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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第3章 音楽――あるいは愛について
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なぜ巨乳がいいのか

 我々は建物を出て右手に行く。そこは不忍池に向う裏手の道で、ぐっと人通りが少なくて静かだった。羽田は植え込みの縁に座ってポーチから出したスマートフォンで検索を始めた。僕は少しの間その手を見ていた。大きいけれどそれなりにほっそりしている。それは少女というより少年の手を思わせた。

 それから僕は体を伸ばして辺りを眺めた。爬虫類館のガラスの中に裏方の様々な機械がぼんやり見えている。高い所で跳ね上げ式の窓が換気のために開けられている。池の方からカモメやカラスの鳴き声がする(不忍池にはカモメが居るのだ)。

 我々の前を右手から左手に向って三歳くらいの小さな女の子が通る。首からかけた水筒が暴れないように両手で持ち上げている。その後を乳母車を押した若い母親がついていく。親子のやり取りによるとハシビロコウが目当てのようだ。

「あなた胸の大きい人と小さい人とどっちが好き?」羽田は下を向いたまま画面を指で叩きながら訊く。

「どうして?」

「今の人、見たでしょ? すごく大きなおっぱいだった」

「そうかな」

「あんなの滅多に見ないわ。それでいて太ってないし」羽田は指を止めて親子の背中を見送って、それから僕の方を振り返る。「もしかして本当に興味がないの?」

「いいや」

「ね、大きい方が好きでしょう」

「まあね」僕はそう答えてから、羽田が次を言わないうちに急いで言い足した。「だけど胸の大小は好きな人を見つける無数のポイントの一つに過ぎない。それを含めて容姿は相手に気を向ける契機に過ぎないだろうし、好きになった人が小さくてもそれは仕方ないことだよ」

 それを聞いて羽田は何か思いついたらしく、僕を指差してもう一方の手で小刻みに膝を叩きながらそいつを頭の中から引っ張り出そうとした。「わかった。肉体の美は精神の美に先立つ、だ」

「ソクラテス?」

「プラトンの『饗宴』だったかな。人間には精神より先に肉体が見えてしまうから、だからこそ精神の美しさを見抜けるように努力しなくてはならない、ということをディオティマがソクラテスに言うのよ。もっともプラトンのことだから実際にはそんな簡潔な言い回しではないけど」

「よく思い出したね」

「話を戻すけど、じゃあ、天女みたいに容姿の綺麗な子でも、性格が悪かったらちっとも興奮しないの?」

「だろうね」

「うそでしょ」

「まあ、好きになった人の胸が大きければもう少し幸せだろうとは思うけど」

「どうして人は巨乳が好きなんだろう」

「男じゃなくて?」

「女にもそういうフェティシズムはあるのよ。なぜその嗜好が男のものだと思うの?」

「女性の欲求でも男性的欲求なんじゃないだろうか」

「じゃ更衣室やなんかで女同士いちゃついているのはまったくトランスジェンダー的な行為だと?」

「うーん、それは言い切れないかな」

 羽田はスマートフォンの画面を消して少し考え込んだ。

「一見すればレズビアニスム的行為なのよね。そこに男性的心性が演じられているのか、女性のままであるのかは不明瞭よ。でもその一方でどんな男と付き合いたいかって話も本気でするわけでしょう。女同士で付き合うとか、セックスをするとか、普通の女の子は本気で考えているわけではないのよ。レズビアンなのか、トランスジェンダーなのか、という問いはほとんどきっぱり否定されると思う。じゃあそれって肉欲ではない別物なの?」

「難しいな」

「『第二の性』、読んだことある? ボーヴォワールの」

「女性はそれとして生まれるのではなく成長の過程で女性になる?」

「それで?」

「いや、読んだことはない」

「ボーヴォワールは、女らしさとか、男にとっての人形としての自分の肉体とか、そういった自慢や羨望から女同士で体の比較をするんだって言うんだけど」

「自分の容姿を客観的視点から意識する、ということ?」

「だから化粧やファッションがあるのよね。だけどちょっと異性の視点を重視しすぎでしょう。男の求めるものと女の求めるものにはもちろん違いがあるでしょうけど、重なる部分がないわけでもないと思うの」

「羽田の好みはどうなの?」僕は腰を上げて向かいの植え込みをちょっと覗き込んだ。カナヘビみたいなすばしこいものがちらっと見えた気がしたのだ。でもそれはもうどこかに消え去ってしまっていた。諦めて座り直す。

「私? 私の好み?」

「さっきの人、たぶん僕より羽田の方が引っかかってた」

「まあね、それはそう」羽田は少し戸惑いながら答えて自分の胸に触れる。シャツを押さえて僕に半身を向けて見せる。「きちんとしたブラジャーなんて一度もしたことがないの」

「きちんとした?」

「男どもが想像するような色気のあるのじゃなくて、小学生の女の子が着けるような後ろも前もつながったのよ」

「見たところそんなにぺったんこでもないみたいだけど」

「パットを入れてるからそう見えるのよ。偽装よ。ないものをあるように見せかけてるのよ。ないと惨めだもの」

「でも僕は華奢な人も好きだし、君は貧乳でも十分素敵だよ。惨めじゃない」

 羽田はまた僕のことを小突いた。

「じゃあ君としては胸の大きい子が好きというよりも、大きい胸を自分のものにすることに憧れを抱いているわけだ」僕は脇を庇いながら言った。

「それがそう簡単でもないのよ。確かに自分にないから、手に入らないから、誰かに借りたい、そういう代償でもある。だけど自分がもし満足のいく体だったとして、それで例えばさっきの奥さんに興味が湧かないかというと、たぶん違うのよね」

「大きいことがいいことだとは限らないだろうね」

「違うわね。本人は重いし、自らの天賦を素直に誇れない人にとって注目されるのはつらいでしょうね。それに、人間でなければ、例えばヘビになんか、おっぱいの良さは分からない。多くの人間にとってヘビがどうやって異性を選り好みしているのか全く未知であるのと同じように」

「たぶんだけど、君の考え的には、女性同士に性欲を介さない別の欲求があるんじゃないだろうか。違う?」

「私、二通りには説明ができると思うのよ」羽田はコンクリートの平らなところに携帯電話を置いて膝の少し手前で手を組んだ――というより右手で左手の指を掴んでいる。

 僕は羽田に目を向けて言葉を待った。

「まず男子の場合、男性的欲求を介する場合だけど、大きいのがいいのはそれが生殖機能の高さを示すからよ。どれだけ母乳が出るか。実はそれは見かけの大きさとはほとんど無関係なのだけど、形骸化した基準として進化の過程で無意識のうちに刷り込まれてきたもの、なぜだか求めてしまうもの、つまり子育て機能の象徴として理解できる。だとしてこの理屈で女子が同性を求めることは説明できない。その象徴性を意識した上で自分と比べて羨ましいという思いは生じるでしょうけど、それは横並びの関係であって、向かい合う男女の関係とは立場が違っている。胸の大きい子が胸の大きい子を求める仮説を説明できないのね。

 それなら、どう、ひとつの退行装置と考えてみるのは。一つ目と完全に分離できるわけではないけど、生殖を行う立場ではなくて、ひとつ下がって子供の視点になるのよ。母親に抱かれて、そこには安心と温かさがあって、そういった体験に男女の区別はない。この場合幼少期や母性の象徴になるわけ。何より揉むという行為は子供のものよ。相手に親の役を求めるということは誰にでも可能でしょう」

「人なら誰でも母親の守りをもう一度感じたいと望む」

「程度の差はあれ」

「肉欲でなければ、そこに興奮は存在しない?」

「絶対しないとは言えない。なにせ大人が子供を演じているだけで、愛撫は性交の手前だもの。想像して当然じゃない。人間は大人になるにつれてリビドーによる連想の網を編み直しあらゆる領域に広げる。でも厳密には、本質的な部分では、性的なものではない、中性的なものなのよ」

「男が女に両方の象徴性を同時に求めるということは珍しくないんじゃないだろうか。自分の欲求が性的なものかどうか、君だってその場では意識しないはずなんだ」

「そう? 絶対そうだと言える?」

「……絶対ではないかもしれない」

 羽田は携帯電話を拾い上げる。「ヘビの居るペットショップ、歩いて行けるよ」

 調べ物はずいぶん前に終わっていたらしかった。

羽田は性的アイデンティティ担当です。人物ごとに担当が決まっているのです。たぶん。

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