美術室のダイアローグ
夕方の校舎の方々から管楽器の音が聞こえる。それは何となく海軍の停泊地を思わせた。十七時になると方々の船からサイドパイプの高く掠れた音が聞こえるのだ。襟の立ったボタン留めの白いジャケットのせいかもしれない。廊下を艦内の通路に見立てて歩く。
木曜の放課後には尾上先生が一人で美術室に居るということを知っていた。もちろん先生がいない日だって暇のある時には――このところ図書室で過ごす昼休みの割合が多くなっているとはいえ――美術室に行くのだけど、単に制作に行くのか、それとも先生と話すために行くのかでは心構えが違ってくる。
音を立てないように美術室の扉を少しだけ開いて、隙間に顔を近づけて中を覗く。窓枠の影は長く伸びているが陽はまだ赤くない。尾上先生が一人で紙粘土の作品に向かって、耳にイヤホンをして、コードが邪魔にならないように襟のところにクリップで留めていた。相変わらず前開きのジャージに、中は紫のブラウス。しばらくそのまま様子を窺ってみたけれど、手元に集中していて僕の方には視線を向けなかった。
諦めて扉を開けると、先生は僕の気配を察して顔を上げて片方のイヤホンを外し「おはよう」と言った。僕の方も「おはようございます」と返して、内側から扉を閉める。放課後でも挨拶は大抵「おはよう」だった。
美術部の区画からスケッチブックを持ってくる。集中できないことはわかっていて、それでも何か形になるイメージが頭にないか探してみた。先生が僕のことを気にかけるのかどうか、もう少し試してみたかった。
結局だめだった。目の裏側から首筋にかけて鉛を埋め込まれたように重くなって、鉛筆を持った手が紙に食いつこうとしなかった。なので頭の中を整理しながらスケッチブックの向こうを無意識に眺めていた。僕が座った席は作業台を二つ挟んで先生とほぼ向かい合わせだった。粘土を練り、針金にくっつけ、指で押し付ける。
先生の塑像はフリオ・ゴンザレスの彫像のように平面と曲線があって、抽象的で、それでいてシュールな不気味さもなく全体として静かな纏まりに包まれている。形は例えるなら飛び上がって翼を前方に打った竜である。尻尾がそのまま支柱で、長方形を繋ぎ合わせた翼は上から見ると不完全な環形をなして先端が離れ、立面を見ると上端が狭く下方に向かって広がっている。表面にはまだ罅や窪みが残っているが優雅な形だ。しかしじっくり鑑賞してみると、何か刺々しさのようなもの、理性の効かない力が見えてくる。拒絶や憎悪といった意味を隠している。それは僕の感情を鑑賞する対象に写したものなのだろうか。それとも先生の中から創造物に注ぎ込まれたものなのだろうか。
先生は顔を上げない。僕が何かちょっとでも呼ぶような仕草をしたら気づくだろう。でもそれでは駄目だ。意味がない。
そっと椅子を引いて非常階段に出た。欄干を頼って四階の高さから校庭と校庭を囲む背の高い木々とその外に広がる街の景色を眺める。野球部だかサッカー部だかは休憩時間なのか校庭に散らばっている姿が見えなかった。動く人影は見当たらない。少し赤く冷えてきた空と時折の突風と、それだけが全てだった。
僕は都市の景色の上に果てしなく草地の続く丘陵を想像した。大地は見渡す限り手付かずで滑らかで。僕がいるのはそこにぽつんと立った鉄塔の上だ。人間の存在を仄めかすものも何一つない。ただ茫漠とした大地と空の二つの表面に挟まれて僕だけが存在している。人間は。けれど他の動物はある。ケストレルが翼を広げて空に楕円を描いている。草原に目を凝らすと巣穴に飛び込むウサギの土色の影が見える。近くにサンザシの茂みがある。丘陵の窪地に沿って小川が流れている。
先生にはただ話し相手にしてもらいたかっただけなのだ。相談するのが僕でも、先生から訊いて欲しかった。だけど実際には先生は僕の相談だけに応じているわけでもない。
冬に来た時、先生は女の子と静かに話をしていた。それは先生の真摯さを損なうものではない。僕と司書室で話した時と同じように、じっと相手を見つめて、わずかな心象も逃すまいとしていた。生徒一人一人にきちんと向き合っている。けれどあくまで生徒なのだ。生徒の面倒を見るだけが先生の人生ではない。あの塑像こそその証明だろう。それは仕事ではない。授業ではないし、美術部の顧問は本来荒巻先生だけで足りている。自分のためだけのものだ。先生が美術室へ来るのは、生徒と話すためではなくて、塑像を作るのに落ち着くためなのだ。放課後くらい誰にも邪魔されずにいたい。
欄干を離れ、重たい扉を開いて中に戻る。
片方のイヤホンを外した先生が「なにかあった?」と訊いた。
風が吹き込む。額に手を当てて風に顔を伏せる。
「どういうわけか描く気が起きなくて」
「それで息抜き?」
僕は答えずに扉を両手で閉めて「先生」と呼びかける。
「はい?」
「前に司書室で話した時、対等な相手を見つけなさいって」
「ええ。言ったわ」
「それは人間が必要によって生かされているということだと思うんです」
先生はもう一方のイヤホンも外しつつ頷く。
「自分だけで自分たりえないから、その存在が時に不安定なものになるんだと」
「こっちに来たら?」先生は左肩を後ろにやって斜後ろの席を示す。それからイヤホンのコードを作業台の上に置いてアイポッドの真ん中のボタンを押す。何を聞いていたのだろう。
僕は作業台の前まで歩いていって塑像に目を止める。遠くからでは見えなかった、もっと細かな皺や指紋が塑像の肌をつくっている。
「手を止めずに話しませんか」僕は提案した。
「がっぷり向かい合って議論したそうな様子に見えるけど?」
「いいえ、いいんです。僕も描くので」
「わかった」
僕はスケッチブックと筆箱を持ってきて先生の示した席に座る。我々は二つの作業台を岸にして川の両瀬に浸っている。背中合わせではなくて、両者利き手を作業台の方に出して体を少し相手の方へ向けておく。
「居場所を失くして、何からも必要とされなくなって、それでも自分は自分だと証明できるようなものはないんだろうか、と思うんです。自己同一性とは何か」
「自分が何者であるのか」
「絶対のアイデンティティ」
「絶対? ただのアイデンティティではなく?」
僕は隣の椅子を引き出して上履きを脱いでそこに足を上げ、揃えた膝の上にスケッチブックを乗せる。外でイメージした風景を再現する。顔を上げると中庭側の窓には強風に揺れる木々の頭が見える。
「アイデンティティという言葉が自己同一性という名前に合った意味で広く理解されているとは思えないです。むしろ、なにか、自他相違性とも言うべきものになっているんじゃないか」
「自他相違性?」
「自分と他者は何が違うのか。自分にあって他者にないものは何か」
「なるほど」
「でもそれは単に自他を分別する尺度であって、自他相違性に基づく自己は相手や場所によって浮動するし、対象がなければ機能しない。自分とは何なのかという本質にも食い込んでいない」
「絶対的な尺度によって自己を規定する自己同一性の方がより高度で、本質的だと?」
「ええ」
先生は貼りつけたばかりの軟らかい白い粘土を箆で押さえつけて尻尾の形を整えていく。
「アイデンティティの原点は、でも、相対的なものじゃないかな」と先生。「人間は最初一人で原野を歩いている。自分について特に認識を持つ必要はない。遠くに人影が見えて、初めて他人と接触する。そこで自分とその人と何が違うのか認識する必要が生じる。それが自己というもの」
「他者があって初めて自分を意識する。相手に対する自分自身を」
「それは君が言うところの自他相違性ね?」
「だと思います。でも二人が別れて一人になったところできれいさっぱり自分への意識が消え去るわけでもない。自分が何なのか、まだ考えているかもしれない」
「それは出会った相手の視点を通して捉えた自分の姿ではない?」
「そうかもしれない」
僕は描きながら説明を続ける。想像したイギリスの景色を写していた。
「自己同一性の確立に他者の存在が不要というわけではないです。多くの客観的な視座を得ることで、相手や場所によって変動する自分を不安視し、それらを一つの存在に結びつける自己同一性を求めるようになる。その究極的なものが外部の世界全体から客観視した、決して変動することのない自分自身の核なんでしょう。それなら他者の存在にも、場所にも、時刻にも無関係に維持することができる」
先生は粘土をただ練りながら振り向いて僕の話を聞いていた。
「逆にいえば、そういった自己は他人との距離や座標を持たない。絶対的自己は現実の自分から乖離していく、ということにならない?」
「自分が見える、見ている主体は何者なのか。そういう問題ですね」
「ええ」
「世界から自分だけを閉ざして座標も性質もない何かになるということはたぶん今の人間の構造として無理なんでしょう。自分自身が自分の認識する世界の中に含まれてしまっているから。そんな矛盾を超越して思考を進めることができないんです。自己存在が抜け落ちた状態の純粋な意識にはなれない」
「自己存在が確定しなくても意識は存在する?」
「人間は自分と視点としての意識との乖離を許容できない。だからアイデンティティを定める視点を代替として誰かに託すしかない」
「誰かに託す?」
「ええ」
「それじゃあせっかくの普遍性が台無しになっちゃうよ」
「だから代替なんです。だから託された人間は相手のことを知らなければならない。できるだけ深く。認識している世界の全てを賭して。相手から自分の中のイメージへ写しを取るように、最大の共感を以て」
「人間にとって確認可能なのは自分自身の同一性よりも他人の同一性だと」
「ただし擬似的に」
「擬似的でも仕方がないと思える?」
「僕は見つけてやらなきゃいけないんです」僕は次に来る先生の質問を飛び越すつもりで言った。「誰かのアイデンティティでも、人の違いを判別するより同じであることを特定する方が難しい。例えば、想像してください。無数の人間の中から僕を探すのと、僕でない人間を探すのと――」
「それは条件が違いすぎる」
「いいえ。アイデンティティを認めるというのはそういうことです。二人のうちどちらかなら、それらしい方を選べばいい。最もそれらしい人間を選べばいいという状況では自己同一性は見出せない」
「どうかなあ」
僕はまたしばらく説明を考える。その間に携帯電話の振動する音があって、先生がちょっと困ったふうに口を開けて僕を見た。
「何かの犠牲の上に成る会話が深まるとは思えないです。電話でも、トイレでも、時間の制約でも」
気懸りを抱えたままの会話など実りようがなかった。全てが終わったあとにじっくり話すのが一番望ましいのだ。全てが。それが不可能だからせめて話の最中だけは自らの責務を忘れていようとする。
先生は電話に出ながら廊下の扉に向かう。扉のすぐ向こうで話しているのか、内容はわからないが声は聞こえてきた。子供と喋っている声色だった。僕はその間先生の塑像を少し眺めて、それから自分の作業台の上にへたり込んで考えの続きをした。
先生が戻ってくる。何か良い話だったのだろう。口元の形で簡単にわかった。しかしその頃には僕の方の話を深める気力が朝日に当たった霧のようにさっさと消えかけていた。
「続けましょう」と先生。ジッパーが垂れ下がって肩に重さがかかるのが厭なのだろう、ジャージの裾を閉じているのだけど、それがベージュのズボンのウエストのところまでずり上がってきていたのを下に引っ張って、寸胴になってから座る。
「カエルに変えられてしまった王子を探す話が何かの童話にあるでしょう」僕は訊いた。
「あったかな……?」
「池に行って見つけたカエルの違いばかり探していたってキリがないんです。何万匹ってカエルがいてけこけこ鳴いてるんだから。絵本や挿絵では王子さまカエルは緑の額の上に王冠を乗っけたりしていて、それが目印になって、お姫さまはこの蛙こそ王子に違いないって確信する。でも本当はそんなことはないんです。おとぎ話だって、ああいった表現は読者のためのレトリックであって、本当は見た目にまるで特徴のないただの蛙なんです。王冠どころか、どんな些細な目印だってありはしない。だけど、ありはしなくても、姫さまにはどれが王子なのかきちんとわかってしまう。裾を折って、畦を下りて、泥に足を取られながら、それでもまっすぐ相手のところへ向かっていく。そのポイントが説明のつかないものだから、王冠なんて目印に置き換えなきゃならないだけで」
「存在はしなくてもお姫さまには王冠が見えているのね」
僕は鉛筆を寝かせて草原を塗りながら頷く。
「つまりそれが君の思う自己同一性だと」
「先生は自分自身のアイデンティティについて考えたことはありますか」
先生はまた粘土を練りながら考え込んだ。
「私には、ただ、日々の活動の連続性が私の連続性を要求して、そこに私の存在理由や、私が私である条件が満たされているという感じがするわね。ごめん。上手く表現できない。それに今君と話してきたことに随分と影響された言い方になっている。つまり、私の自己は相対的なもので、人が私に向かって私のことを呼ぶから、それが私なのだという感覚が意識の底に絶えることなく流れ続けている」
「それは、例えば誰ですか」
「君のような生徒であり、教師の同僚であり、夫であり、子供たちでもある」
僕は目を瞑って考えた。揺らぎようのない人間関係だ。
「彼らが持っている先生のイメージはそれぞれ異なったものでしょう」
「異なっている。でも全くではない。通底する部分がある。かといってその通底部分だけが私のアイデンティティではない。それは期に応じて変化するものだと思っている。私は相対的な自己を受け入れている」
「じゃあ、絶対的自己に固執する人間の気持ちは分かりませんね」
「そうかしら?」
僕は先生を見た。先生は僕を見返して、少し目を大きくした。僕はそこに怖れを垣間見た。
他人のはらわたを見慣れている人間だって、好き好んで自分の腹を割るわけではないのだ。




