不自由フェティシズム
上野から三つ目の駅、町屋を出たところだった。まどろみの淵に落ちようとする僕の膝に羽田が膝を当てた。彼女は吊革に両手でぶら下がって僕に覆いかぶさるようにして立っていた。僕はその状況をうまく飲み込めないまま間抜けに彼女を見上げていた。
「なに?」僕は深い眠気の霧の中から訊いた。
「眠っているの?」彼女もまた訊いた。
「いいや」
「じゃあ、頼みがあるの」
「え?」僕はだんだん目が覚めてきた。それは水面に垂らした洗剤が広がっていくみたいに結構急速な目覚めだった。
「ごめん、今日一日だけ泊めてくれないかな。用意なんて何にもしなくていいから」
「どういうこと?」
「あなたの家に行ってもいいかって訊いたでしょう。そしたらあなたはいつでもおいでって言った」
「そう、それは確かに訊かれたと思うし、来てもいいと答えたと思う。でもどうして同じ電車に乗ってるんだろう。改札で見送ったはずだけど」
「山手線には乗ったわ。でも日暮里で降りたの。京成に乗り換えて、ホームの一番後ろで目を凝らして待ってたのよ」
「それで僕を見つけた?」
「動体視力だけはいいの」
「もし見つけられなかったら?」
「さあ。適当に区切りをつけて一人であなたの家に行っていたんじゃない。ねえ、泊ってもいいでしょう」
「僕は構わないけど、泊るとなると色々な用意が要ると思うんだ」
羽田は小さなポーチしか持っていない。そこに着替えや歯ブラシがしっかり詰め込まれているとは思えない。
「それはしてもらわなくていいと言ったでしょ。自分でなんとかする」
「でも、なぜ、急に?」
「もう少し話したいことがあるの」羽田は僕の横が空いているのを確認して腰を下ろした。
「それは今じゃなきゃいけないことなんだね」
「そうよ」
「聞こうか」
「それは私についてのことなんだけど、一つ先に訊いてもいい?」
「なに?」
「あなたのお姉さんが中絶したのいつ頃なの。歳ではなくて、段階として」
「ごく初期だよ」僕は躊躇して顔を近づけて小声で答えた。周りの見ず知らずの乗客たちにとって僕の姉が中絶したなどという話がいかに瑣末で無益な情報かくらいわかっていた。けれどそれでも僕は僕の言葉を羽田以外の誰かに聞かせたくなかった。
「じゃあ肉体の変化はまだ自分だけのものだったのね」
「そうだと思う」僕はまた小声で答えた。
羽田は注意深く僕の目を見て「わかった」と頷いた。鞄から電話を出してメールを打ち始める。僕は初め彼女の手元に注意していたけど、なんだかそれもデリカシーに欠ける気がしたので画面を見ないように顔を上げて向かいの網棚の上の広告に目をやった。私立大学の広告が並んでいる。
羽田はメールを打ち終えると電話を鞄に戻し、鞄の上に両手を重ねて目を瞑った。顎を引いて背筋の伸びた姿勢。眠りではない。何かを待つための姿勢だった。僕は彼女の様子を確認したあとまた向かいの広告に目をやって、それから彼女の事情について考えを巡らせた。家に誰がいるのか、「泊りたい」と頼む理由は何か。メールの相手はたぶん家族だろう。どんな説明したのか。
二年前、「家に誰かいるの」と狭霧は二度訊いた。最後の数ヶ月の間、狭霧の家は目に見えない破壊の最中にあった。それはシロアリとか基礎の腐食とかそういった問題ではない。もっと精神的なものだ。彼女は難民だった。けれど僕は僕の領土を持たなかった。ただの子供という付属物だった。
関屋のアナウンスが流れる。窓の向こうに桐の花とヤードのボロ屋根が見えた。僕はいつもそれを目印にして降りる準備を始める。桐の花は五月だけだが、ボロ屋根の方はなかなかくたばらない。錆々の螺旋階段の付いたパンクな建屋だ。僕が立ち上がると羽田も目を開けてすっと立った。僕はドアの前で猫みたいな大きな欠伸をした。
「切符は?」僕は改札の前で客の流れから外れて振り返った。
「何を言ってるの」羽田はパスケースに入ったスイカを僕の前に翳した。
駅前の墨堤通りは水道局の作業車が左車線を塞いでいた。交互通行を仕切るための誘導員が横断歩道の前に立って、間を持たせるために通行人に挨拶を配っていた。空はまだ青い。通りの上に縞を描くようにしてビルの長い影が落ちている。ぼんやりしたまどろみのような午後だった。
「私にも姉がいるの」その信号を渡ったところで羽田は話を始めた。「今まさに妊娠している」
「それはおめでとう」
「下の姉を挟んで六つ上。ちゃんと結婚しているの。結婚してから妊娠したのよ。もうすぐ生まれる。三年くらい前から今のご主人と同棲していたのだけど、ここ一ヶ月ほど出産のために実家に戻っている」
「じゃあ今は君と一緒に暮らしているわけだね」
「そう。私、姉に対して三年前とは全然違った感情を持っているの。今の姉はお腹が大きくて、微妙にしんどそうで、全然ゆっくりにしか歩けない。妊娠というものは往々にしてそういう不自由さをもたらす。でも姉はその傾向が人一倍強くて、まるで動けないのよ。そういった不自由を強いる姉の肉体が私にはとても愛おしいものに感じられるの。見ていたい、触りたい。姉のことを昔は全くそんなふうに意識していなかった。なぜまるで見え方が違うのか、そこには私の視点の変化もあるのだろうけど。つまり私の性への認識や性的嗜好の発現や」
「君はお姉さんに同性愛的な感覚を抱いている」
「姉というよりは、その肉体を。私が姉に興味を持つのは姉が妊婦だからよ。姉が子供を産んだらそれは消えてしまうもの。私が愛しているのは妊婦という属性であって、姉という人間ではない」
「フェティシズム」
「そう。ただね、私自信がそうしたいと考えているんじゃなくて、そうなってしまっているの。そこは勘違いしないで」
「つまり君はお姉さんにどう接したらいいかわからないわけだ」
「女性としての不自由さへの憧れのようなものよ。私は胸もお尻もないし、ある意味では身軽なの」
二人で並んで歩いているのだけど、羽田は僕に顔を向けるでもなく方々へ目をやって、かといって沿道の建物や車通りを確認しているわけでもない。もしかしたら目線の動きで自分自信に言葉の組み立てを指示しているのかもしれない。
「羽田、生理は?」
「生理はあるわ」さすがに苦笑した。「女としての自覚はある。だから同情が通用するのよ。擬似的に、その不自由さから完全に解放された高いところから、私はその不自由さを見下すことができる。そこから慈悲の手を差し伸べる。実利的に私は不自由でないという点で相手より勝っていると同時に、同じ自分の尺度の上で女として負けている。例えば巨乳の子に胸を触らせてもらうとする。彼女が服を選ぶのが大変とか、肩が凝るとか、悩みを言ってくれるのを聞いて同情する。その一方で胸の重さや柔らかさに感心して、自分はぺったんこだと絶望するの」
「屈折している」
「そうね。それは認める。でも人間の深い愉楽というものは常に屈折や矛盾と結びついていると思うの。そこに思考や想像の妙がある。人間には幸福がなくても悲しみの中に充実がある。あなたにも屈折はあるでしょう」
「あるだろうね、おそらく。でもそれって特殊なものかな。つまり、君が言った『不自由フェティシズム』とでも言えそうなものって」
「大勢が持っていてもそこまで考えが及ぶのはほんの一握り。弱き者を手助けをしたり、守ってやろうとしたり、それはありふれた衝動で、親切に過ぎないのだろうけど、結果的に自分の強さと相手の弱さを際立たせることになる。それを自分で認めるかどうか、認めた上で自分の衝動を肯定するか、否定するか、そういう問題になってくるのね」
「君は認めたね」
「認めざるを得ないからよ。家に帰っても全く気が休まらないのよ。姉がふらふらしているのを見る度に鼓動が速くなって喉が渇いて」
「そういう自分に付き合うのが嫌で家に帰りたくない」僕は指摘する。
「当たってる」
「だからここへ来た」
「私って面倒な女でしょう」
「なぜ?」
「もし一人暮らしの彼氏でもいれば間違いなく彼の家に転がり込んだはずだから」
「それがないから君はここへ来て僕に話をしている」
「そう」
「なるほど」
「怒らないんだ」
「怒らないと踏んだから君は僕に言ったんだよ」
「そう。あなたにしか話せないことがあるのよ」
「それは喜ばしい」
「なんで?」羽田は首を傾げて僕を見た。僕らはそれまでお互い目を向けずに並んで言葉を交わしていた。きちんとした横並びでもなく、僕の方が少しだけ先を歩いていた。
「貴重な存在であるということは常に喜ばしいことなんだよ」と僕。
「ふうん、変なの」
羽田の反応だった。たぶんほんの少しだけ親しみが籠っているのが独特なのだろう。言われてもあまり悪い気分はしなかった。
セキュリティドアを抜け、ポストを覗いてエレベータに乗る。我々は並んで階数表示を見上げる。
羽田が抱えているのはたぶん何のことはないありふれた悩みで、年頃の少女が抱く女性性への不安とか猜疑の表れだと思うのですが、深く突っ込んで考えていくとこういうレベルになるのかもしれない。なまじっか思考力の高い高校時代に彼女はその問題に直面しているのです。




