羽田と蛇を見にいく
我々は階段を上がってレストランに入る。ヨーロッパの食堂みたいなオープンスペースになっている。空いている真ん中あたりの席を取って、僕はサーモンマリネを、羽田はビーフカレーを注文する。
「なんだか意外」と羽田は言う。「あなたみたいに自分で料理する人が外で食事するなんて」
「むしろ料理の好きな人ほど参考のために食べに行くんじゃないかな」
「私が料理しそうな人に見える?」
「そんなふうに訊くってことはするんだね」
「そう、夕食は、たまにね。朝は眠いから駄目」そう言って紙おしぼりの袋を破り、広げて両手を拭く。彼女は比較的手が大きい。それでいて頭が小さいので、片手だけで顔を覆えるような感じがする。「それで思うんだけど、あなた一人の時もああやっていつもちゃんと作ってるわけ?」
「そんなことはないよ。一度にたくさん作らないとならないものもあるから、そういう時は毎日残り物を食べる。基本的には飽きないように少しずつ作るけどさ」
「じゃあ、一人で家に帰って、一人で自分のためだけのご飯をつくるのね。それってなんだか寂しいわね」
「まあ、仕方ないよ。でも最近は時々外で食べるようにもなった」
「レストランで?」
「バイト先」
「まかない?」
「飲食業じゃないんだ」
「ふーん」とまた羽田は唇を尖らせてちょっと不機嫌ぽく言う。
料理が届く。羽田はスプーンを取って略式に手を合わせてから、ごはんを皿の片側に寄せ、ポットから掬ったルウを空いた土地に注いでいく。カレーとごはんの境目にスプーンを入れる。
「カレーの食べ方にも人間性が表れる」と羽田。「私はいつもこういう食べ方。あなたは?」
「真ん中を食べて、穴が空いた所にごはんを寄せて」
「それって私と同じじゃない?」
「だと思う」
「給食の時、ルウの器にごはん入れたでしょ?」
「え?」
「ほら、こう、お椀にごはんとルウとわけて装うじゃない? 胃の中に入れたら結局は混ざるわけだけど、口に入れる時に一緒にしておきたいでしょ。だからごはんかルウかどっちかをもう一方に移すの。ルウをごはんにかける方がそれらしいんだけど、でも器が二つとも汚れるから」
「僕んとこはカレーライスにはカレーライスの器があったかな」
「カレー専用の」
「ちょっと深めの広いお皿だよ。揚げ物とか揚げパンの時も同じ器だったかな」
「へえ、この世界にはそんなものもあるんだ」羽田は小さく感心してカレーに戻る。
僕も箸を取ってサーモンを食べ始める。食べるペースは羽田の方がずっと速い。僕が半分減らすまでに彼女は食べ終わっている。いくらか視線の遣り取りがあって、僕は残りを彼女にあげることにする。大判の赤い切り身をフォークで器用に折り返し、真ん中を刺して口に運ぶ。
「これもおいしいね」と羽田。
「いつもそんなに食べるの?」僕は訊く。
「まあね」
「よく太らないね」
「体質だから」
「それはすごい」
「太りたくなくて小食なの?」
「僕?」
「うん」
「まあ、それもあるかな」
「ふうん。でも、太らないのもいいことばかりじゃないって思わない?」
「かもしれないね」
僕は羽田のことを注意して聞いていて、その言葉には微妙なロジックが含まれているように感じた。けれど僕がそれを把握する前に彼女の言葉は時の風穴の中へと消えてしまった。諦めてグラスの水を飲んだ。
羽田はサーモンをぺろっと完食してグラスも空けた。きちんと割り勘をして外に出る。
雲量は相変わらず、地上に降る太陽の強さはふらふら揺らいで、木の影がくっきり浮き出たり暗がりの中に消えたりしている。錯綜した人の流れがある。ベンチや植え込みの縁に座って休んでいる人もいる。動物園の正門に向って僕が先を歩く。「歩くの速いね」と羽田。「別に構わないけど」
僕は後ろ向きになって立ち止まる。羽田が横に並ぶのを待ってまた歩き出す。心持ち歩幅を小さく。
「羽田、本当にパンダ見たい?」
「実は違うものが見たいの?」
「実はね」
「実は何が見たいの?」
「ヘビを見ようと思って。爬虫類館に行きたいんだ」
「爬虫類館? そんなところがあるんだ。初耳。いいよ、私もついていく」
「一番向こう側だから、あんまり人目につかないのかもしれない」
「爬虫類って、カメレオンとか?」と羽田。
「爬虫類って言われて最初にカメレオンが出てくるんだね」
「カメレオンって爬虫類でしょ。変?」
「いいえ」僕は大きく首を振る。
「じゃあ、ヘビが好きなんだ。あの絵にもヘビのモチーフがあった」
「好きか嫌いかじゃなくて、なんとなく知りたいんだ。日本語で出てる専門書ってあんまりないし、いや、どうなんだろう、少なくとも犬や猫ほどにはないからさ、だったら本物を見ないと」
動物園の入り口で六百円の入場券を買う。二枚買う。
「男前」羽田は財布を閉じてポーチに仕舞う。
「そう言われても嬉しくないよ」
動物園の中は家族連れが多い。手のかかりそうなちょろちょろしたのを連れた家族よりも、ベビーカーを押しているのや、だっこ・おんぶ・肩車が主流だった。それから制服を着た中学生とか、男ばかりのインド人集団とか、Tシャツ短パン運動靴にバックパックで揃えたアメリカ人がいた。
でも一番目についたのは男女のペアだった。割合的には全然多くないのだけど、どういうわけか気になった。まるで心理学に裏付けられた最新式の広告装置みたいに僕の意識の中で幅を利かせるのだ。
「私を連れてきて正解だったでしょう」羽田は後ろで手を組んで得意げに訊いた。
「どうして?」
「一人だったらきっと惨めでならない」
「一人なのは惨めかな」
「きっとそうよ」
「僕はそうは思わないけど」
「思わないけど、感じるでしょう?」
「かもね」
「ほら」
「羽田は今誰かと付き合ってるの?」
「誰かと付き合っていると思う?」
僕は形だけちょっと考えて、「思わない」と答える。
「正解。今はなんだか誰のことも本気で愛せる気がしないの。だけど、どうしてわかるの?」
「今の羽田は海部と付き合ってたころほど綺麗じゃない」
羽田は肘を横に突き出して僕の脇腹を小突く。僕は慌ててエビみたいに横反りして腕でガードする。
「あの頃が良すぎたんだ」
「同じ女の子でも彼氏がいる時といない時で可愛さが違うわけ?」
「恋をすると人間変わるなんて俗説があるけど」僕はちょっと身構えながら言った。
「うん」
「僕はあの説にはある程度賛成できると思う。付き合ってるというか、転換点はやっぱり恋をするところからなんだ。でもそれが片思いである間は、そういう悩みとか煩悶みたいなものに抑えられてしまう。彼女の美しさは実質的には思いが成就した時から表へ出てくる」
「あなたにはその美しさが見えるの?」羽田は訊き返す。案外、僕の言ったことは何の引っかかりもなく彼女の喉を通ったらしい。
「美しさは見えないよ。ただそれが膨大な量になると、そのほんの表面は見えることもある。湯葉みたいに」
僕らはパンダに並ぶ列を傍目に通り過ぎ、適当に順路の動物たちを観察して橋を渡り、やはり適当に他の生き物たちを眺めながら爬虫類館に到着する。硬式の温室に洒落たコンクリートのエントランスがついている建物で、中に入ってみるとまず大きなオオサンショウウオの大きな水槽がある。オオサンショウウオは大きくて、目が小さくて、何も考えていないみたいな顔をして、ただじっと水に沈んでいる。羽田は水槽の前に屈んでオオサンショウウオと目線を合わせて「ふうん、変なの」と呟いた。
順路に入ると気温がむっと上昇する。もともと植物園だったところに動物用のケージをつくって通路を敷いたみたいな造りになっている。ガラスの中に様々な形、様々な色をしたヘビやトカゲ、そしてカメレオンが閉じ込められている。想像以上に人が多くて、ひとつの生き物をじっくりと観察することができなかった。順路を進んでいく人の波には微妙な周期があって、その狭間を狙って水槽に食いつかなければならない。しかもその周期が三十秒から一分ないくらいで実に短いので、あとの客が強引な時はさっと身を引いて人の通らない窪みとかに落ち着いて再び空くのを待つのが賢明だった。意外にも羽田は先に行ってしまったりせずに僕の横にぴったり並んで、水槽に貼りつく時も人の波を避ける時も一緒だった。生き物を見る時はできるだけ目線を合わせて顔を近づけた。他の客からは時折「気持ちわるう」とか「かわいい」とか言うのが聞こえたけれど、羽田の口からはそのどちらでもなく、また「ふうん、変なの」だった。顔を近づけて見る生き物に関しては反応の仕方が一種類しかなかった。僕にはそのせいで彼女が何を考えているのか全然わからなかった。ヘビやトカゲが好きなのか、それとも嫌いなのか。あるいは深理さんの言うカポーティ的好奇心の作用だったかもしれない。
ヘビの種類は期待したほど多くはなかった。ヘビは爬虫類だし、ヘビが見たかったら爬虫類館に行くしかない。でも爬虫類にはヘビだけじゃなく、トカゲもワニも、もちろんカメレオンだっている。ヘビだけを株主様みたいに特別扱いしてやるわけにはいかないのだ。
僕らは順路を終えて再びオオサンショウウオの水槽の前に戻ってくる。温室を抜けたので気温は少し下がる。ボーダーシャツの裾を出して風を入れる。今までズボンのウエストに突っ込んでいたので余計に熱が籠っていた。他の客は窓や柱の方へ寄ってリーフレットを開いたり飲み物を飲んだりしているけど、日向の差し込んだところには誰も居座らない。他の人々も暑いようだ。
「ちょっと拍子抜けじゃない? あっちにもヘビ、こっちにもヘビ、みたいなの想像してたのに」羽田はさっきと全く同じ場所にいるオオサンショウウオの顔のまん前にしゃがんで顰め面をしてみる。オオサンショウウオの方は羽田の顔を見ていないのか、見ていても面白くないのか、まるで反応しない。
「それより何より全然動かないのね。一心不乱ににょろにょろしてたのはヘビトカゲくらいで」
「変温動物だからね。きっと寒いんだよ。必要な時だけ体を温めて動いて、そうでない時はじっとしている方が彼らにとっては合理的なんだ。一回食事をしたらその先二週間は楽々絶食できちゃう」背伸びをして水槽を上から覗くと水面の反射もあってオオサンショウウオは岩や礫に混じってほとんど見分けがつかない。
「じゃああなたはきっと変温動物なんだ」
「そうか」それは面白い指摘だった。「そうなのかもしれない。暖かいのは好きだけど、暑いのは嫌いだし」
「蒸し焼きになりそうだった?」
「砂漠に住んでいるヘビは砂漠に人が立っていると寄ってくるんだって。でもそれは襲うためじゃなくて、日影に入りたいからなんだ。人間の体に太陽が当たっている分、影になっているところは温度が低くなるからね。でも寒いのも嫌いなんだよ。ペットのヘビは手に乗せようとしてつかむと最初は当然暴れるけど、だんだん落ち着いてくる。人の手が温かいから」
「ペットのヘビか」羽田は首を傾げる。「ペットショップにもヘビは居るかな」
「ヘビの居るペットショップなら居ると思うよ」
「ヘビの居るペットショップのヘビなら元気でしょうね。なにしろ売り物だから。動物園のヘビは自然っぽくじっとしているにしても、売り物のヘビならちょっとくらい不自然でも元気な方が買い手がつくに違いない」
「でもペットショップのヘビだってあんまり不自然な環境には置かれていないと思うよ。ストレスがたまると病気になったり死んでしまったりするからね。売り物をだめにしてしまうわけにはいかないよ」
「とりあえず探してみるわ。でもその前にここを出ないと蒸し焼きになるかもしれない」羽田は細い膝に手をついて立ち上がった。




