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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第3章 音楽――あるいは愛について
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ノスフェラトウ

 高校一年の夏に海部と一緒に僕を見舞いに来てくれた羽田という子だけど、彼女は下の名前を衣といって、フルネームでは羽田衣というなんだかとっても軽そうな字面をしていた。

 実際彼女はとても華奢だった。単に痩せて膝や頬なんかが骨張っているのと違って、極めて華奢な骨格の上に控えめな肉付きをしているのでその細さが映えるのだった。彼女のような体をした人がシャツでもジャケットでも、服を着た時にハンガーに掛けたままのような感じですとんとしているのや、ジーンズのお尻の所が余っているのが僕は割と嫌いではなかった。顔立ちに関しては特別魔力的という感じでもないのだけれど、小鼻から耳にかけて奥行きがあって、角度や状況によっては綺麗に見えた。それはどちらかというと面と向かって話している時よりも、彼女が誰かと話しているのを傍らから見ている時に多く感じるものだった。彼女は喋る時に目が動く癖があって、たとえ一対一で喋っていても周りにたくさんの見えない聴衆が居て、彼らがちゃんと話の内容を理解しているかどうか確認するために目配せをしているみたいだった。でも話を始める時と終わる時、つまり視線の動きの始点と終点は必ず相手の目にあって、それが全体的にとてもさばさばとして自信のある感じを与えていた。

 羽田衣は生徒会で一二年とも平の役員をやり、学級ではあまり積極的に存在を表さず、発言や態度は模範的であり、黙々として好成績を取り、特に社会系の教科では学年順位一桁もしばしばだった。その一方、部活の所属はダンス部で、そういった活発でいささか粗野な集団にあって彼女の潔癖と密やかさはやや異質だった。実際羽田が部活仲間と連れ立っているのを目にする機会は三年間を通じてほんの数回しかなかった。

 けれど僕はそんな真面目さとは少し違った印象をごく初期から感じていた。もっと言葉では表現しにくい複雑な感性を持った人なのだと感じた。むしろ後々見るようになった普段の彼女が最初の印象と違っていてちょっと戸惑った。そのうち、ああそうか、この子は反俗的な心を持っていながら表面的には尋常であろうとしているのか、と気付くことになった。

 ある時、それはまだ僕と羽田が別のクラスで、お互い海部の知り合い程度に認識していた頃のことだけど、彼女は何度も折って小さくした新聞紙で生徒会室の窓を拭いていた。窓の桟に上って大胆にやっているものだから、部屋に入った僕は声をかけずにやり過すわけにはいかなかった。彼女が生徒会の書記であることを僕は知っていたけれど、二人きりで話したことはまだなかった。「窓を拭いているの?」と訊くと、そんなことは見ればわかるじゃないの、というような感じで彼女は唇を斜めにした。表情が逆光だった。マオカラーの高い白いブラウス、フェルトみたいな灰色の短いスカート、裾にレースのついたレギンス。

「あまりに透明だと、ここに窓がないものだと思って誰かがぶつかるかもしれないでしょう。誰かがぶつかるところを見てみたいと思わない?」

「罠を仕掛けてるわけだ」彼女が訊いたので僕は答えた。

「嘘。窓が綺麗だと気持ちがいいでしょう」

「僕も掃除は好きだよ」

「そう? 私は別に掃除は好きじゃない。時々窓の曇りが気に障るだけ。そうしなきゃいけないから、そうしている」

「義務だ」

「心的なね」

「なぜその義務に従うの?」

「窓が綺麗なら色々なものを見通せる。心の景色もよくなる」彼女はそれだけ言って作業に戻った。角の角まで丁寧に磨いて、しまいにはガラスの存在がわからなくなった。水滴の跡も、新聞紙で拭った形跡も残っていない。三日後の昼、僕はその窓に一羽のムクドリが激突するのを見た。四五羽で編隊を組んでいるうちの一羽だった。他のが建物を避けていくのに、そいつだけは窓のところを通過しようとした。きっと向こう側が見えたから行けると思ったのだろう。ムクドリは直前でガラスに気付いて急減速したものの止まり切れずにぶつかり、もんどりうって下のコンクリートに落ちた。そのあと二十秒ほどして気絶から回復するとふらふらしながら飛んでいった。羽田にそのことを話すと彼女は窓の外側をもう一度綺麗にした後、内側の遮光カーテンをぴったりと閉めた。「窓を綺麗にしたらね、カーテンだけはきちんと閉めておかないとだめなのよ」。分別のない誰かに向けた憤りを内に込めて彼女は言った。


 羽田と初めてきちんと話をしたのは美術部の二度目の展覧会の時で、僕は上野の美術館で午前中だけの公欠を貰って受付業務をやっていた。雲の多い晴天だった。平日だし、わざわざ素人の絵を見に来たいという人もあまり多くない。少ない客のほとんどを学校関係者が占めていた。僕はカウンターで入ってきた客の数を数え、名簿にサインを貰ってアンケート用紙を配り、必要なら缶に刺さっている鉛筆を貸し出す。トンボのも三菱のもごちゃ混ぜになっていて、長さもまちまち、ポケモンや新幹線の絵が付いたのもある。戻ってきた鉛筆をがりがりと削ってまた缶に刺しておく。落として芯が折れたのもまた尖らせてやる。

 客が疎らな間はグリム童話を読んでいた。隣には一年生の女の子が二人いて、クロッキー帳に色々と描きながら話していた。文化祭の出し物の話だったと思う。あまりよく聞いていない。聞いていたら本が読めないからだ。近くに人間が居るだけで気が散って読めないという人も多いようだけど、僕は平気だった。

 グリム兄弟の編集した童話の一つに「三枚の蛇の葉」というお話があって、二匹の白蛇が登場する。まず一匹の蛇が死んだ王女と道連れの婿王子が閉じ込められている地下廟の中に出てきて鋭い短剣で四つにちょん切られてしまう。もう一匹の蛇は穴倉の口からそれを目の当たりにして、穴の奥から緑の葉っぱを咥えてきて切られた蛇の傷口のところへ器用に一枚ずつ被せる。すると傷は跡形もなく繋がって蛇は生き返り二匹でどこかへ行ってしまう。王子はこのあと残された葉っぱで王女を蘇生するのだけど、でもなぜ蛇はこんな流しの実演販売みたいなことをしたのだろう? どこへ行こうとしていたのか? 命の葉をどこから持ってきたか? もちろん全ての疑問は「お伽話だから」で答えられる。押売りの電話くらい無意味な質問だ。蘇生した王女は心が変わって王子を船から突き落とし、王子は取っておいた命の葉の力で蘇って王の前で王女の罪を暴く。蛇以外誰も救われない話である。

 電車を使って来る人が多いせいか客足には波があった。本物の波と同じように小さかったり大きかったり、周期を破って続いて来たりした。サインするのにかける時間も人それぞれだった。イギリス式にわけのわからない曲線で済ませる人もいれば、楷書に近い人もいる。受付三人で捌けない時は列ができた。埋まった名簿は上級生の僕が貰ってファイルに綴じておく。綴じる前にざっと目を通しておく。

 右端の後輩が手を伸ばして名簿を僕に渡した。僕はそれを受け取って新しい名簿を返してからファイルを開く。リングを外す。今しがた通そうとした名簿にふと「柴谷」という名字を見つけた。下の名前は記入されていない。名字だけだった。僕は展示室の方を振り向いた。僕と同年代の客は見当たらない。それからそっと目を戻してもう一度署名を見た。繊細を欠いた大柄な文字で、狭霧の筆跡とは似ても似つかない。

 そこに細い脚が現れる。青い血管の浮いた白い足の甲。濃い藍色の裾と山吹色の縫い糸。

「どうしたの?」

 僕は顔を上げる。

「なぜそんな顔しているの。まるで汚職をやった政治家の事務所の前に突っ立ってる秘書官みたい」と羽田は言った。なんだかつららみたいに冷たい声色だった。彼女は美術部の一年たちの方を一瞥して「ご苦労さま」と挨拶する。

 僕はちょっと自分の体を見下ろして服についた鉛筆の削りかすを払う。白地のボーダーシャツとウエストの高い黒のズボン。

「羽田、学校は?」

「今日は休みなの」

「どうしてサボったの?」

「サボってはいないわ。それ、サボタージュの使い方間違ってる。サボタージュというのは、その場には居るけどわざと手を抜いていることを言うのよ。それに授業に対する不満もない。休みたいから、そんな気分だから休んだだけよ」羽田は腕を組んで僕を見下ろして説明した。

「だとして、ここへ来るために休んだのか、それとも休んでから行き場がなくてここへ来たか」

「ねえ、そんなお母さんみたいに詰問しないでよ。そんな指針を持ってやっているわけないじゃないの。たまたま中学の時の友達によかったら見に来て、くらいに呼ばれていたのと、今日はたまたま学校に行きたくなかったの。それだけよ」

 僕はひとまず名簿を示してサインしてもらう。羽田はなぜか本名を書かない。井上とかなんとか、引っ掻くみたいに一瞬で書きつけた酷く乱暴な字なので下が読めない。

「仕事、何時まで?」

「あと二十分」僕は携帯電話で時刻を確認する。

「ふうん」と羽田。そう言ったきりひらりと身を翻して会場の中へ入り込んでいく。

 僕はそのあとを追いかけたいような気持ちになった。でも堪えた。なんだか狭霧が羽田の姿を借りて現れたような気がしたのだ。この頃の僕は比較的切実に狭霧に会いたいと思っていた。直接会って確認してほしいことが山ほどあった。でもそれは無理な話だったし、きちんと考えれば、おそらくそうすべきではなかった。もし彼女が羽田ではなく狭霧だったら。そんな想像はしてはいけないものだった。

 羽田の後姿が曲がり角に消える。

 僕は俯いて目を瞑った。心を落ち着かせる。隣の後輩たちの話し声が再び聞こえるようになってきた。彼女たちはずっと話していたのだけど、しばらくの間僕の意識がその声を受け付けていなかった。その声が僕の意識を僕の肉体の座標に連れ戻した。

「どうかしました?」

「いや、ずっと名簿を見てたら目が疲れちゃってさ」

 それから十五分と少し、受付を次の学校に引き継いで、後輩の二人を学校に戻るように送り出す。それから羽田を探しに行く。羽田は僕の絵を見上げている。赤いタータンのコットンシャツ、深い色の細いジーンズ、黒いパンプス。革製のポーチを肩から掛けている。片足を重心にして、親指の爪を噛むような具合で下唇を指で触っている。その肘を反対の手がぴったりと抱いている。背筋をぴんと伸ばして首はやや見下す角度。それが羽田衣の鑑賞の姿勢だった。

 僕は二年生になってから主に頭の中にあるイメージを絵にしていて、この展覧会にはその中から一枚出展した。絵の題は『ノスフェラトウ』。長い牙をした少女が黒い服を着て立っている。その襟の部分はコブラと同じように少女のほっそりと長い首のうしろで大きく膨らんでいる。少女は画面の方を向いているけれど、こちら側のどこに立っても彼女と視線が合うことはない。被写体と鑑賞者の間には海峡のような距離がある。噛み合っていない。お互いがもっと遠くを見つめている。

 羽田は僕が来たのを横目で確認して、姿勢や手の位置は変えずに「上手いものね」と言った。僕は別にそうは思わない。小さくて色彩もない目立たない作品だ。「なにがテーマなの?」

「見た人次第だよ」

「何を考えて描いたのか訊いてるの」

 今日の彼女はどういうわけか刺々しい。でも僕は受付の仕事でそれなりにくたびれていたので言い合いをする気にはなれなかった。

「まあ、いいや。この絵は人を傷つけるのは嫌だねっていうテーマなんだ。傷つけたくなくても、傷つけずには生きていけない。傷つけられることよりも傷つけてしまうことに臆病になっている」

「それ、あなた自身が?」羽田は横目をこちらに向ける。

 少し難しい質問だ。

「半々だね。ある人についてのイメージであり、それは僕の中のイメージでもある。僕自身の潜在的な性格を人に投影したものかもしれない。演じさせるわけだ」

「演じさせる、ね」羽田はまたしばらく『ノスフェラトウ』を見上げる。「私も絵が描けたらよかったのにな」

「なぜ?」

「こんなふうにじっくりと時間をかけて自分のことを表現する芸術を私は持っていない」

「羽田はダンス部だったね?」

 僕が訊くと彼女は自分の唇を指でつまんで触りながら少し考えた。

「踊りは一回性の芸術なの。その場で何が表現できるか、何を考えているか。思考をたっぷり蓄積して、濃縮して、一ヶ所に残しておく、ということはできない。見世物としては踊りの方が優れているかもしれないけれど、あとに残らない。ビデオに撮っても当時の興奮がもう一回自分の中に燃え上がるかというと違う。それは例えば、なんというか……、例えば、爆弾が落ちた後のクレーターに過ぎない。クレーターの大きさが爆発の激しさを物語っても、爆発そのものは再現し得ない」

「絵とダンスは芸術として全然別の性格を持っているわけだ」

「ねえ、わかっていると思うけど、これ私の考えじゃなくて、芸術の分類ならレッシングもワグナーもやってる。時間芸術、空間芸術、総合芸術、これは彼らが言った言葉。ダンスはあくまで過程なんだよ。一回限りで、過程が終わった時には全てが消えている。パフォーマンス。絵画は逆に時間を持たない。ある一瞬を切り取って、それを永遠まで引き伸ばす。『今』と書いた字のように」

「今?」

「その字が指し示すのは、書かれた瞬間なのか、目に入った瞬間なのか、声に出された瞬間なのか」

「なるほど」

「ダンスにはそういった反復性はないの」

「裏返せば、一回性があってのパフォーマンスなんじゃないかな。特技は絵です。一発描きます、って言っても描いている間は手拍子とか貰っても困るしさ。絶対静かになっちゃう」

「でしょうね。ダンスだったら簡単だよ。教えてあげようか」

「いやいや」

 羽田は表情を消して首を傾げ、「で、何?」と訊いた。絵についての話はお終いらしい。

「さっきいつ終わるのかって訊かれたから、一応挨拶していった方がいいと思ったんだ」

「これからどうするつもり?」

「動物園に行く」

「さっきあれだけ私に訊いておいて、学校に戻らないつもりなの?」

「今日は動物園に行くって決めてたから」

 羽田はまた横目で見る。今度は少し不信の色がある。

「パンダを見に?」

「パンダを見に」

「私も行こうかな」

「どこへ?」

「どこって、上野動物園でしょう。これが自民党本部だったらどうしてわざわざ宣言する必要があるの?」羽田は受付に向って歩いていく。「ねえ、おなか減らない?」

「別に」

「そっか、あなた少食だもんね」

「君が食べるなら僕も食べるよ。レストランならこの上にある」

 僕は階段の方へ羽田を案内した。

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