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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第3章 音楽――あるいは愛について
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狭霧のメール2010年4月

落胆から自己同一性の議論を導くために新しく書いて挿入した一節です。

 飛行機のパイロットに一番多い怪我が何だったか知っていますか?

 あなたならたぶん知っていると思うのだけど、エミリア・ハイクスによると顔と手の火傷だそうです。戦闘機はコクピットの前方に発動機を積んでいて、つまりそれは加熱気化されたガソリンが目の前に詰まっているということだから、そこを撃ち抜かれると簡単にエンジンの外側で火が起こってしまうのです。そしてその火炎は風圧に押されてコクピットに吹き込んでくる。パイロットはその状態で天蓋を開いたり、ベルトを外したり、なにより飛行機を脱出に適した姿勢まで持っていかなければならなくて、その間顔をかばったり手を隠したりすることはできないのです。

 彼女は1943年から47年までスウィンドンにある新しい空軍病院に勤め、多くの患者たちを見てきました。そこには戦闘で傷ついて、というよりもかろうじて死を免れて、というような具合の重傷を負ったのち、長期の治療やリハビリを必要とする患者たちが何百人も集められていました。彼らの多くが機上要員でした。事故や戦闘で墜落する飛行機から脱出したあと、地上、あるいは海上で救助されて他の病院で一次処置を受けたのちスウィンドンにやってきたのです。

 失明、欠損、麻痺、そして火傷。火傷が他の怪我と違うのは、それが喪失ではなく変質だという点です。体の機能はどこも欠けずに回復することができる。でも姿が違ってしまう、という意味で。つまり、軽度なら水ぶくれで済むけれど、重度なら髪も眉もなくなってしまう。肌合いも元通りにはならないし、瞼や鼻の形だって変わってしまう。

 初めて重症火傷患者に接した時のショックをエミリアは強く記憶している。彼は朝日の差し込む窓に目を向けて、どこかで鳴いているクロツグミの声に耳を傾けているみたいだった。その耳に耳朶はなく、耳穴だけがぽっかり開いている。

 これが人間なのか?

 ただただ手足をもがれるのとは違う、欠損ではなく、変質による喪失の恐ろしさをベッドの上に見たのだ。

 彼が話した墜落の記憶は今でもほぼ完全に憶えている。

 ジャクソン・グラースはスピットファイアのエースだった。エースというのは空では敵機を5機以上撃墜したパイロットに与えられる称号だ。撃墜というのはただ相手に銃弾を浴びせればいいというものではない。敵機が墜落した地点を申告し、他の味方、できれば地上部隊によって確認してもらわなければならない。それが5回。簡単な図式にすれば、ある一対一の試合を5回戦勝ち進むということ。5機といっても簡単ではない。

 その日彼は彼は海峡上空を南に向かって飛ぶドイツの戦闘爆撃機を追跡していた。そして真上で待ち構えていた敵の護衛機に気づかなかった。不意にコクピットが暗くなり、それが敵の陰だと気づいた頃には翼いっぱいに敵の銃弾を浴びていた。

 彼自身はまだ無事だった。しかし目の前の隔壁の隙間からオーブンの火のような小さな炎が顔を覗かせ、次の瞬間、大きな炎になって猛烈に吹き出した。

 彼は息を止めて顔面に吹きつける炎をしのぎ、脱出しやすいようにすぐに飛行機を背面にした。舵の効きはまるで戦艦みたいに重たくのろまに感じられた。垂直尾翼との衝突を避けるために横ざまにコクピットの縁を蹴って飛び出した。すでに顔と手は焼け爛れてボロ布のように皮膚がぶらさがっていた。なんだ、邪魔だな、と毟り取ろうとするとどこもかしこもひどく痛んだ。

 自動曵索に引かれて開いたパラシュートは彼の体をゆっくりと海面に落とした。風に乾いた表皮に海水が浸透していく。彼は叫んだ。切れかけていたアドレナリンが一気に体内に噴き出すのを感じた。心臓が脈打ち、荒くなる息を抑えるので精一杯だった。痛む指でなんとかパラシュートを分離する。

 彼はそのままほぼ1日半海流に揺られ、脱水で死にかけていたところを危うく救難用の水上機に拾われ、そして病院まで搬送された。道中のことはほとんど憶えていない。記憶があるのはたったひとつ、1場面だけだ。看護師が手に包帯を巻く時、拳の上から巻こうとするので「おい、きちんと指に巻いてくれ」と言ったが、彼女はかぶりを振った。海の寒さに耐えて握っているうちに皮膚が癒着してしまっていた。彼は指に力を入れて開こうとした。痛みがあるだけで指は伸びなかった。彼の手は鉄琴のスティックになっていた。

 彼は4回にわたって顔面の皮膚移植を受けなければならなかった。まずは包帯を外すための移植だった。エミリアが初めてジョンソンに会ったのはそのあとの状態だった。眉も髪も禿げ上がり、後ろ髪が残るのみ。目と口はほとんど菱形の風穴になり、鼻孔は削がれたように前を向き、パッチワークのような頬は拒否反応と炎症のせいでぷっくり膨れ上がっていた。手はまだ丸く包帯が巻かれただけの状態だった。

 顔と手の再建、どちらが先がいいか、と訊かれて彼は後者を選んだ。食事も着替えも一人ではできない。手が使えないのはあまりに不便だからだ。

 無事手術を終えて指1本ずつ包帯を巻いた手に鏡を持って自分の顔を映した。

「これならまだ包帯で巻いただけの顔の方がマシだった」と彼は言った。彼の顔は軍籍のポートレートとは全く違っていた。

 ほとんど全身の皮膚を使い果たして4度の再建を終えると、彼の顔はアトピー性皮膚炎持ちくらいまでまともになった。しかしそれでも元の顔とは似つかない。肌や髪だけの違いではない。顔立ちというものが根本的に変わってしまっていた。同じ輪郭のままでこれほど違う顔が出来上がるのか、と思わせるほどだった。

「退院したら空軍に戻るさ」ジョンソンは言った。

「あなたにその怪我を負わせた場所に戻りたいの?」

「いや、これをやったのはメッサーシュミットの野郎さ。スピットファイアじゃない。まして空じゃない。俺は飛行機に乗りたくて空軍に入ったのさ。わかるか? 俺がもとの俺のままであり続けるためには空に戻らなくちゃならないんだ。これでもしパン屋にでもなってみろよ。顔も違う、やってることも違う。それでその人間が他でもなくこの俺だと断言できるのか?」

 彼の萎んだ瞼の奥に熱い炎が燃えていた。それはきっと彼が体の外側を焼かれる前より一段も二段も強い闘志だった。しかもそれは必ずしも敵に対する闘志ではなかった。生きることそのものに対する闘志だった。

 そして彼は再び空に舞い上がり、彼が求めた生き方の中で空に散っていった。

 エミリアは一面の赤いポピーの中を歩きながら私にその古い物語を語ってくれた。そう、工房の周りの野原がきちんと花畑になったのですよ。花々は線香の煙のように風に揺れていた。叢を踏み分ける度にバッタが驚いて飛び上がり、それを狙うたくさんのツバメたちが羽音のない蜂のように私たちの周りをぐるぐる旋回しながらピチャペチャけたたましく鳴いていた。まるでたくさんの空の死神が飛び上がったパイロットたちを捕まえて彼岸に送っているみたいだった。


 記憶の伝聞(ジョンソン→エミリア)の記憶の伝聞(エミリア→狭霧)の記述の引用というすごい部分を含む一節。

 ある意味〈デート、魔女語り〉と対になっていて、同じ自己喪失のテーマをリアルで生臭いシーンに落とし込んでいる。対してあちらは幻想的、女主体、男主体、という差異もある。

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