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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第3章 音楽――あるいは愛について
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羽田が踊る

 羽田は玄関で靴を脱ぐと僕より先に廊下を入っていってソファの端にポーチを置いた。それからリビングのフローリングの上でくるりと回り、跳び上がって音もなく着地する。「ここは広くていいな」と彼女は呟く。ハコの広さよりは物の少なさがそう感じさせるのだろう。リビングには絨毯の類も敷いていなければコーヒーテーブルもない。

「綺麗だね」僕はキッチンの仕切りの横に立って羽田を見ていた。

「何が?」

「君が今跳んだのを褒めたんだ」

「そう?」羽田は少し嬉しそうな顔をした。珍しい反応だと思った。

「何か踊ってみせてよ」僕は食器棚からグラスを下ろしながら言った。

「やだよ」

「不自由さではないけど、君の体の細さやしなやかさも女性として十分美しい。それをもっと受け入れてもいいんじゃないかな」冷凍庫のトレーから氷を掴んでグラスに入れ、テーブルで特濃の豆乳を注ぐ。

「豆乳?」羽田はグラスを人差し指で差して訊いた。

「どう見ても」

「炭酸の方ががよかったな」

「炭酸入りの豆乳が美味しいとは思えないけど」

「違う違う。そういうことじゃない。まあ、出されたものは仕方がないから」彼女はグラスを傾けて豆乳を飲んで息をつく。「それで、気晴らしという意味で私が踊るのはいいとして、あなたは見たいだけ?」

「いや、僕が見ているというのは君にとってもいいことなんじゃないかな。君が自分についてゆっくりと深く考えるために」

「自己の相対化のために?」

「そう」

 羽田は顎に手を当てて少し考え込んだ。僕はそれをテーブルの向かい側に立って待っていた。彼女はひとつ頷いて目を上げた。「それなら、条件があるの。私が踊る代わりにあなたが私を描くの。いい?」

「なぜ?」

「私はあなたの目を通して自分を相対化するのだから、あなたの目がその観察に集中している方がいい。違う?」

 僕も羽田と同じように顎に手を当ててしばらく考えた。

「それは一理あるかもしれない」僕は言った。

「でしょう」

「わかった。君が踊っているところを描いてみよう。ドガの踊り子みたいに」

 僕は廊下へ出て自分の部屋から画用紙とカメラを持ち出してくる。羽田はリビングの扉をじっと見つめて僕が戻るのを待っていた。

「描くためにカメラが必要?」

「イメージを補ってくれる」

「写真が?」

「写真じゃだめだよ。君が踊っている間は自分の目で集中していたい。動画を撮る」

 羽田は不可解そうに唇を斜めにしたまま「まあいいわ」という。「ところで、いままで私が踊っているとこ、見たことある?」

「あるよ。去年の学園祭の中夜祭でダンス部のステージがあった」

「そう。じゃあ、積極的に見に来てくれたわけではないのね」

「それは、まあ……」

 羽田は赤いタータンシャツを脱いでソファの上に畳む。下に黒いキャミソールを着ている。ポーチからハエトリソウ型の髪留めを出して長い髪をつむじの高さで束ね、床に座って柔軟を始める。脚を前後百八十度に開き、上体を倒して前方の脚に胸をぴったりとつける。柔らかさはもちろんだけど、体の薄さにも目を見張るものがある。彼女の体は一見とても痩せているようで実は肉付きのよい、ずっと見ていたくなるような細くやわらかい曲線をしている。

「バレエだね」

「だってあなたがドガって言ったんじゃないの。『エトワールまたは舞台の踊り子』『二人の踊り子』エドガー・ドガと言ったらバレエの踊り子でしょう」

「君がバレエをやってるって僕は知らなかった。踊りなら、何にせよドガだろうと思っただけで」

「四五歳の時から習ってるの。私天才じゃないけど、なかなか手堅い踊り子だからね。高校でダンス部に入ったのは自分の意志じゃないの。頼まれたからなのよ。でも嫌いじゃないわ。ああいった世俗的で新しい舞踊も」

「羽田がダンス部って、少し浮いている感じがするものね」

 羽田は何も答えず淡々と柔軟を続ける。横に開脚して前屈、それから立ち上がって背中や脇を反らせる。「バレエはどんなイメージ?」

「高尚」

「予想通り。でも実は教育と称して子女をレッスンに通わせるような代物じゃないの。ドガの生きた十九世紀には踊り子というのは女郎と大差ない身分だった。人前で肩や太腿を顕わにする下品な職業。性交渉をしなければパトロンはつかない。舞台の上の踊り子は美しく、一方その生活はドブ底にある」

「暗い世界だ」

「まさしく」

 羽田は踵を浮かせて立って両腕を左右に軽く広げ、片足を上げてバランスを取る。ふらつきはまるでない。キャミソールとジーンズで踊る。トウシューズはない。靴下だ。いくつか足のポジションをやり、片足をまっすぐに後ろへ蹴り出す。それを交互に。同じ動作で軸足を浮かせる。次いで前方へ足の甲で掃き出すような動作。脚を揃えて回転。

 彼女はあるところでぴたっと静止する。「ねえ、オーディオ出力できない?」羽田は訊いた。

「ウォークマン挿せるアンプ?」

「うん」

「あるよ」

 テレビ台のテレビの足元にパイオニアの平たいコンポが収まっている。下開きの扉を開いて電源を入れ、ステレオ入力に挿さっているコードを表に引き出す。

「これに挿して。少し音が小さいかもしれない」

「ずいぶん立派なアンプ」羽田は感心しながら自分のウォークマンにプラグを挿し込む。つまみを回して音を大きくする。

「前に伯父さんが使ってて、僕が欲しくて揃えているわけじゃないよ、もちろん」

「どんな曲を聴いたの?」

「古いブルースロックだよ。聴くよりはレコードを集めるのが好きだったみたいだけど。ここに住む代わりにレコード磨きのノルマがついてるんだ」

 羽田は曲を選んで再生する。チャイコフスキー「眠れる森の美女」第三幕、姫と王子のパ・ド・ドゥから二人のヴァリアシオン、つまりソロの部分をやるという。僕はカメラをテーブルの上に置いて羽田の動く範囲をきちんと画角に収めるように調節する。席に座って録画ボタンを押す。羽田は曲をもう一度始めからにして、部屋の右奥で右足を前にして両手を開いて構える。

 踊り始める。動作は同じだ。でも先程より躍動感がある。流れるように、見えない力に引かれているように滑らかに踊る。

 僕は彼女の体の動きをじっと観察して頭の中のイメージを組み立てていく。一瞬のシルエットを様々な方向から重ね合わせて一つの立体をイメージする。そこに欠けたところがないか実物を確認しながら細部を描き込んでいく。イメージを描き込んでいく。それはまだ僕の頭の中のことでしかない。

 僕は羽田の表情を見る。彼女の目は平衡維持のために一点を見つめながら、実際は自分の内部に向って深く覗き込んでいる。その光が外に放出されることはない。外界に対して感覚を閉じ、自分の全てと向き合いながら踊る。

 しかしある瞬間に彼女の目が観客としての僕を捉える。そしてすぐに僕の内部を見通してしまう。僕は彼女に対してあまりに感覚を開いていて、そして無防備だった。それを恥ずかしく感じた時には彼女の目はもう僕を見ていない。でも表情は少し笑っているように見える。

 やがて曲が終わり、羽田も踊るのをやめる。僕も録画を止める。録画時間は三分半を超えていた。力を抜いた彼女は薄い肩を上下して激しい呼吸をしている。ただ踊るだけでも疲れるだろうけど、足音を殺すのに気を使っていたのかもしれない。ウォークマンを止め、ガラス戸を開いてベランダで外の空気を吸う。キャミソールの裾や脇を扇いで体を冷やす。

「うちわ要る?」と僕は訊く。

「平気、すぐに収まるから」彼女はしばらく欄干に背中を預けて涼んでいる。「それより何か冷たい飲み物が欲しい」

「冷たければ何でもいい?」

「豆乳以外」

 僕は冷蔵庫から作り置きの烏龍茶のボトルを取って新しいグラスに注ぎ、ベランダまで持っていく。羽田はそれを旨そうに飲み干す。僕は戸口の手前で待っておいて空になったグラスを受け取る。彼女は髪留めを外し、髪の根元に指を通して冷気を入れる。体を返して景色に目をやる。

「ねえ、何か踊れないの?」羽田は訊いた。

「僕が踊れるかって?」

「そう」

「おかしな質問をするね」

「散々性的嗜好の話なんかしてきて、いつ私がまともだと思えたの?」それから僕に斜めに視線を向けて「踊ってみない?」と訊いた。「私がリードしてあげるから」

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