいか訊いているのだ。

 僕は肯いた。

「あえて言うなら、そうだな、絵に描く時も妥協せず肉体を肉体として捉えることを心がけた方がいい。飛行機を描く時の執念深さはどこへ行ったのか、と思うよ。人間を描く時には同じようにしないのかい?」

 僕はその問いには答えられなかった。現実の人間をあまり描かないということは、現実の人間に目を背けているということなのだろうか。

 白州さんは所感を終わりにして、少し気楽にスケッチブックの残りを捲っていく。あるところで手を止めた。『ニケ』と隅に題名が殴り書きしてある。

「そうか、この像はニケだったのか」

「サモトラケのニケのありきたりな再現イメージが気に食わなくて」

「ああ、片手を高く上げて、オリーブの冠を掲げて?」

「そうやってイメージが固定されていくのを、なんというか、本来存在したはずの、どんな像にも象られる前のニケが嘆いているような気がして」

「なるほど。しかし型というのも根強い。神話や聖書の登場人物は容姿よりも状況や小道具で識別されるものだね。例えば、マグダラのマリアなら長い髪と香油の壺、というように。画家によって顔はいくらでも変わるが、必ず髪は長いし、油壺が足元にある。逆に言えばいくら顔に凝ってもショートヘアだったらそれはマグダラのマリアではない。ニケなら翼とオリーブということになるが、君はそれをきちんと残している」

 僕のニケには翼がある。オリーブの長い枝を両手で腰の前に持ってその枝先に鼻を近づけるようにして顔を俯けていた。祈るようなポーズだ。

「君はたぶん、ニケであるという識別を残したまま今までの安直なイメージを覆すものを描こうとしたんだ」

 白州さんは席を立って「ちょっと来てもらえないかな」と僕を呼んだ。

高1の夏休みに「僕」が何をしていたのか、ここで明らかになります。

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