まがいもの
人気のない公園を突っ切って手島家に帰る。地面の砂に明るい木漏れ日が細かな影を落としている。
深理さんは何かに気が付いたように振り返って「お昼ごはん作るの手伝ってね」と言った。僕はまだ入用のようだ。手島模型はシャッターが閉まっている。彼女はサンバーバンの横を狭そうに蟹歩きで抜ける。サンバーの後ろでエアコンの室外機が家の壁に背中を向けている。普通の室外機を縦に二つ重ねてくっつけた双子型。店が休みなので揃って黙りこくっている。広げた雨傘が二本、竹の柄の紺色のと細い赤色のがその後ろのパネルの縁に掛かっていた。深理さんは干しておいたのを忘れていたふうで立ち止まり、手前にかかっている紺色のから乾いているのを確かめて畳んだ。
さらに奥へ行って玄関に入る。靴箱の端に縦長の扉があって、それが傘立てだった。開くと結構な本数の傘に加えて箒やバドミントンのラケットがぎゅうぎゅうに詰め込まれて花束みたいになっていた。
親父さんは居間のテーブルでプラモデルの箱を開いていた。空調がついていないので窓を開けて扇風機で風を送っている。作り始めたばかりらしく、ランナーからニッパーでパーツを切り取っているところだ。ブロンコの48スケールの殲撃一〇単座型。
「五月に新しく出たやつね」深理さんがおやじさんの斜向かいの席に座って言う。「出来はどう、作りやすそう?」
「パーツの合いはまだ分からないな。とにもかくにもモールドはかなり繊細だよ。見た感じだとトランペッターよりしっかりしてる」
深理さんはまだ手のつけられていないランナーを箱から取り出してみる。「うーん、結構細かい感じがするなあ。尾翼も鯛焼き式だし、手間がかかりそう」
「うん」とおやじさん。
「でも問題は中国機を手に取るお客さんが絶対的に少ないだろうってとこよね」
「ああ」
深理さんは僕を見てひとつ横へずれる。空いた席に僕が座る。それから薄っぺらい説明書を見る。びっしり簡体字が印字されている。日本の漢字と同じ字でも微妙にフォントの雰囲気が違う。
「知名度、人気度、そういった意味でのスター的な飛行機がないからだな。今までの中国の飛行機は中国のプロダクトとしての特徴が全然なかったんだ。ソ連機のライセンス生産とコピーばかりやっていたから、そういうものを表に出しても中国のものとしては認知してもらえないんだよ。アメリカの飛行機といえばファントムやイーグル、ロシアならミグとスホーイ。中国は?」
「中国もスホーイの飛行機ですよね、ほとんど」僕は言った。
「しかしだな、それは日本の飛行機にも言えることなんだよ。自分の国の飛行機だから空自の模型も売れる。だが実際にはほとんどアメリカ製だし、国産機といっても外国から見ればぱっとしない飛行機ばかりじゃないか。F1はジャギュアに似ていたし。さっさと自分のところだけで作ろうという気持ちが薄い分、日本の方が状況は悪いかもしれないな。殲一〇に関してはもうコピーじゃない。他に似てる機種がない」
「そうか」
「それなら中国機に注目してみるのも面白いと思ってね。それで作ってるんだ。出来はどうあれキットは充実している」
僕と深理さんは台所に入って冷麺をつくった。彼女がキュウリの千切りなんかをてきぱきやって、僕はほとんどコンロの前に立っていた。彼女が始終僕のことを気にしているのがなんとなくわかった。料理に専念するふりをして、それでも僕の方へ意識を向けていた。彼女は料理が得意だからそれくらいのことはできるのだ。僕は鍋でお湯を沸かしたり麺を湯がいたりしたけど、それはたぶん僕の助けがなくても彼女だけで十分やれることだ。
たぶん、僕が何か訊くのを待っていたのだろう。でもそれは訊いてほしくてたまらないというふうじゃなかった。訊かれたくないことを訊かれた時にどう反応するか、なんと言って切り抜けるのか、茶化すのか、そういう計略を巡らせていて、嫌なことならいっそ早く終わらせてしまいたいという気持ちで僕の方を窺っていた。僕は訊かなかった。あえて喋らせることはないじゃないか。結局僕は自分の中だけで考えていた。白州さんの館に貼ってあった僕の絵や、彼の古い絵の裏にあった日付や、彼の年齢や、深理さんの年齢について考えていた。
妙に疲れていた。歩いて家に帰ると頭がぼんやりして瞼が重かった。寝室の布団に突っ伏して掛け布団を背中に被り、体の前に引っ張って自分を強く締めつけた。部屋の中は随分暑かったけど、僕はもっと別のものに耐えなきゃならなかった。一二分そうしたあと、緊張を解いて五十分眠った。起きても頭の中にあるものは全然綺麗になっていなかった。それどころか今にも吐きかねない気分だった。体中汗まみれで心臓が嫌に速く鳴っていた。鼓動のせいで体が痙攣しているみたいな具合になるくらいだった。
時計は一時四十五分を指していた。綺麗な形だと思った。つまり、時計の盤面がだ。僕だっていつもいつも芸術的な目で見ているわけじゃないし、針の角度や長さの具合が綺麗に見えたのは初めてのことだった。
シャワーを浴びて扇風機にあたり、一週間分の洗濯物を洗い、掃除機をかけて、脱水の終わったシャツにアイロンをかける。真っ白な湯気が上がる。洗濯物を干し、夕食の煮物にする根菜を切り、鍋に入れてことこと四十分くらい煮る。テレビをつけて少しの間休憩し、それからパソコンをネットに繋いで中国の戦闘機について調べる。質のいい画像をいくらか選び出してプリントして、作業部屋に持っていってそれを参考に鉛筆でスケッチをする。何度も鉛筆を削り、部屋の中が暗くてやっていられなくなるまで続けた。どういうわけか自分の描いた線が見えないのだ。白い紙の上に描いた黒い線が見えない。どうにか光に当てて見ようとして、そこで部屋が暗くなっていることに初めて気付く。振り返ってみて竦み上がるくらいぞっとした。お化けが居てもおかしくない暗闇が沈殿していて、ドアの隙間から廊下の常夜灯の細い光が仄薄く差していた。明かりを点けて時計を見る。時間の感覚がなくなって四時間くらいも経過していた。ベランダへ出ると洗濯物がすっかり冷たくなっていた。キッチンへ行って煮物を温め直す。ダイニングの向かいの壁に出来のいい絵を何枚か貼って食べながら眺める。蛍光灯の青白い光の下で僕の線は変に荒っぽく見える。少し繊細さに欠ける。その小さな傷が美の尺度では滝ができるくらいの落差になってしまう。結局箸を置いて壁に近寄って絵を見た。どれも昔の白州さんが描いたあの九八式水上偵察機の絵に及ぶものじゃない。無心に描き続けた四時間が全部――いや、もっといろんなものが――無駄だったような気がして、掌の付け根の辺りで自分の額を思い切り叩いた。どちらかというと手の方が痛かった。
なぜ深理さんは白州さんではなく僕に飛行機の絵を描かせたのだろう?
冷たい空気を吸いたくてベランダに出て、何のことなしに下を覗き込んだ。地上の植え込みに人が落ちていた。
瞼の上から指で目を押し込んできちんと焦点が合うようにしてから確かめると、それはただの白いバスタオルだった。風に流されてきたらしい。しばらく見ているとスウェットを穿いた三十くらいの女の人が歩いてきてそれを拾って、拾った時に上を見るから目が合ってしまった。髪がぱさぱさだけど結構綺麗な人だった。そういう時手を振ったりなんかしてやれたらいいのだろうけど、僕はそんなに気の利く人間ではなかった。特に大事な時に限って愛想が悪くなって何も言えなかったりするのだ。その人はすぐに目を逸らしてバスタオルを丸めながら帰っていった。
次の日はまだ夜明け前に目が覚めた。何か大がかりな石臼の中に閉じ込められたような音が聞こえた。世界を覆う雷鳴だった。意識を保つために目を開けていると天井に閃光が映った。体を起して布団の上に座り直す。窓全体が白くストロボを焚いた。次いで雷鳴。遠い。けれど長い。時計を見上げると午前三時だった。再び横になる。何か激しい夢を見ていたはずだった。夢の中にも雷鳴が聞こえていたような気がする。思い出せない。
それから少しの間天井に目を向けて妙にクリアな頭の中で考え事をしていたのだけど、いささか唐突に「思い通りになることなど何もないのだ」ということを思った。思い出した、という方が正確かもしれない。
それから雨の日が続いた。僕は絵を描く気が起きなかった。作業部屋の扉を開けて、ドアノブを持ったままその場で立ち尽くす。僕はこの部屋の中で何をしたらいいのだろう。わからない。
そしてリビングのソファに横になってテレビをつける。レコードの棚を眺めて日課の一枚を取り出す。クロスで拭ってターンテーブルにかける。あるいは海部のゲームをただひたすら眺める。繰り返すBGM、ボタンとスティックのノイズ。
アジール。
僕はその単語に妙な引っ掛かりを感じていた。
白州さんは自分の館を学生たちの避難所にしていた。それは僕にとっての朝のブドウ棚であり昼の美術室のようなものなのだろう。あるいは海部にとっての僕の部屋のものなのだろう。絹江さんにとってもまた去年の青森帰りには避難所として機能したのかもしれない。
僕はこの部屋で狭霧を待とうと思った。アジールはたぶんその意味を一言で表わしている。
窓を開ける。じめじめした風が雨粒を運んでくる。灰色の大気の中をカラスが二羽、雨宿りできる物陰を探すように急いで飛んでいった。後ろの一羽が首を巡らせる。一瞬だけ目が合ったような気がした。
「私は自分の存在意味を誰か一人の他者に求める危うさに気づいた」
冬の柴谷邸で聞いた絹江さんの言葉だ。
僕は長らく多くを考えずにまっすぐ進んできてしまったみたいだ。少し休もう。そろそろ立ち止まってもいいんじゃないか。
そういえば手島という名字も白州という名字も水に囲まれた土地のイメージを持っているんですよね。これは考えたわけではなくたまたまそうなっただけなんですが、両者の北千住島とのつながりをうまく強調してくれているんじゃないかと思います。




