ラザニアの行方
脚が疲れていた。上野を歩き回ったせいだ。一時間くらいゆっくり湯船に浸かり、レコードで時間を潰して体を冷ましてからベッドに入った。仰向けになってクリップのように腕を布団の上に伸ばして暗い天井を見つめる。羽田の踊り、細すぎるくらいに細い手足がしなやかに伸びるのを思い浮かべる。
ノスフェラトウ。彼女の目にラフグリーンスネークの目が重なる。
性別とは何なのだろう。なぜ僕は深理さんに惹かれ、白州さんの存在に落ち込まなければならなかったのだろうか。なぜ羽田に惹かれることができなかったのだろうか。
それはきっと僕自身の性別に起因するものではない。僕が僕である限り、女だろうが男だろうがそれは変わらない。変えられない。
性別によって人間の本質は違ってしまうのだろうか。個人である前に女であり、あるいは男である。そんな存在様式を強いられているのだろうか。
わからない。でもだとすれば僕たちにそれを強制している主体は世界そのものではなく他の人間たちや人間が形づくった社会に過ぎないのだという気がする。そこから抜け出してなおこの世界に存在することは可能だと思う。僕にとって羽田は羽田であり、また一人の存在ではある。でも一人の女であってはならないのだ。それと同じように、僕が羽田と似た性的嗜好を持っているとしても、僕は女性性を求めているわけではないのだ。ただ生理的に好むものがそう表現しうる方向性を持っているに過ぎない。
僕は羽田の踊りを想像しながらいつの間にか眠りに落ちていた。
翌日、買い物くらいのラフな格好で自転車に乗って手島模型に行くと、店の前にクロネコヤマトの軽バンが停まっていて、後ろのハッチから小さなダンボール箱をいくつか積み込んでいるところだった。
半自動扉の横ではおやじさんが伝票の確認をしていた。電話注文を受けた品物の発送だろう。からし色のシャツの裾を色の薄いジーンズのウエストに綺麗に入れて茶色のベルトを締め、頭にはキティホークのキャップを被っている。「USS KITTY HAWK CV-63」と黄色で刺繍の入ったネイビーのやつだ。僕はおやじさんの様子を公園の角で自転車を跨いだまま眺めていて、ヤマトの人が挨拶をしてバンで去っていくのを待ってから自転車を降りて押していった。おやじさんは僕に気づく前にシャツの胸ポケットから煙草を取り出して、風があるので口元を手の覆いに深く差し込んで火をつけた。百円ライターを仕舞いながら猫よけ2Lペットボトルの前にしゃがんで庇の裏側を見上げる。僕が「こんにちは」と挨拶するとこっちを向いてにこにこしながら片手を挙げた。店の前の空気はすでに煙たい。自転車を立てる。
「どうした?」
「絵を持ってきたんです。それともう一つ」
おやじさんは眩しそうに目を細めてひとつ煙を吐いた。それから「時間は?」と訊く。吸い終わってからでもいいか? という意味だろう。
「大丈夫」
「深理ならいないよ」
「大学ですか」
「楽器の練習だって」
「白州さんのとこじゃないんですね」
「さあ」
僕は背負ってきたリュックを籠に載せようとしていたのだけど、前輪の軸がぐらついてどうも自転車ごと倒れそうだった。諦めて後輪の向こう側に立てかけ、両手をサドルの上に置く。
「白州さんはおやじさんに嫌われているからここには近づけないんだって言ってました」
「ほーう」
短い反応だった。やはり避けたい話題なのかもしれない。
「そりゃあ逆かもしれんぞ」おやじさんはそう言って路面のアスファルトに煙草の炭を押しつけ、腰を上げて半自動扉を開けた。僕も荷物を持ち上げて続いて中へ入る。今日は空調が動いていた。からっとした空気の流れがある。カウンターの手前でリュックを置いて描いてきた中国機の絵を出した。
おやじさんは一度奥へ入って吸い殻を処分してくる。カウンターの内側に立って僕の絵を取り上げ、それから何か忘れたようにあたりを見回して老眼鏡に手を伸ばした。キティホークのキャップを脱いでからそいつをかけて絵と顔の距離を調節する。
僕が手島模型に卸した絵は去年の十月から今年の四月の間で百枚を超えていた。一枚当たりだいたい千円。もちろん全部が同じ値段だったわけじゃない。とにかくものすごいペースで描いていた。けれど白州さんのところへ行ってからがくっと落ちて、手島模型に来るのはそれ以来初めて、持ってきた枚数こそ多いけれど、ほとんど一月ぶりになった。
「いつもいくらで買っているんだったか」おやじさんは眼鏡から視線を外して上目に僕を見た。
「深理さんに精算してもらってからでもいいですよ」
「その方が確実か」
「じゃあ、後ほど」僕は絵をどかして空いたスペースにリュックの底から楕円の耐熱皿を出した。「これ昨日作ったんですけど、食べきれないんで持ってきたんです」
「なんだ」
「ラザニアです」
「ほう」おやじさんは耐熱皿を抱えて居間に上がり、台所から大きなフォークを持ってきてテーブルの上でラップを剥がし、隅っこにフォークを突き立てて食品サンプルみたいに固まったラザニアのひとかけを持ち上げて口に入れた。僕も靴を脱いで一段上がって戸棚の横に立った。
「冷たいな」
「一晩置いたんで、温め直さないと」
「うん」
「まあ、夕ご飯にでも食べてください」
おやじさんはラップを戻して大きなグラスを二つとコカコーラのペットボトルを持ってきて等分に注いだ。おやじさんはボトルとフォークを片付けながら、僕は居間の入り口に立ったままコーラを飲んだ。一食分くらいありそうな量なので苦戦した。
「うちの娘をここへ縛り付けているのはおじさんだと」おやじさんは唐突に言った。
「え?」
「白州くんの話ね」
「ああ」
「どちらかというとおじさんが彼に嫌われているんじゃないかな」
「逆ですか」
「最初に家へ呼んだ時、何も上がって一言目じゃないけど、彼はね、深理が留まっているのはお父さんが必要とするからであって、出ていけるようにしてやらなければ駄目だって言ったわけだね。まあなかなかの気迫だったよ」
「はあ」
「子が親元を離れるという常識は個人主義の成れの果てじゃないかね。出ていきたいと思っている気配が深理には感じられない。まあしかしそこで口論に入るのも大人気ないじゃないか。彼の意見の方が本人の考えに近いということもあるかもしれない。それでおじさんは『では君はどこが彼女に相応しい場所だと思うのか』と訊いたんだ。彼はそれで、『必ずしもここに住んでいること自体が悪いのではない』と言った。つまり、具体的に言うなら、深理を大学に行かせてやったらどうか、とな」
「彼が頼んだんですね」
「学費まで持とうというんだが、それは許せないな。自分の娘のことだ」
「彼女は現役で入れなかったわけではないんでしょう?」
「うん。嫌がったんだ」
「じゃ彼が深理さんを説得したんだ」
「何か打ち込むべきものを、生き甲斐を。家の中でじっとしているべきではない。……家の中で、か」
おやじさんはもごもごとそう言って口の中でげっぷをした。決して大っぴらじゃなかったけれど喉の動きでそれとわかった。それから間もなく電話が鳴って、僕の要件はもう済んでいたのだけれど、コーラが残っているせいでお暇するタイミングを逃してしまった。おやじさんが電話に取りつく。
「はい手島模型。模型をお探しですか?……ええ、トランペッターの、何て?……」
おやじさんとの短い会話について実にたくさんのことを想像で補完するしかなかった。白州さんから最初に聞いた時、おやじさんと仲が悪いのは経済的な確執だと思った。深理さんの服が上品なのは白州さんが買っているからだろう。彼女の楽器だってもしかしたら彼が買っているのかもしれない。大人にとって稼ぎと名誉の問題って結構深刻なんじゃないかな。
だけどもっと別のところ、深理さんの中に問題の根があるんじゃないだろうか。
「深理が帰るまで待つか」電話を終わらせておやじさんが戻ってくる。
その問いは不意だった。深理さんに会うことを期待して、というか覚悟してきた気持ちはあった。けれど彼女がいないとわかってから僕の中には不穏な灰色の波が立っていた。白州さんのことを訊いてしまったせいかもしれない。
「飲んだら帰ります」僕はとにかくそう答えた。それに、彼女を待つ用が僕にあるのだろうか。
「多すぎたかな。悪いね」おやじさんは僕のグラスを見て言った。まだ半分くらい残っている。対しておやじさんのグラスはとっくに空になっていた。
「少し」と僕。
そういえばカウンターの一方には完成しかけのスピットファイアが置いてあった。大きい。1/32スケールだろう。しっかり塗装されて、あとは国籍マークと所属記号のデカールを貼るだけになっている。
「イギリス機の国籍マークってどうしてジャノメっていうんでしょうか」僕はコーラを飲み干すまでのつなぎに訊いた。
「言わないよ。日本だけだね。なぜって、イギリスのラウンデルがジャノメの模様に見えたからだろう。真ん中に色のついた円があって、その周りを白い輪が囲んでいる模様のことをジャノメという。日本では伝統的にそういう名前の模様なんだ」
「イギリスではスネークアイズとは言わないですか」
「言わない。単にラウンデルか、コケード。目に例えるならブルズアイ。牛であって蛇じゃない」
「牛の目、ウシノメ。ギュウノメ?」
「そうさ」
「牛よりは、蛇の目の方がいいな」
「ははあ、蛇の方が好きか」
おやじさんは台紙を切ってあったラウンデルをトレイに溜めた水の上に浮かべた。内側から赤白紺の円が描かれたごく薄いシートが反り返った台紙から浮き上がる。おやじさんはそれをピンセットで台紙の上に連れ戻し、台紙ごと水揚げしてスピットファイアの胴体側面に沿わせる。デカールを台紙から模型の表面に滑らせていく。位置を決めてティッシュで水気を吸い出す。胴体のマークを貼り、主翼のマークを貼る。紡錘形の主翼の両端に赤と紺のラウンデルが一対。
その様子を眺めながら僕は上野で見たヘビの目とスピットファイアのラウンデルを交互に思い浮かべていた。
「ヘビの中には縦長の瞳孔を持った種類が半分くらいいるのに、どうしてあの同心円が蛇の目なのか」
「確かに。鳥の目だっていい。猫の目だっていい。どうして最初の人間はジャノメということにしたんだろうね」
「でもやっぱりジャノメは蛇の目なんでしょう。ヘビには瞼がないから、見つめられるととても見つめられている感じがするんです。睨まれてるといってもいい。翼にジャノメが一対あると、一部の蝶の羽根も同じでしょうけど、見つめられている感じがする。攻撃的で、見る者に防御と注意を強いる。そういう意味では蛇の目というのはいいのかもしれない」
「ブルズアイじゃあ、どちらかといえば『的』だものな。図星だなんて意味もあるんだ。戦闘機に的じゃ、確かに縁起が悪い。すぐにやられてしまいそうだ」とおやじさん。
「やはりスネークアイズですね」
「その方がいいよ。英語でもその方がいい」おやじさんは僕に同調してくれたけれど、指先に集中しているので別に真剣に言っているわけではなかった。
僕はグラスを空ける。
「そこに置いといてくれよ。後で洗うから」
僕はグラスをカウンターに置いてリュックを肩にかける。
「お代は今度でいいので、ラザニア二人で食べてください」
「ああ。これはありがたかったね。ちゃんと伝えとくよ」
僕はその日、次の絵のお題も貰わずに手島模型を後にした。




