天使と肉体のアジール・序
汗の滴がアスファルトに落ちては消える。地面が蒸発しそうなくらい暑い日だった。僕は薄暗くなった携帯電話の液晶に目を凝らして電話帳を探り、やっとのことで白州さんの番号を見つけて電話をかけた。光に目が慣れていたせいで手元の世界がほとんど真っ暗にしか見えなかった。
「もしもし?」
「あの」
「ミシロくんだね、どうした?」
「今日暮里に居るんですが、ちょっとのっぴきならなくなってしまって」
「ほう、のっぴきならないとはね。大丈夫かい? 怪我でもしたんじゃないだろうね。あまり調子がよくなさそうだけど」
「怪我ではないんです。ただ、身体的にも精神的にもこれ以上はもう勘弁というか」
「それは大変だ。僕にできることがあるかな?」
「あの、迎えに来てもらえませんか」
白州さんは笑った。舞台演劇的な笑い方だった。「わかった。迎えに行けばいいんだね」
「あと、荷物があるので、BMWじゃなくてノアでお願いします」
「場所はどこだろう。日暮里の?」
「南口です。谷中の方に渡る橋に向って暗い道があって、その入口のところです」
「ああ、なんとなくわかるよ。ロータリーから少し入ったところだね。三十分くらいで行けると思う」
「ごめんなさい。でも他に方法がなくて」
「いいよ、気にすることはない」
電話が切れる。通話時間を示す携帯電話の画面が濡れている。自分の汗だ。全身にだらだらと汗をかいていた。僕のへこんだ鳩尾にだってシャツがひっついているくらいだ。まだ乾いているシャツの袖で携帯電話を拭いて鞄に放る。僕は日陰の中にいた。アスファルトとコンクリートでできた渓谷のような場所だった。人々の世界は崖の上に広がっていて、僕はそこからかけ離れたじめじめと湿った谷底に立っていた。ガードレールに寄りかかって首を真上にやるとビルの黒い影に上下を狭められた細い空が遠くに見えた。べったりとした水色の空には白い綿雲がゆっくり泳いでいる。周囲に人の気配はない。線路を渡りたい車が通るだけの細い道なのだ。人はみんな陽の当たる駅前を歩いていく。こっちはひんやりしている。体はだいぶ冷えてきて、息だけが変に上がっていた。持久走をした後の気管が擦り切れそうな感触と同じだった。上手く呼吸をするために全身の力の半分くらいを注いでいる気がした。
自分がなぜここにいるのかわからなかった。普段通りなら今頃家に戻って洗濯物でも畳んでいる頃だ。少なくとも日暮里まで来たら乗り継ぎ改札を通って京成線に乗り換えるものだ。それがなぜ駅の外に出ているのか。まるで現実感がなかった。駅のトイレに入って鏡を見たら全然知らない人の顔が映りそうな気がした。つまり、本物の僕はとっくに家に着いていて、僕の視点だけが誰か別人に移っている。夢の中ではよくあることだけど。
夏休みに美術部がやることといったら、秋の展覧会のための作品製作か文化祭のための共同制作だけだった。僕は結構多作なので個人ノルマは平気なのだけれど、共同制作の方はそうもいかなかった。一人で作るのじゃ共同制作にならないから、何人か集まる時でないと作業ができないのだ。所属の件は結局曖昧にしたまま、部費の支払いと展覧会への参加は部員と同じようにやっていた。その年は竹と和紙で張り子のゾウをつくることになっていた。能登キリコみたいに中に灯りを入れて暗いところで光るようにしようというプランだった。この日は僕と池辺で作業を進めていた。そこまではよかった。通常通りだ。
事情が変になったのは荒巻先生がやってきてからだ。我々に挨拶をして準備室に入るとすさまじい音を立てながら片付けをし始めた。金属製の塗料皿だとかを散らかす音だった。我々はいささか取り乱されながら和紙に色をつけるのを続けていたけど、先生が呼ぶので準備室に入っていった。もとからあまり綺麗な場所ではなかったけど、この時はもはや盗み癖のある飼い犬の小屋みたいになっていた。しかも埃が舞って空気が霞んでいて、僕は三回くらいくしゃみをしてしまった。荒巻先生はそこに置いたままになっている自分の作品を持って帰るように命令した。決して強い言い方はしないのだけど、何かと言い訳をすると「だから――」という切り返しで自分の考えを一点張りにするので説得のしようがなかった。
僕は美術室では鉛筆やペンの絵しか描かなかったし、そういったものであれば大抵はスケッチブックやファイルに挟んで持って帰ることができたから、わざわざ美術室に置いているようなものはないと思っていた。でも一つだけ全然事情の違うものがあった。それは去年の夏休みを注ぎ込んだ高さが一メートル半くらいもある木彫で、僕が美術部の三年間で作った唯一の造形作品だった。古くて黄ばんだカンバスを埃よけに被せられていて、その姿はなんだかタリバンに捕まったジャーナリストみたいだった。
カンバスの覆いが外れないようにその上からナイロンの縄で巻いて背負うための輪っかを作った。学校から駅までは池辺が運ぶのを手伝ってくれたけど、彼女も大きな手提げに十二号のキャンバスを二枚抱えていたから大変だった。バスに乗る時は他の乗客も大変迷惑していたと思う。肉体的疲労と気疲れが五分五分だった。電車の駅からは僕が一人で運ばなきゃならなかった。池辺は方向が逆だし、彼女には彼女の予定があった。彫刻を一人で移動するのは実に骨が折れた。像の着衣の裾のところが手がかりになるのだけど、僕は力がないから、持ち上げるのに腰が割れそうになるし、持ち上がったら持ち上がったで背中側にひっくり返しそうになるし、すぐに手が滑って五メートルごとくらいに下ろさないとやっていられなかった。
それでもなんとかここまで持ってきたんだ。今いるこの地点だってJRの改札から五十メートルくらいはある。それは奇跡的なことに思えたし、そのせいで現実感がなかった。手が中毒みたいに震えていた。力が入らなくて、オジギソウくらいの速さで握ったり開いたりするのが精一杯になっていた。
僕の立っている陰の区画が一二歩分東へ移動していた。どれくらい時間が経ったかわからない。でもとても長い時間のあとで白州さんのノアがやってくる。白い背の高い車影がロータリの入り口を曲がるのが陽炎の向こうに見えた。まだ遠い。バスやタクシーの群れから抜け出して、接近とともにそれが他でもなく僕を目指したものだということがはっきりわかってくる。ハザードランプを点滅させて歩道に横付けする。白州さんが運転席から降りて後部ハッチを開ける。席は二列目まで倒され、デッキには畳んだビニールシートと小さな工具箱だけがタイヤボックスのくぼみに寄せて置かれている。僕は荷物をどうにか抱えようとする。白州さんが手を添えると一気にぐっと軽くなる。
「うっ、これは重い。アトラスの天球くらいありそうだ」と白州さん。デッキに膝を乗せて先端が当たらないか様子を見ながら荷物を中へ送り込む。彼は僕を助手席に乗せ、一旦後ろへ切り返してひとまず停車できるところまで車を移動させる。
サイドブレーキを引いて冷房の吹き出し口を僕の方に向け、エンジンをかけたままにして自動販売機でペットボトルのコカコーラを買ってきてくれた。でも僕の手にはまるで力が残っていない、落とさずに受け取るのも危うかった。とてもじゃないけど開けられない。僕がぐずぐずしていると白州さんは改めてキャップを切って開いた状態で差し出してくれた。僕はそれを一気に半分ほど飲み干す。とてつもなくうまい。こんなにおいしいコーラを今まで飲んだことがなかったと思う。喉を通るうちから体に浸透して隅々まで行きわたり、だらだらといきなり汗になって流れ出す。頭がみるみるクリアになって、今まで自分がどれだけぼんやりしていたか認識できるようになる。
車内は涼しい。窓は閉め切っている。冷媒と灰皿に入れておく消臭ビーズの混じった匂いがする。ドアのポケットには黒い遮光ネットが8の字に畳まれて差さっている。フロントガラスの向こうには今まで僕が立っていた谷底の日陰の入り口が見えた。白州さんはカーナビのボタンをいくつか押して洋館までのルートを表示する。彼はオレンジ色のポロシャツとベージュのハーフパンツを着ている。
僕はもう一度コーラを飲んでキャップを被せた。
「いい飲みっぷりだ」白州さんは僕からボトルを受け取り、キャップを締めてラックに立てる。
「ごめんなさい、わざわざ」
「まったくだ。ボルダリングの稽古をすっぽかしてしまった」
「ボルダリング?」僕はそう訊いて、込み上げるげっぷを拳で押さえた。
ハーネスを装着してカラフルな石に手足を引っ掛けている彼を想像する。
「こんな職業だから体が鈍るだろう。週に一回くらいは動かないと。僕はいかにも芸術家風の体つきというのがあんまり好きじゃないんだ」彼は右手で左手首を押さえて力こぶを僕に見せた。確かに芸術家らしくない力こぶだった。どちらかというと素描モデルの力こぶだった。「ところで僕の前にも誰かに頼ってみようとしたのかい?」
「いいえ」僕はそのことに自分でも初めて気づいた。
「それは意外だな。まあ、でも君の判断はなかなか適切だと思うよ。平日のこんな時間に用事もなく自宅に居るのは僕くらいなものだからね」しらすさんはそこで一度ハンドルの上に手を置いた。「それで、見たところ君が抱えていたのは彫刻作品のようだけど、家まで送っていけばいいのかな?」
「はい」
「置き場所はあるのかい?」
「あります。家の中に置いておくことはできます」
白州さんは横目で僕を見る。「あれ? 気が進まないようだね」
「はい。少し」
「それはまた、どうして」
「正直言って、ずっと家の中に置いておきたいという気分じゃないんです。いつかは壊さなきゃならないんだろうけど、それは僕の力が及ばないことのような気がするんです」
「力が及ばない?」
「なんというか、作家の運命と作品の運命は別々のものだということです」
「一度完成してしまったものは作者の意志から離れるべきだということかな」
「そんな感じです」
「じゃあ、うちに持ってくるかい? どうせそのつもりで僕を呼んだんだろう」
僕はぶるぶる首を振る。
「冗談だよ。君の体調も心配だし、どうしても持って帰りたかったらまた送ってあげよう。それでいいね?」
「はい……、すみません」
白州さんはシートベルトをして車を発進させる。「しかし、どうして僕に頼んだんだろう。無論君を責めるつもりなんて全くないんだが、例えばミコトは」
「まだテスト期間じゃないですか」この時七月下旬である。凶悪な日光がダッシュボードの上をじりじり焼いている。
「うん。まだ楽器の試験は残ってたはずだね」
「家じゃ練習できないからって、学校に行ってるんじゃないですか」
「そうか。そういうことなら確かに彼女には頼めないな」
それはちょっと変なやり取りだった。つまり白州さんは深理さんの予定なら把握しているけど、僕もそれを知っているということまでは知らなかったわけだ。