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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第3章 音楽――あるいは愛について
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性のアイデンティティ

 ストローでコーヒーを一口飲んで「ねえ、でも、どうしてヘビだったの?」と羽田は訊いた。「トカゲやカメレオンではいけなかったの?」

「ヘビでなくてはだめだったと思う」僕は手を蛇にして顔の横でぱくぱくさせる。「ヘビには牙があるし、ヘビは這う」

「牙があって這うものでなければいけない理由は?」

「別にないよ。僕はヘビには牙があり這って動くと言っただけで。蛇への興味そのものはなんとなくだよ。好奇心と言ってもいいだろうけど、なんというか、生理的な興味なんだ。生理的な感情には理由はない」

「そうかしら?」

「そうだよ。人が誰かを好きになるのと同じだと思うよ。その正当な理由を探そうとすればするほど自分の感情が不当で邪なものに思えてくる。それは本当は理由じゃなくて単に好きな相手の要素に過ぎなかったりする。例えば、ほら、胸の大きさだって人を好きになる要素だろうけど、なぜ好きなのかって根拠を説明するのはとても大変なことじゃないか。それだって意識しなければ理由にはならない。そういうものをなぜと訊かれても、好きだからとしか答えようがない。そういうものじゃないかな」

「好きというのも生理的な感情なのね」

「それが本気ならね。その感情は何かの理由にはなっても、それ自体には理由のないものだよ。きっと僕の体の中には小さな蛇が居て、ぐるぐる泳ぎまわっていて、時々仲間に会いたくなるから、僕の中のどこかにある蛇に会いたくなるスイッチを咬んで、すると僕はなんとなく蛇に会いたくなるんだろうね」

「そのスイッチはしばしば咬まれるものなの?」

「そんなことはない。今回が初めてかな。少し前から咬まれていて、今日それを解消した」

「どう、そのヘビくんは満足している感じ?」

「どうかな、今はまだわからない。家に帰って落ち着いたらヘビくん本人に訊いてみるよ」

「手の上に乗せてね」羽田はくすくす笑ってグラスの中をストローで掻き混ぜる。「ところで、あなたには好きな人が居るの?」

 僕は羽田のグラスの中で回転する氷を眺める。「いるよ」

「相手は女でしょうね」

「うん」

「それは私ではないのね」

「なぜそんなことを訊くの?」

「訊くというより、指摘したの。女の子は誰かと付き合っている時が綺麗だと、あなた言ったでしょう。それが理由」

「よくわからないな」

「その一方で誰とも付き合っていない私には興味がないんでしょ。カップルの方割ればかり好きになるという恋愛の病を抱えた人、私知ってるわ」

「僕がそういう性癖だとは思わないけど」

「意外とわからないものよ。自分のことなんて一度や二度では」

「僕の恋愛が一度や二度だと?」

「恋には慎重でしょう?」

「確かに、慎重だ。それは自覚があるな」

「で、その人のどこが好きなの」

 僕は目を俯けてテーブルの陰から覗く羽田の小さな膝小僧をぼーっと見ながら考えた。

「綺麗な人だよ。最初に会った時にそう思った。まだよく知っているわけではない。だけど惹かれていると感じる」

「まず見かけが好きなのね」

「否定できない」

「女性的なの?」

「まさに」

「その人を自分の手にしたいと思っている?」

「そしてその人の手にされたいと思っている」

「その人になってみたいと思っている?」

「え?」

「試しに訊いてみたの。心や体を借りるということよ。比喩でなく重なることができればそれは相手と距離を縮めるということの極致だと思うのだけど」

「一心同体になりたい?」僕はそこで一度言葉の意味を考え直した。「だけどその時同時に愛すべき対象も失われる。それは孤独じゃないだろうか」

「私、何かを求めるということの意味を知りたいのよ。なぜ人間に渇愛があり、肉欲があるのか。爬虫類館の外で話した時、ホモセクシャルにはあまり突っ込まなかったの」

「ねえ、ひょっとすると君は誰か女の子のことが好きで、今日エスケープしたのは彼女に対して何か都合が悪いから?」

「それは」羽田はいかにも逃げ道を探しながら答えた。「残念、違うわ。でも完全には外れていない。私がもしホモセクシャルとトランスジェンダーと、それについて話す相手を選ぶなら、あなただろうって思っていたのは確か」

「さっき更衣室の話が出たね」

「ねぇ、私はあなたに好きな人はいるのかって質問をしていたのよ。話が変わってる」

「それについてはもう答えられるだけのことを答えたよ」

「本当?」

「本当に」

「なるほど」羽田は少し背中を丸めて難しい顔をした。

「さっき君が更衣室の話を持ち出したのは、実際に君が誰か同性に対して性的関心に近いものを感じているからじゃないかと思ったんだ」僕は頃合いを見て言い直した。

 羽田は答える。

「そう。私自分が過剰に他の子の裸に反応しているような気がするのよ。他の子たちの方がずっと冷静でいるように見えるの」

「誰だってそうじゃないかな。比べる意識が強くなるというか。そういう比べる視線への意識が鋭くなるというか」

「そう……」羽田は頷く。わかっているけど納得がいかない。そんな様子だ。

 羽田は続ける。

「同性愛を肯定するものは、肉体へのフェティシズムなり、共感とか、美的感性とか、異性への反感とか、色々にあると思うの。でも異性への愛や肉欲を代替してしまうような同性愛というのは人間という生き物として自然ではないでしょう。生存と次世代の再生産を意識していないのだから。男を演じているのだとすればそれでも説明はつく。仮に私が女に欲情するとして、私は私自身かあるいは相手を男とみなしている。同性の関係を異性の関係に置き換えて合理化している。それなら理解はできるし、現に女同士のプレイでは男の性器の模型を使うことがあるのね」

「女として女を求めるということはない?」

「きっとあるのよ。極めて自然で、いかなる演技や代償も含まず、友情とも異なる、愛と肉欲を伴った関係が。だけど私にはそれが理解できないの。本当は肉欲ではないんだろうとか、演じているんだろうとか。そんなふうに疑っているわけ。その辺りあなたの感覚を聞きたいんだけど」

「僕が同性愛を肯定するのかどうか?」

「うん」

「否定しないよ。あって然るべきものだと思う。だいたい、同性愛というのは君が考えたほど行き詰ったものなんだろうか。異性愛だって必ずしも生殖に結び付くわけではなくて、避妊したり、相手の妊娠がわかって逃げ出す男がいるように、むしろ結び付くケースの方が稀じゃないかな。それに、相手の性別に対する尊重から自分もその性を演じる奴だっている。ただ自分の快楽欲求を満たすのに相手が誰がいいか。それは性別に関わらず、僕の求める誰かであり、君の求める誰かなんじゃないのか」

「尊重のための同性の演技?」

「例えば僕は男性性というものを肯定的に捉えていない。単独ではまだしも、女性の前では」

「なぜ」

「僕の姉が中絶して死に掛けたから」

「子供を下ろしたの?」

「産科に行くのが嫌で自力でやったんだよ。石鹸水をつくってホースとポンプで流し込んで。そしたら夜中にものすごい出血して、部屋中血まみれにして、僕が気付かなかったらもう少しで失血死するところだった。彼女が病室に入っている間に親族が代わる代わるほとんど一回ずつくらい問い詰めたようなものだけど、相手が誰なのか彼女は最後まで言わなかった。だって、そんなことを訊かれたくなんかなかったんだよ。決して相手のことを庇おうとしていたんじゃないけどさ、男の方は彼女の苦しみを知らずに生きていくんだ。苦しみというよりも、誰かの快楽のために自分が殺されかけたりする痛みや恐怖をさ」

「とてつもない経験をしたんだ」

「姉はね。僕じゃない。僕はただ彼女の経験をそばで見ていたってだけで」

 羽田は少しの間沈黙する。

「あなた、自分のお姉さんのことが好きなの?」

「それは違うよ。家族としてはもちろん好きだよ。でもさっき好きな人を訊かれた時イメージしたのは彼女じゃない」

「なるほどね」羽田はそう言って外の通りへ目を向け、僕を見た。「あなた私を信用しているのね。滅多に他人に話すことじゃないでしょう」

「そう、他人に言ったのは初めてかもしれない。話すべきだと思ったし、何より話したいと思ったから話したのだと思う。でもその条件は僕にもわからない。相手との親密度なのか、理解されていると思うからなのか、気が合うからなのか、それともたまたま心が開いているだけなのか」

 羽田は一度だけゆっくり瞬きをした。「わかる。それは、なんとなくだけど、理解できるもの。私、口は固いから安心して。きちんと預かっておく」

「とにかく、生殖に主眼を置いたら同性愛は確かにナンセンスかもしれない。でも、異性愛だって多くは生殖と切り離されているんじゃないか」

「そうかも。……でも、だとしてよ、なぜ男女交際がマジョリティになるの? ただ社会の潮流がその向きにあるから?」羽田は唸りながら席を立つ。

「あれ、まだ途中じゃないの?」

「でも今日はもういいの」

 僕が動物園のチケットを買った代わりに、喫茶店の勘定は羽田が出してくれた。狭く薄暗い階段を下りて表通りを駅に向って歩く。

「あなたがそうしたように、私にもあなたにひとつ預けてみようかと思うものがあるの」

「なに?」

「まだ決めていないから前置きしたの。信用が過ぎるかどうか」

「それは仕方ない。熟考しないと」

「考えることも、感じることも、私にはまだ不足なの。とにかく、また今度。どこかにヘビを見に行くか、それか、あなたの家でごはんをつくってもらう」

「まあ、構わないよ、どちらでも」

 JR上野駅南口に到着する。羽田は改札を通って少しだけ手を振る。僕もその真似をする。人並外れてほっそりとした後姿が人混みに紛れて見えなくなる。僕はそれから京成の駅まで歩いて、ホームのベンチに座って電車を待った。構内にはぶーんと低く多層的なラジエーターの音が響いていた。特急ホームのスカイライナーが発する音だ。車体が新しくまだぴかぴかしている。僕が座ったのはほとんどホームの端なので人間の気配は希薄だった。背中合わせのベンチにスーツ姿の禿げた男が体を伸ばして静かに眠っていた。あとはどこからか清掃員が蓋付きの塵取りをぱたぱたする音が聞こえるだけだった。目を瞑ると羽田が「変なの」と呟く声が何種類か頭の中に巡った。

 やがて六両編成の折り返し電車が入ってくる。端の席を取って少し眠る。歩いたのと陽に当たったのが疲れになっていた。こういう時の眠りは浅いもので、大抵のことはおぼろげに記憶している。アナウンス、ドアの開閉、発車の揺れ。地下区間を抜けて空の下に出る。坂を上り、日暮里の三階ホームに入る。ここでは大勢の客が乗ってくる。加速とともに眠りは少し深くなり、減速とともに少し浅くなる。覚醒に近づき、眠りの底へ戻っていく。繰り返し。リピート。

すでにお気づきでしょう。羽田とのこのシーン、作中最長です。

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