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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第1章 詩――あるいは蛇について
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絹江さんのこと、一人ではいられないということ

「先生は他にも何か頼んだの?」狭霧は訊いて、それから両手を編み目に組んだ。「ノートを見せるのと、プリントを渡すのと、あと、他に」

「ご家族に会ったらよろしくって」

「じゃあ絹江さんのことも言ってた?」

「誰?」

「白梅絹江。私の母の姉にあたる人」

「ううん。言ってなかった」

「ふうん」

「母の姉、ということは、伯母? でも、どうして先生が伯母のことを話さなければならないんだろう?」

「さあ、なぜでしょう」狭霧はちょっとだけ微笑を浮かべる。

「なぜだろう」僕は至って真面目に答えた。数回瞬きしただけだ。

「話してもいい?」

 話してもいい?

 それは「教えてあげようか?」とかではなく、あくまで「話してもいい?」だった。

「うん」僕は答えるのと一緒にゆっくり肯く。

「絹江さんは川崎市に住んでるの。自動車のショールームに勤めていて、結婚はしていない。歳は四十六か七だったと思うけど、そんな勘定なしにしても綺麗な人だよ。物腰は穏やかだけど、女性としての色彩や輪郭は全然褪せていない。私がここでおばあちゃんと二人で住んでいる間も半年に一度くらいは様子見に来てくれてた。おばあちゃんが死んでからここへ最初に来てくれたのも彼女だった。そうそう、おばあちゃんはこの家で死んだの。別に、臨終は住み慣れた家がいいって意志があったわけじゃなくて、命日の何日か前に体調を崩して寝込んで、往診に来た先生もそんなに危ない状況だとは診断しなかった。私も風邪の看病だと思ってやってた。死んだのは、というか、私がそれに気付いたのは夜の九時頃だった。触ると冷たくて脈もなかった。苦しそうでもなく、苦しんだ形跡もなかった。死んでから少し時間が経っているみたいだった。つまり、私は何も蘇生措置をしなかったけど、それは、もはやそういった抵抗に意味のある段階ではないと強く感じたからなの。できるだけ早く誰かに連絡することも考えたけど、それもしなかった。もう夜だし、誰かを呼んだところでこの状況はどうしようもないと思ったから。それで、その夜私は一人で眠ることにして、当然なかなか眠れなかったけど、次の朝起きて何も変わっていなかったら、つまり、それが現実だということがはっきりしたら、掛り付けのお医者さんに電話しようと決めた。そして実際そうした。先生は死亡確認のあと私に家族の連絡先を訊いた。母のは知ってるから、他の親類のね。地理的にも血縁的にも近い親戚の。私は絹江さんの番号を教えて、先生が電話をした。それで彼女におばあちゃんの死が伝わったの。先生はそれから葬儀屋さんにも連絡して手配してくれた。それから、絹江さんが着いたのが昼前で、葬儀屋さんはその後。あとは彼らが流れでやってくれるし、確認の必要なことは絹江さんが引き受けてくれたから、私が決めなければいけないことは何もなくて、ただ横に付き添っていただけだった。夜の間、そういうのは私がしなければいけないことなのかなって想像していたから、なんだか悔しかった。私だって親族なのに、役立たずのお荷物みたいで。それから、一日も経たない間におばあちゃんは死に化粧に死に装束をしてそこの仏間で北枕に寝かされた。多くの人が私の前を慌ただしく通り過ぎていった。とても長い一日だった。夜になって、この家で二人きりになって、私も絹江さんもやっと息がつけた。

『疲れた?』って絹江さんが訊いて、『少しだけ』って私が答える。

 絹江さんは死んだ母親をしばらく眺めて『早いものね。人の死が合理的に作業されているというのはなんだか悲しいわね』って言った。『つまり、それは儀礼と、儀礼をつつがなく運行するための産業の作用なのよ。人の死はすでにベルトコンベアの上にあるのよ』

 絹江さんはお葬式が終わるまでここで寝泊まりして、それから四十九日までは火曜日か木曜日、彼女の休日にここに来て私の母ともろもろの話し合いをしていた。私の母が日本に戻ってきたのはお葬式の前の日ね。それから、葬儀費用をどこから出すか、香典返しを何にするか、財産をどう分けるか。そういう話。私をどうするかという話もあった。母はすぐにでも連れて行きたかっただろうけど、私にはそんなつもりもないし、準備もできていなかった。それで一学期の終わりを区切りにしたらいいじゃないかという妥結に至ったんだ。条項は二つ、何を言おうと夏休みに私を向こうへ連れて行くこと、そして納骨から夏休みが始まるまでは絹江さんがここで寝起きして私の面倒を見るということ。だからミシロは私のお母さんがいないのか二度訊いたけど、実は居ないの。居るはずがないんだよ。今はいないって私が答えたのは事実ではあるけど真実じゃない。ちょっと嘘っぽくてごめん」

 狭霧はゆっくり頭を下げた。髪がテーブルの縁に垂れる。

「本当に何も先生から聞いていないの?」狭霧は訊いた。

「初耳だよ。柴谷のお母さんがイギリスにいたのは知ってるけど、柴谷が向こうへ行くまではこっちにいるのかと思ってた」

「それにしては驚かないんだね」

「そうかな。驚いてるけど」

「本当?」

「たぶん驚きの回路はかなりスローモーションなんだよ。だから驚きが感じられるのも遅いし、弱く長く続くから瞬間的にものすごく驚くようなことはないんだ」

「じゃあそろそろ驚いているの?」

「すごく」

 僕がそう答えると狭霧は不思議そうに僕の目を覗き込んだ。

「もし絹江さんではなく私のお母さんがここにいるなら、先生は『ご家族』じゃなくて『お母さんによろしく』って言ったんじゃない?」と狭霧。

「どうだろう。そこまで細かく考えなかったな」

「ミシロが今の話を知らなかったのだとしても、とにかく先生はそこまでは把握しているんだ。そこまでは」

 狭霧は布巾に手を伸ばして改めてグラスの汗を拭き取り、グラスを額や頬に当てて熱を吸わせた。「ぬるくなってきたね」

 僕のグラスの氷もあらかた溶けて無色の水の層が麦茶と分離していた。飲んでみると確かにきりっとした冷たさはない。

「氷、足してくるよ」と狭霧は手を伸ばす。

 僕は麦茶を飲み干してその手にグラスを預ける。脚を伸ばす。

「君のお母さんは今度は自分のお姉さんに自分の子供を任せて行っちゃったわけだ」

「とんだ甲斐性無しでしょう? まあでも、そのおかげで私は万事を一人でこなす術をおばあちゃんから学んだのだけど」狭霧は少し声を大きくして台所から話を続けた。「絹江さんは約束通り毎日うちに帰ってきて、毎朝朝食を作ってくれたし、火曜日と木曜日には家事をして私が学校から帰ってくると買い出しに連れて行ってくれた。おばあちゃんや母の話を聞かせてくれた。自分に子供がいたらどんなだったかな、狭霧みたいな子だったらいいだろうなって言ってくれた」

 狭霧は氷と麦茶を足し終えて、口の中で氷をばりばり噛み砕きながら戻ってくる。

 麦茶はきりっと冷たい。彼女は氷を飲み込んで話を続ける。

「でも時々、私は彼女が本心から強く望んでこのうちにいるのじゃないということを強く感じたんだ。それは彼女が何か少しでも目に見えるような嫌悪を表したということではなくて、ただ、私の親を演じることや、私の親代わりになるということが、自分の宿命ではないと彼女は感じていた。掃除機をかけたり洗濯物を干したり、私の存在を忘れて家事に酷く集中している時、彼女の表情は少しだけ灰色だった。彼女は親切だけど、親切のあとに燃え残った自己犠牲の灰が彼女の中に積もりつつあったのだと思う。私はそれを感じるのがつらかった。だから提案したんだ。もう私の世話をしないでいいって。もちろん絹江さんは突っぱねた。『それはできない』。だけど私は身の回りのことは一人でできるし、一人で眠るのも怖くない。絹江さんにも仕事があって、どちらにしても昼間の私は一人だ。あなたの手を煩わせるのはどうしても大人の手が必要な時だけにしたいんだ。だからもう普通の生活に戻っていい。

 そしたら絹江さんは言った。

『あなたの言う普通って、私が一人で暮らして、あなたのお母さんが一人で仕事をして、あなたとあなたのおばあさんが一緒に暮らす、そういった状況のことでしょう。それはどちらかというと特殊な状況じゃないかしら。どう? 普通を求めるならあなたのお母さんはそもそもあなたから離れるべきじゃなかったとも言える。もし特殊な状況に適応してそれをだんだんと自分の普通にしていくのが人間なら、私たちも今は特殊に思えるこの状況を普通にするべきじゃない? 確かに今の生活は期間限定よ。だけどもしこの形が普通だと思えるなら、もう一度あなたのお母さんと話し合って、あなたがここに残ることもできるの』

『確かにそうかもしれない。でもできることなら慣れた生活を続けるべきだと思うの。私も絹江さんも一人の方が楽なんだ。お互いのことを気にかけて擦り減っていくよりも、お互いに離れて一人でいる方がいい』

『おばあさんがいない一人きりの生活に慣れているの?』

『まだ。だけど一人でも大丈夫なように育ててもらったと思う』

 もちろん絹江さんは簡単には肯かなかった。長いこと考えて、でも最後にはこういったの。

『わかった。納得したわ。つまり、あなたの親はあなたのおばあさんというわけね。それなら仕方がないわ。親が死んでしまったなら、子供は自立しなければ』」

 狭霧は微妙に声色を変えて自分と絹江さんを演じ分けた。麦茶で喉を濡らす。

「それで納得したの?」と僕。

「今のは少し縮めて話したの。もう少し時間は必要だったけど」

「結局無責任じゃないか」僕は唖然とした。

「そんなことはないよ。絹江さんは私を認めてくれたんだ。聡明だよ。それは大人の役目を他人に押し付けるだけの私のお母さんの無責任さとは違う。母が取り上げた責任を絹江さんは私に返してくれると言ったんだよ。絶対に無責任なんかじゃない。……それで、私と絹江さんは表向きだけ一緒に暮らしていることにした。だから先生は本当のことを知らないの。家庭訪問も何度かあったけどその度絹江さんは都合をつけてうちに来てくれたから」

「それが先生の知らない事実なんだ」

「そしてミシロの知らなかった事実だよ。先生に報告しないでね」

「わかった。秘密にしておくよ。だけど」

「だけど?」狭霧は解きかけた表情を再び硬くした。

「だけど、ひとつ疑問があるんだ」

「なに?」

「君のお母さんと絹江さんとの間で話し合った時、君が絹江さんのところへ移るという案は考えなかったの?」

「考えたけど、でも現実的じゃなかった」

「というと?」

「誰かが住んでいてあげなければこの家が死んでしまうから。雨漏りを塞いだり、障子を張り替えたりというだけじゃなくて、扉を開け閉めしたり、畳を踏んで歩いたり、そういう当然のことが家にとってはとてもいいことなの。庭の草花だって、暑い日には毎朝水をやらないと死んじゃうでしょ。私も絹江さんも、この家を蔑にしないことには賛成だから。それがひとつ。もう一つの理由は私にあるのだけど、もしこの家を離れるなら、外国だろうが国内だろうが同じだと思っているから。結局変化は変化だから。私は私という人間をこの場所で積み上げてきた。それが揺さぶられて崩れてしまうかもしれないのはどちらにしろ変わらない」

「じゃあ、柴谷がイギリスへ行ったらここは絹江さんが守ることになるんだね」

「そうなると思う。私の母もここを手放したくないみたいなんだ。理由はそれぞれだけど、私としても知っている人がここにいてくれるのはいいことだし、いつか戻れるならここに戻ってきたいから。私にとってこの場所がどれだけ大切かわかってくれるでしょ?」

 僕は頷いた。疑問を差し挟む余地はなかった。絹江さんについての話はこれで一段落する。狭霧は僕を説得したところで一息つき、フォークを取り直してようかんの最後のひとかけを食べた。

「もっとようかん食べない? 余ったら一人でようかん地獄だよ、これ」

 ということでおかわりをもらって、狭霧は最後の理科2分野のノートを写し始める。僕はそれから孔雀の欄間がどうも気になった。僕が手持無沙汰だと彼女も居心地が悪いだろうし、立ち上がって縁側に出る。やはり風が気持ちいい。家の中は全体に日陰で、風の方も太陽を避けてこの家に集まってくるのかもしれない。襖はほとんど開放されていて壁も少ないので畳敷きの空間がとても広く感じられる。

狭霧の家が狭霧のアジールであるということが明らかになってきます。

あと狭霧は「死ぬ」の婉曲表現を頑なに避けています。亡くなるとか、天国へ行くとか。狭霧は祖母の死をできるだけ直球で受け止めようとしているのです。でもそれゆえに何かをこじらせてしまったのかもしれない。


もし「死」の婉曲表現を網羅したいなら類語辞典なんか引かずにモンティ・パイソンの「死んだオウム」を見てください。英語だってこの手の言い換えはたくさんあるのです。

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