芸術家の趣味
白州さんは坂の上から洋館前の道に入って、門柱を過ぎたところでノアを停めた。坂が急なので頭を下にしないとハッチを開いた時に荷物が飛び出してしまうかもしれなかった。僕が荷室に入って荷物を押上げ、白州さんがハッチの外から抱え上げる。僕がそのまま頭の方を支えて、二人で重さを分けながら、最後の難関、階段を上がる。生憎二人で横に並んで上がれるだけの幅がない。「僕が下かあ?」と呻きつつ白州さんが後ろについて重量の大半を支える。ポーチの下で息を整え、鍵を開けてリビングまで運び込む。床をへこませないように納戸からゴム板を取ってきて下に敷く。屋内はエアコンが効いていて南極みたいに涼しかった。
「しかし、どうしてまたこんなものを」白州さんは両手を腰に当てて荷物を眺める。
「今日学校へ行ったら、急に持って帰れって」
「学校、どこだっけ」
「大塚です」僕はテーブルに手を突いてはあはあ言いながら答える。前髪の先に汗の雫がぶら下がろうとする。
「これを担いで電車に乗ったってことかい」
「まあ」
「それはすごいな。なにより乗る時と降りる時が大変だろうし、駅の中だって階段を避ければ随分な距離だ。よく堪えたものだよ。汗びっしょりじゃないか。寒くならないうちにシャワーを浴びてくるんだね」
「え、シャワー?」
「鏡を見てごらんよ。すごく血の気が引いてるぞ。遠慮はいいから早く浴びてくるんだ。ただ、カラスみたいにあんまり早く上がられても困るな。着替えは君が水浴びしている間に上へ行って用意しておいてあげるから」
僕はゆっくり深くお辞儀をする。はじめの姿勢がよくないので頭をぐらぐらさせただけに見えたかもしれない。
「ミシロくん」と白州さんはやや重たく呼びかける。「僕は施しを受けることのありがたさを知っている人間だし、それをできるだけ自分でも与えられたらと思っているんだ。それに、なんといっても僕は君に結構興味があるんだよ。だからそうかちかちしないで、もう少し遠慮なくやってくれたまえよ。今はここが君のアジールだ。今日の君の依頼は確かに理不尽だったけど、そうなってしまった以上は、お互い、この時間を有意に使おうじゃないか」
僕は大人しく脱衣所へ行って扉を閉めて服を脱ぎ、浴室へ入ってシャワーを浴びる。全体にマーブル模様が基調になっている。手桶もマーブルだ。僕の家の浴室よりトーンは暗い。低いカウンターの上に必要最低限の石鹸類が並んでいる。乾いた浴槽の中に蓋が立ててあるあたりが潔癖だった。波面ガラスの片開き窓が壁に嵌め込まれて、そこから真昼の白い光が差している。明かりを点けなくても十分明るい。
明るい時間の浴室というのは特別な場所だと思う。それは僕が白州さんの家の浴室を初めて使うから、という理由ではない気がする。音の響き方や匂いや、あるいは僕の頭の中の状況が暗い時間帯とは違っている。夢の中で白い鳥に変身したような、ちょっと不思議な感覚がある。でも鏡のせいで幻滅する。僕がそんなものではないということがわかってしまう。白い羽毛も銀の翼もない。
白州さんは僕がシャワーに入っている間に、まず外に出てノアを車庫に入れた。トヨタ車のありふれた、でもそれなりに特徴のあるエンジン音が浴室からも聞こえた。それから僕のための着替えを持ってきて脱衣所の扉をノックする。「バスタオルと着替えはバスケットの中だからね」と言う。何かがさごそとやる物音があって、彼は洗濯機を動かす。僕の着ていたシャツとパンツと下着と靴下は洗われてしまったようだ。こんなふうに思うのは失礼かもしれないけど、案外手際のいい人なのだ。
頭のてっぺんから足の爪先まですっかりきれいにして、最後に冷水で体を締めて浴室を出る。洗濯機が回っている。小さい窓から真昼の白い光が注いでいる。病院の除菌室みたいな神秘的な清潔感がある。バスタオルで体を拭く。籐編みのバスケットの中に着替えが畳んであった。僕はそれを広げて身につける。まず下着と、深いUネックの白いカットソーとオリーブ色のハーフパンツ。パンツはだいぶサイズが大きい。腰紐を絞って体に合わせる。
リビングでは白州さんがテーブルにマックブックを出して右手でマウスを動かしている。僕の荷物の梱包はそのままだった。リビングの空間の真ん中に幌を被ったまま間抜けに突っ立っている。僕が裸足で歩いていくと白州さんは椅子に座ったまま体をこちらに向けた。上を黄緑色のポロシャツに着替えている。彼の目が上から下まで僕のことを眺める。
「うしろを向いて」と彼が言う。僕は言われたとおり背中を向ける。次いで「右を向いて。少し足を前後にずらして」と指示する。「もういいよ。どうも。綺麗な足をしているね」
「レッグですかフットですか」
「どちらかというとレッグだね」
僕は上半身を折り曲げて自分の脚を逆さに見る。まるで鳥の脚だ。
「薄着も似合うのに」
「日焼けするのが嫌だから」僕はソファの横でくたっとしている自分の鞄からシーブリーズのボトルを取って、エアコンの風の当たるところに立って腕や首にぴたぴた塗った。「白州さんは深理さんのことが好きなんですよね」
「彼女のような豊満な女性を好いた僕が、なぜ君の脚を褒めるのか、ということ?」
「はい。僕にお世辞を言ったのではない。それはわかります」
「ミコトは確かに美人だけど、そこは本質的に僕が彼女を好いているポイントではないよ。それに、痩せているのが好きだから太っているのは嫌いだという論理も間違っている」
「細さの美学と柔らかさの美学。どちらもある」
「そう。相容れないが、共存はしている」
僕は最後に足首にぴたぴた塗ってボトルを鞄に仕舞う。屈んだまま白州さんの開いているパソコンを見上げる。
「それは何をやっているんですか」
「別に隠さないからこっちに来て見てごらんよ」
僕は白州さんの言うとおりにする。動画編集の画面が表示されている。
「何かわかるかな?」彼はディスプレイの前を僕に譲り、体を後ろに倒して腕を組む。
「電気炉ですか」タイムラインの小さな画像に緑色の金庫みたいな頑丈そうな箱が映っている。
「そう。電気炉で何を焼く?」
「金属とかガラスとか」
「近いな。答えを言うとこれは七宝焼きを作っているところさ。有名なところだと箱根のラリック博物館にルネ・ラリックのシルフィードというブローチがある。知ってる?」
「美術の授業で作ったことがあります。何だったか忘れましたけど、作品を早く仕上げた生徒たちの暇潰しのために銅板を切ってその上に釉薬を塗って。シルフィードは教科書に載ってたかな」
「あれはガラスを焼き付けた後に地金を硝酸で溶かしてステンドグラスのように仕上げているんだ。すごい技巧だよ。僕が今度作ったもので真似させてもらったけど、骨が折れたよ。いや、骨というか、鼻だな。匂いがすごいんだ」
「アトリエには電気炉ありませんね」
「車庫に置いているんだ。上だと火事を起こしそうだから」
「ペトロール」
「フィキサチーフ。画用液も絵具もほとんど可燃性だからね、絵をやる人間は一度だけでもガススタンドでアルバイトをしておくべきだよ。僕の先輩には制作中の絵を焦がして卒業が一年遅れたという人もいるくらいだ。ポピーを拭いた雑巾を放っておいたせいで自然発火して」
「でもなぜ動画を?」
「まあ、普及だね。こいつをユーチューブやニコ動に投下してさ。ニコニコ動画も悪くないよ。より直截な意見を貰えるからね。毒舌と言ってもいい。というのも、僕としてはこの活動は趣味であると同時に喜捨でもあると思っている。施し、与えられた者の準義務というかな。与えられた、というのは才能のことではないよ。ここにある環境であり、趣味に打ち込むだけの時間だ。僕と同じか、それ以上の才能、実力を持っているのにもかかわらず安定して創作に没入することのできない環境に置かれている人たちはたくさんいる。僕はただ運がよかったんだ。その運を娯楽や希望として彼らに還元する義務が僕にはあるとおもっている。ただそれはあくまで自己満足であって、彼らのために行っているわけではない。ニコ動の毒舌家たちはその事実を常に思い出させてくれる」
「絵画は?」
「絵はやらないよ」白州さんは吹き出した。「何せ本業だからね。プロが介入する時はある程度の遊び心がないと受け入れられないんだ。僕が遊び心のある絵を描いてしまうと、それはそれで業界の方から咎められるかもわからない」
白州さんはパソコン画面を閉じて「お酒は?」と訊く。
「飲めます」
彼は席を立ってキッチンに入る。冷蔵庫を開け閉めする音とグラスの中で氷の当たる音が聞こえる。僕はテーブルの横に立ってリビングを眺めていた。白い壁に白い日差し。地中海みたいだ。
白州さんはコリンズグラスに入ったカクテルを持ってくる。ライチリキュールをトニックで割ったものらしい。口の中にちょっとだけ流し込んでみると甘くて少し危険な味がした。無人島で見つけた小さな赤い木の実を齧ってみたような感じだ。アルコールはあまり強くない。さっぱりしていて冷たい。それから軽食にクラッカーにサワークリームを塗って、ひとつまみ塩を振って食べる。僕もいくつか貰う。おいしい。舌の裏から唾液が湧いてくる。
「さて、そろそろその包の中のものにお目にかかりたいんだけど、構わないかな?」




