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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第3章 音楽――あるいは愛について
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羽田と踊る

 羽田はアンプに繋がれたままのウォークマンを拾って、さっきとは別の曲を流した。アコーディオンのタンゴで、「エル・チョクロ」というブエノスアイレス発祥の有名な曲だという。バンドネオンとギターが代わる代わる旋律を引っ張り、コントラバスがその二つを支える。しっとりしていて、それでいてちょっと愉しみのある良い曲だった。

 我々は直立姿勢のまま頬と頬がくっつくくらい接近して立つ。両手を取る。僕は羽田の言うとおりに足を動かす。まず前後の基本ステップ、方向転換、基本ステップ。

「社交ダンスも習っているの?」僕は繰り返しのうちに喋るだけの余裕が出てきた。

「いいえ。劇団で何度か講習を受けただけ」

「役を深めるために?」

「ヘビ研究とは違うわ。役の内面を深めるのじゃなくて、見栄えのために必要だから全体の練習として習ったの」

「ダンス部では社交ダンスはしない?」

「やらない。まるでやらない。変よね。部活はともかくとして、学校の授業でダンスを教えるならなぜ社交ダンスを教えないの。創作ダンスなんかよりずっと役に立つのに」

「君がダンス部で、かつ選択体育の授業では柔道を取っているというのは一見倒錯だけど」

 そう、選択体育の授業では武道とダンスが選べるのだけど、羽田はあえてダンスを避けたようだ。

「つまりそういうことよ。物事の意味と無意味には状況が深く関わっている。私はヒップホップだとかアメリカ的でパフォーマンスのための踊りを真っ向から貶しているわけじゃないの。学ぶ意味はある。だけどそれを授業でやるのはナンセンスだと思うの。少なくとも武道とは並ばない。柔道や剣道というのは伝統や礼儀や格調を重んじるから学ぶのでしょう。じゃあ、ダンスは?」

 ステップを続ける。羽田はほんの弱い力で僕の肩を押したり引いたりした。力が弱くてもタイミングが絶妙なので僕には次にどっちに行けばいいのかがなんとなくわかった。そのうち自分が踊れる人間なんじゃないかという気すらしてきた。

「見立ては?」僕は訊いた。バンドネオンの旋律は続いている。

「あなたの?」

「うん」

「まあまあね」

「そう……」僕は少しだけ幻滅しながら答えた。「じゃあ君のリードが上手いんだ」

「体を動かしてみるのも悪くないでしょう」

「悪くない」

「ねえミシロちゃん、これだけ私の体と接触があって、あなたは何も感じない?」と羽田。

 改めて訊かれると彼女の手首のすべすべした手触りやキャミソールの胸元に覗くデコルテの尖った感じが気になって少しどきっとした。

「君はどう思っているのさ」僕は言った。

「あくまで私次第なの? でもいいや。私もあなたとはクリーンな関係でいたいと思っているから」

「こうやって体をくっつけて、セックスの話をして、それがクリーン?」

「むろん。あなたが私とのセックスを想像したり切望したりしていなければ」

「そういうものだろうか」

「だって体はどうあれ心はお互いの領域を守って侵していない。それは虚しくもあるけど、クリーンだと思う。私、あなたに踏み込まれたら相当混乱すると思う」

「自分の性的嗜好について?」

「そう。だから虚しい一線を守ったままでいいの。あなたが私を見る目は肉欲混じりのぎらぎらしたものじゃない。それはわかる。だから本音でしょう」

「本音だよ」

「私さ、学校が社交ダンスを教えないの、ステータスの点では変だと言ったけど、でもその代わりに創作ダンスを教えようという方針もわからなくはないの。思春期のおませどもをよ、それが慣れ親しんだ自分の文化でもないのにこんなに体をくっつけたって、ただただ煽情的すぎるでしょう」

「じゃあ、なぜ僕らはクリーンでいられるんだろうか」

「なぜなら、私たちがドガの絵をきちんと絵画として鑑賞できる人間だからよ。風俗にまつわる物語の挿絵としてでよりも、一枚の絵画として」

「それはつまり、美に対する意識だろうか」

「かもしれない。いずれにせよ、それがひとつの芸術であるという前提の視点があるかどうかによって、踊りは美の要素にもなり、また単なる肉欲の手段にも落ちるということよ。わかって?」

「うん」

「その点、芸術の中にあって私とあなたのセックスから切り離されているこの踊りはクリーンなのよ」

 我々はそこで踊るのを止め、体を離すより先に手を離した。僕の顔は左に、彼女の顔は僕から見て右に向いていた。従って彼女の唇は僕の耳元にあった。

「でも、セックスは肉体だけのものではない。どれだけ体が離れていようとクリーンではない関係というのはあるのよ」と羽田は僕の耳に吹き込んだ。

「それは……例えば?」

「心を満たすために、誰かのたった一言を必死で追い求めたりする」

 羽田は視線を僕に残したまま離れる。手を離す。音楽を止める。アンプの電源を切る。テレビ台の扉を閉じる。僕は中空に置き去りにされた手を油圧が切れたようにゆっくりと下ろしながらその場に留まっている。

「描かないの?」羽田は振り返って訊いた。ちょっと間が悪いみたいな訊き方だった。飾り棚のガラスを見て「その間、私、暇潰しでもしているから」と言う。

 僕は画用紙を一枚冊子から切り離してテーブルで描き始める。羽田は棚の中を眺めたりガラスの扉を開けたりしている。そこには伯父さんのレコードと狭霧のワイバーンの模型の他にも、置きっぱなしの書類、オフィス用品のカタログ、僕の買ってきた本も一緒になって仕舞われていた。羽田は初めのうちレコードに興味を示してジャケットを見るために何枚か引っ張り出して眺めていた。それからどういうわけか僕が一年の初めに買ってきた『人間の土地』に興味を示して文庫本の列から引き抜いた。

「これ推薦図書になってたやつね。図書室便りの」

 羽田がそう言ったので僕は顔を上げて彼女が手にしている『人間の土地』の表紙を見た。

「違う?」と羽田。

「あったよ、確かに」

「それで読んだの」

「そういうわけじゃない」

「読んでみてもいい?」

「いいよ」

 僕が答えると羽田は棚の扉を開けたままにして『人間の土地』をソファに持っていった。僕はそこで一二分手を止めた。『人間の土地』は確かにいい本だけれど、マイナーな本だと思っていた。話題や流行に晒されるような本ではないと思っていた。でも実際は俗な本なのかもしれない。特別ではない。

「描き上がったの?」羽田はソファの上から首をこちらに向けて訊いた。

「だいたいね」僕は答えて消しかすを落とすために画用紙を持ち上げた。

「あ、いいの、見せないで。あなたがちゃんと描いているということがわかれば私それでいいから」

 僕は叩き落とされたような気分で画用紙を下ろした。「君にとって重要なのは自己の相対化だから?」

「そう。それはあなたが仕舞っておいて。それでバレエの勉強でもして」

 僕は画用紙とカメラを部屋に持っていって、戻ってきた時に「夕食はラザニアでいい?」と訊いた。

「うん。何か手伝おうか?」羽田は相変わらずソファの上で首を逆さにして答える。

「いや、いいよ。僕の料理を、という約束だから」

 ナスを切ってオリーブオイルで炒め、ホワイトソースの粉を牛乳で溶いて煮込み、鍋に湯を沸かしてラザニアを十枚、二三分茹でる。耐熱皿にホワイトソースを敷き、茹で上がったラザニアを二枚重ね、その上に作り置きのミートソースをかけてナスを並べる。この工程を繰り返す。一番上にはピザチーズを散らしてオーブンにかける。

 羽田の様子を見にリビングに出ると彼女はソファの上で眠っていた。アームレストに後頭部を乗せて腰の下にクッションを敷いている。『人間の土地』は裏表紙を上に閉じられた状態で彼女の薄っぺらいほっそりした鳩尾に乗せられて呼吸とともに上下している。僕はまず起こしてやろうと思って、でもラザニアが焼けるまでにまだ少し時間があることに気付いた。それから彼女に何か掛けてやった方がいいかと思ったけれど、気の利いたブランケットがどこに仕舞ってあるのか心当たりがなかった。毛布じゃ暑いだろう。そのうちに羽田の瞼が開いて「寝てたの?」と訊いた。

「そうらしいね」僕は仕方なく答えた。

 羽田はそっぽを向いて大きな欠伸をして起き上がる。『人間の土地』が臍の辺りまで滑り落ちたので膝の上に置き直して後ろ髪を整える。「読んだまま寝てたんだ」と言う。

「もうすぐラザニアが焼き上がるよ」

「うん、いい匂いがする。それで目が覚めたのかもしれない」羽田は立ち上がって本を元の場所に仕舞って扉を閉じる。「烏龍茶一杯もらってもいい?」

「いいよ」僕はさっきのグラスに冷たい烏龍茶を注いでテーブルに出した。羽田は何かを考えながらゆっくりとそれを飲んだ。グラスを置くと彼女は不思議な視線で僕を見上げた。

「ねえ」

「なに」僕は手を止める。

「申し訳ないけど、なんだか上手く吐き出せた気がするの」

「帰る気になったね」

「今出れば普段帰る時間とそう変わらない。色々騒がせてごめん」

「そう? 近所迷惑になるほどの足音じゃなかったと思うけどね。なにしろ君は体が軽いから」

「違う違う。そうじゃない」羽田は首を振る。

「せめて半分くらいタッパで持って帰らない?」

「いい、ごめん」

「つまり、今の君にはあらゆる形での日常の回復が必要だ」

「そうだと思う」

「わかった、いいよ。ラザニアはなんとか食べる」

 羽田は唇を薄く結んで頷く。シャツを着てポーチを肩にかける。「見送りはいらない。道はわかるから」

 僕は玄関先に立ってそこから先には進まなかった。羽田は廊下の遠くでエレベータを待っていた。その間彼女は目を逸らさずにこちらを見ていた。もしかしたらそれは一種の償いだったのかもしれない。羽田は僕のことを蔑にしたわけじゃない。ただ僕との関係よりも家族との関係を優先したのだ。しなければならなかった。おそらくそういうことだ。

 彼女は最後に手を挙げて壁の陰に消えた。

 キッチンに戻ってみるとラザニアはよく焼き上がっていて、けれど僕はお腹が減っていなかった。何か食べたいという気分でもなかった。僕はこのラザニアを食べたいのではなく誰かに食べさせたかったのだ、と思った。鍋掴みでコンロの五徳に移して、粗熱を取ってから耐熱皿のままラップを掛けた。

 羽田は一度だけ「僕」のことを「ミシロちゃん」と呼ぶのだけど、それはつまり「僕」のことを同性として愛せる可能性を模索していたのだと思う。

「クリーンな関係でいたい」とは言うけど、それは「僕」が自分に対して気がないことを察したからそう言ったに過ぎないでしょう。

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