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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第3章 音楽――あるいは愛について
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羽田と蛇に触れる

 我々は不忍池を弁天門の方へ抜ける。池の上を見渡すと無数の枯れたハスの茎が針のように突き出し、桟橋の袂には茶色くなったハチスが風にぎっしりと打ち寄せられ、中島の上にウが集まってそのフンで地面が白くなっている。カラスの群れはビル群の手前を飛び、岸辺の道をランナーがサングラスをして走り、洲が隔てる上野公園側の池には何艘かボートが浮かび、浅瀬に突き出た澪木や浮きの上にカモメが器用に乗っている。ボートの桟橋が見えた時、「ああいうの乗ったことある?」と羽田は訊いた。

「手漕ぎボート? 足漕ぎだったら小学校の遠足で乗ったことがあるけど」

「ふうん。結構難しいのよね。どうして前を向いて漕がないんだろうって、ほら、進む方に背中を向けるでしょ、あれがずっと不可解だったの」

「なかなか疲れるだろうね」

「そう。オールが水を掻く時に握りを引っ張る方が力を入れやすいからなのよね。人間が自分の手で水を引っ張るなら前に進むけど、間に支点があって。簡単な梃子の問題」

「簡単な問題でも人間は時に理解に苦しむ」

「そうね。まったく、その通り」


 駅前の人混みを抜け、線路を越えて国道沿いにしばらく歩く。今度は羽田が先を行く。僕はその何歩か後について、ジーンズに包まれた羽田の細い脚の運びを眺めていた。接地の度に膝が内側に入って力を逃がしている。癖のある歩き方だ。脚が細いからそんな歩き方なのか、それともそんな歩き方だから脚が細くなるのか。

 ペットショップは雑居ビルの二階に入った手狭な店だった。店内はあっちこっちで灯っている紫外線ライトのせいで不思議な雰囲気に満ちていた。三十くらいのレゲエ的に陽気な男店主が一人で切り盛りしていて、同じくらいの歳の男と世間話をしていた。友達か、それとも常連か。他に客は居なかった。好奇心だけで寄ってくる迷惑な人間も多いのかもしれない、店主はしばらくは監視カメラみたいにさりげなく見守っていたが、そのうち歩いてきて声をかけた。

「飼う気はないのだけど……」と羽田が応える。いきなりそんなふうに断ってしまう度胸は僕にはない。

「まあ、君くらい平気なら、いいかな」と店主は片目を細める。

 やっぱり悲鳴も上げずに大人しくしている女の子が珍しいのだ。羽田はあらかたの事情を打ち明けて、出来るだけ元気のいいヘビが見たい、と頼んだ。

 店主は「そうだなあ……そうだなあ」と呟きながらのそのそと店内を一巡して、気紛れみたいに立ち止まると足元の段から飼育箱を引き出して店の奥のテーブルに持っていった。飼育箱といっても小さな衣装ケースだ。中には緑色の細長いヘビが何匹か入っている。店主は空気穴を開けた蓋を取って、隅の方でにょろにょろしていた一匹の首をわしっと掴んで持ち上げた。「手を出して」と指示する。

 羽田は細長い手でお椀をつくって「咬まない?」と訊く。

 店主はヘビを彼女の手の中に落としてしまってから「咬まないよ」と答える。

 ヘビは最初首をぴんと伸ばして舌をぺろぺろさせながら落っこちないように手首に尻尾を巻きつけてぐるぐる回っていて、そのうち手の上が安全だとわかると手のお椀の上に綺麗に収まってじっとするようになった。羽田はその間ぴくりとも手を動かさなかった。そして用心深く「本当に咬まない?」ともう一度訊いてから顔を近づけてよく観察した。

 ラフグリーンスネークという種類だそうだ。合衆国原産のヘビで、背中の緑色がとても鮮やかで、体長は四十センチくらいで体も細い。昼行性なので目が大きくてかわいらしい。性格もおとなしくて滅多に噛まない。コオロギなどの昆虫を食べる。サン=テグジュペリが「金のブレスレットみたい」と称した蛇ももしかしたらこんなふうだったかもしれない。

 羽田はヘビを手の上に乗せたままいくつか質問する。

「これはほんとに生き物なの?」

「もちろん」店主が答える。

「この細い体の中に生き物に必要な内臓が全部収まってるの?」

「細い体に合わせて細長い内臓が収まってるんだよ」

「ヘビもセックスをするの?」

「セックスをしないと子供ができないからね。オスのヘビには一対の短いペニスがあって、一度の性交にはどちらか片方のペニスを使う。それをメスのヴァギナに引っ掛けて射精する。彼らの時間は僕たちより長いから、一日くらいもセックスを続けていることがある。まるでヘルメスの杖に巻き付いたヘビみたいに互いの体を絡ませあったままね。セックスをすればもちろん子供ができる。卵生と胎生のヘビが居て、その中間のヘビもいる。卵も細長くて、子ヘビは卵を割るためのタマゴツノを持っている。それでもって殻を内側から一生懸命叩くんだ。こつこつ、こつこつ、ってね。一方胎生の子ヘビは母親のおなかから細長いからだのまんまにょろにょろ出てくる。どちらにしろ親は子供の世話をしない」

 羽田は気が済むと僕に手を出すように言って、僕が用意した手の上に手を重ねた。僕の掌に羽田の手の甲が触れる。羽田は両手をゆっくり分離させる。別の手に移されたヘビはまた不安そうに動き出す。思ったよりさらさらしていて、しかも少し温かかい。ヘビは今度は頭を擡げたまま静止する。一対の黒い目がどこかを見ている。ものすごく遠くを見ているような、それともどこにも焦点が合っていないような感じもする。とにかくじっとしている。自分の内側に深く入り込んで何かの考え事に没頭しているのかもしれない。考えているとすれば、僕の手の感触や温かさのことだろうか。それとも生まれ故郷や兄弟たちのことだろうか。

 僕は羽田より短い時間でヘビとのふれあいを諦めて、店主に飼育箱に戻してもらった。ヘビはプラスチックの感触を確かめるようにしばらくケースの角に首から肩にかけてのあたりを擦り付けていた。

「珍しいね。君たちほど大人しくヘビを見ていくのはマニアのコレクターくらいだよ」店主は言った。

 彼にお礼を言って階段の踊り場に出る。隣のビルとの間の隙間に上昇気流があって、顔を出すと前髪がぶわっと吹き上げられた。換気扇のせいかもしれない。下を覗くと室外機や打ち捨てられたコンクリートブロックが見える。根性のあり余った雑草がコンクリートの境目から生えている。薄暗い。向こう側の隙間の出口が天まで届く光の塔になっている。

「この上喫茶店だって」と羽田。

 確かに置き看板が出ている。金曜日は飲み物と一緒に頼むと手作りティラミスが300円だそうだ (この日は金曜日だった)。

「他に行きたい場所とかある?」

「ううん。ヘビを見に来ただけだから」僕は答える。

 羽田は軽く頷いて階段を上っていく。段の端には素焼きの鉢に慎ましく収まったアロエやサンセベリアなどの観葉植物が置かれている。土は濡れていた。

 立ち食い蕎麦屋みたいな小さい細長い店で、道路側がテラス風にの開口になっている。頃合の日陰になっているのでテラス席に座る。表を眺めると並木のちょうど目の前のイチョウに羽の青い綺麗なオナガが二羽留まって、居心地を確かめるみたいに枝の間をふわふわ跳ねていた。他の客は少ない。二人組のOLが奥の席を取っているだけだ。昼食時からまだ二時間くらいしか経っていない。あいにく僕も羽田もお腹が減っていなかったのでティラミスはやめておいて、紅茶とコーヒーを頼んだ。

 羽田は少し首を前に出して僕をじっと見つめる。瞬きをしない。手はテーブルの下に隠している。何か意図があるみたいだけど僕には彼女の心を読むことはできない。

 一体なんなのだろう?

「ヘビの真似」と羽田。ようやく瞬きをする。結構我慢していたらしく目に涙が溜まる。指でそれを拭う。

「瞬き我慢してたの?」

「うん、してた」

「すごいね。だって生理現象だよ。あ、もう無理ってなるよね?」僕は素直に驚愕していた。数分か、そのくらい長い時間だった。

「つまらない特技でしょ。死人役にはうってつけだろうけど」羽田は目玉をぐるりと回して二三度瞼に力を込めて瞬きする。「それはそうと、ヘビ、意外と可愛かったね」

「うん」

「ヘビって、こんな目が細くて、ぶつぶつしてて、凶暴なのかと思った」

「ぶつぶつして凶暴なヘビもいるよ。ボアとかアダーとか。人間にもごつごつして凶暴なやくざの男が居るみたいにさ」

「その点、今日の子はヴァージンの女の子みたいにつるつるだった」

「ところがヘビについての人間の認識は昔から一辺倒だったよ。つるつるじゃなくてぬるぬるなんだ。しかも不潔」

「つまり、ファルスの象徴だったわけでしょ。知ってるわよ。脱皮は体の一部を犠牲にすることによる生命の再獲得。割礼はヘビの脱皮の真似事というわけ」羽田は溜息をつく。

 彼女の目は言い始めと言い終わりだけ僕の顔のどこかに留まって、あとはだいたいあちこち泳いでいる。

「もしかして詳しい?」僕は訊いた。

「私が外部で演劇を習っているのは知っている?」

「いや」

「劇団で創世神話的シナリオをつくったことがあって、その時にちょっとしたレクチャーを受けたのよ。生物学的な話はわからないけど、いろんな民話にヘビが出てくるし、日本神話だってスサノオが九頭竜を首ちょんぱにしてやったでしょ」

「みんなそんなふうに勉強するの?」

「そんなことない。演劇は表現だから、表現に必要なことを台本から想像できる人には要らない。私がそうじゃないだけ。キャラクターや時代の背景とか、その世界の神話とか、演技にあまり関係ない設定って客からは見えないけど、そういった土台がないと役者としての私は不安だから」

「なるほどね」

「これは私の想像だけど、蛇が何かしら神秘の象徴だと考えていた昔の人にとって――つまり、手も足も瞼もない生き物なんて人間や他の動物と同列には扱えない、と考えていた時代の人々にとって、ヘビはヘビでもメスのヘビは特に複雑な存在だったんじゃないかと思うの。なぜかというと、ヘビは男の象徴でしょう。実際には男の象徴にも性別があってメスのヘビがいるのだということを彼らは認められたのかな。それがメスでも男の象徴になるのか、あるいは両性具有的な扱いをされたのか」

「ああ、なるほど」僕は感心して答えた。

「なに?」

「メスのヘビが両性具有の性格を持つ、か」僕は少し考えて答えた。「それは、でも、蛇と人間を重ねすぎた発想じゃないかな。古代の人がヘビのことを自分たちと同じように性別があって繁殖するものだと思っていたかどうか、僕は疑問だよ。どうやって増えているのかとか、それなりの謎が残っていなければ神秘の象徴として崇拝されたりしなかっただろうし」

 羽田は少し険しい顔をして指で前髪を直した。

 喫茶店は丸眼鏡をした年長の男と二十くらいの若い女の子の二人で切り盛りしていた。親子なのか、それに類する血縁者なのか、それとも赤の他人なのかわからない。すごく似ているというわけでもないし、すごくかけ離れているわけでもないけれど、でも二人の近さを感じさせる何かがある。長い間連れ添っている夫婦は似ているという噂もあるけど、そんなふうにずっと同じ場所で働いているから雰囲気が似ているだけなのかもしれない。とにかく女の子の方が紅茶とコーヒーを運んできて、紙のコースタを敷いてその上にグラスを置いた。「ごゆっくりどうぞ」と付け添えて厨房に戻る。

 ラフグリーンスネークって確か中南米原産でしたよね?


 そういえばこの物語には登場人物それぞれにイメージする国があります。それはとてもあからさまだったり、わかりにくかったりするわけですが…。

 狭霧がイギリス、絹江さんがポーランド、なんてところはわかりやすいんじゃないかしら。

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