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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第1章 詩――あるいは蛇について
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ノートを写す、イギリスの学制

 狭霧は立ち上がって台所から麦茶のボトルと布巾を持ってくる。布巾で丁寧にグラスを拭い、麦茶を九分目まで注ぎ足す。台所へボトルを置きに行って、熱の籠った座布団を叩いて裏返してから座り直す。

 それからテーブルの隅に寄せてあったノートの一山から僕の地理のノートを開いて、先生はここはどんなふうに説明してたの? と訊く。僕はタンスの奥に仕舞い込まれたシャツを探し出すみたいに記憶を辿って、授業で聞いたことをできるだけそのとおりに伝えた。国語と数学も同様に口頭で解説した。それが済むと狭霧は僕が新しく持ってきたニ教科、理科ニ分野と英語のノートを指して、「これもいま写していい?」と訊いた。それはつまり「まだ時間ある?」という質問と同じだった。僕は肯いた。それから長押にかかっている時計を見上げた。肯いてから時計を見た。まだ十時を回っていなかった。

 単なる転写の作業の間は狭霧は特に喋らずに手を動かした。時々左手を耳の後ろにやって髪を押さえながら、並べた二冊のノートの間に目を行ったり来たりさせ、全然顔を上げずにノートを写した。

 僕のノートはありふれたキャンパスだったが、彼女のはアピカで、無地のクラフト紙の表紙に製本テープの色が五色きちんと別にされていた。赤、黒、緑、オレンジ、黄色。

 僕は狭霧の指を見る。前々から思っていたことだけど、彼女の手は文句のつけようのない美しさだった。骨の節はほとんど主張がなく、関節の皺は最低限、爪は卵型で大きく、指と掌の恐るべき長さの比率、薄さ、全体の細長い感じ。親しい人間ならたっぷり十五分は触って研究してみたくなるような手だった。

 そして彼女のペンの持ち方は薬指を枕に中指は人差し指と揃えておくタイプで、どの指にもほとんど力が入らず、ペンはかなり寝ていた。字は几帳面で、どちらかというと男前だった。書きなずむところがあるとペンを持った手の中指が上に出てきて人差し指の爪をかりかり引っ掻いた。僕に質問をするとその癖は収まって、次に気になるところがあるとまたかりかりし始めた。彼女は図を大きく描いて蛍光ペンを何色も使った。字と違って実に女の子らしいノートの取り方だった。

 僕はそっと立ち上がって縁側に行き、沓脱ぎ石の上に置きっぱなしだったプーマのスニーカーを玄関に持っていった。土間の隅に狭霧が普段学校に履いてくるニューバランスのスニーカーと水色の長靴が並んでいた。少し考えてから上がり框の真ん中より少し左に寄せて自分の靴を置く。ド真ん中ではいささか図々しいし、端では馴染みすぎている。

 玄関の様子は前日と変わりない。傘立てに傘があり、靴棚の扉はどれもきちんと閉じられていて、その横には姿見が立てかけられていた。姿見に近づいて見ると上の方にいくつか指の跡がついていた。それは狭霧の指の跡に思えた。狭霧は毎朝ここに立って、前髪の分け方が変じゃないか、制服に皺がないか、脚の虫刺されの痕が目立たないか、そんなことを順序良く確認していくのだろうか。

 玄関の北側へ行くと居間と台所とを隔てる廊下に当たって、突き当たりの壁にある丸い窓まで見通せた。右手の洗面所に入って両手に水を汲んで顔を洗い、脇に挟んでおいたハンカチでぐるりと拭った。縁側の方から回って居間の前に戻る。庭に陽炎が出ている。縁側に立ていると下から熱線が当たってくるのを感じた。空は青く光っていた。

「どうしたの?」狭霧が手を止めて訊いた。

「顔を洗ってきたんだ。汗を掻いておでこがちょっとべたべたしていたから」

「それは構わないんだけど、あ、ねえ、空に何か見えた?」

「何か?」

「例えば、そう、人工衛星の影とか」狭霧は指を立てて頭上に大きな弧をさっと描いた。

「そいつを偶然見かけるにはオオワシ以上の視力が必要だな」

「ミシロは目がいいよね」

「いいけど、オオワシほどじゃない」

「じゃあ人工衛星は見えないか」

「見えない。何も」僕はもう一度空を見上げた。「そこには強い光しかない」

「強い光しか」

「そう」

「帰る時は言ってね」と狭霧は言った。狭霧が本当に言いたかったのはその一言だった。

「あ、ああ、ごめん」と僕。

 狭霧はペンを置いて後ろに手を組むとそのまま腕を持ち上げて伸びをした。薄い腰つき、弓なりの背中。美人かどうかと訊かれたら、きっぱり答えるのは難しいけど、狭霧は人の心をつかまえる要素をきちんといくつか持っている少女だった。

 僕は自分の気を逸らすために目を上げて天井を見た。縁側の欄間に孔雀の彫刻。長い尾羽は一列一列透かし彫りで繊細に表現されている。奥行きが小さく派手なものではないので外から縁側へ上がる時には気付かなかった。

「これはいいデザインだね」僕は言った。

「欄間?」

「そう、欄間」

「さすが、美術が得意な人は違うね」狭霧はそう言ってパーカーの裾を直しながらしばらく沈黙していた。それは説明を組み立てるために必要な間だった。「この家の装飾は明治二十年から三十年くらいに西洋美術にかぶれた職人さんが手がけたものなんだって。都市計画からも外れて、震災にも耐えて、焼夷弾は他の家に降った。建った頃は決して珍しい建物じゃなかったんだけど、今ではもう同年代のものは近所にはなくて、ちょっと貴重なの。もしその良さがわかるんならおばあさんの知り合いたちと話が合うかもしれないね。昔おばあさんが写生会を招いたことがあって、この建物が好きで今でも時々絵を描きに来る人がいるんだ」

「お年寄り?」僕は居間に入りながら訊いた。

「ううん。若い人。女の人。どうやって生活しているのかよくわからないような、でも丁寧な人で、挨拶をする時は必ず帽子を取ってくれるし、来るのは本当に時々だけど、土地のお菓子を持ってきてくれるし、喋ると気前がいいけどお節介でもなくて、それで小さな画板立てを庭のどこかにひっそり立てて二時間か三時間くらい絵を描いていくんだ。だから全然迷惑じゃないし、私はその人のこと好きだな」

 居間にはテレビ台とそこに東芝の三十インチくらいの液晶テレビ、オーディオ、それに飾り棚が一組、いずれも畳を傷めないように足の下にベニヤを敷き込んでいた。僕は飾り棚の前に立ってガラスを覗いてみた。普段使いとは違う食器や本や小さな置物の類が高層オフィスのテナントのように棲み分けていた。置物の段はイギリスにまつわるものが揃っている。ロンドン・アイを模したステンレスのモビール、ウェストミンスター・パレスのミニチュア、コーギー模型のダイキャスト製アストン・マーチン、同じくウェストランド・ワイバーン。

 その下段にGCSE関連の本とMDカセットが並んでいた。本の背表紙は全てローマ字だった。手前にはイヤホンをぐるぐる巻きにされたMDウォークマンが転がっていて、縄で縛られた罪人みたいだ。コードの巻き方は狭霧の性格からするといささか乱暴に思えた。

 目の焦点を遠くにやると狭霧の姿がガラスに映っていた。

「GCSE」ガラスの中の狭霧は言った。「日本で言うところの高校入試対策問題集」

「開いてもいい?」

「いいよ」

 僕は扉を開いて問題集を一冊ぱらぱらと捲ってみた。当然だけど中身は全部英語だった。

「イギリスは6334制じゃないんでしょう?」僕は圧倒的な量の英語で埋め尽くされたページを捲りながら訊いた。

「うん。大学に入る歳は同じだけど、中学高校の区別がなくて、十三から十八歳まで高校生をやるんだ。その中で最初の四年間はシニアスクール、あとの二年間はシックス・フォーム、あるいはチュートリアルカレッジ。シックスフォームは目指す大学によって通う学校が分かれるんだけど、その時に目安にするのがGSCEの試験なの。だから実質としては4・2の中高制なんだよ。シックスフォームは義務教育でもないし」

「じゃあ高校入試まで一年余分に猶予があるんだ」

「そうともいえない。GCSEやAレベルの試験は五月だから、猶予はせいぜいプラス二三ヶ月ってとこ」

「そんなに早い時期に試験があるの?」

「そう。でも学年の切れ目が八月と九月の間なんだ。八月に卒業として、入試から三ヶ月」

「そうか、年の切れ目が違うんだ」

「まるで時間の流れがここと向こうで違うみたいな言い方だね」狭霧はちょっと笑いながら膝立ちになってノートの奥に手を突く。足が痺れたのかもしれない。「私が一学期の終わったところで向こうに行くのはそれに合わせるためだよ」

「じゃあ僕が中学三年の後半をやっている間に柴谷はもう次の学年をやっているんだね」

「少し無理をしてね」

 僕は棚の中に目を戻した。また少し狭霧のことが遠く感じられた。

「そっちの黄色いMDカセットは英語の教材。それを聞いたらミシロもイギリス人になれるよ」

「そんな簡単なものじゃないよ」僕は振り向いた。

「それが、なるんだよ。私はね。だって英語で考えるんだから」

 扉を開いてカセットの中から適当にひとつを選び出して手に取る。第十一巻だった。表紙には狭霧の言う通り「英語で考えよう! Let’s think in English!」と大きく宣伝文句が印字されていた。意見を求めるつもりで狭霧の顔を見る。

 彼女はまた小鳥のように首を傾げ、「ようかん食べる?」と訊く。

「ようかん?」

「うん、水ようかん」

 僕は肯く。狭霧は台所に行って冷蔵庫を開けた。鼻歌が聞こえる。「時の旅人」合唱曲だ。優しい雨に打たれ……というサビのあと二小節ほどで途切れて「どう、面白いでしょ?」と訊く。英語のカセットの件だ。

 そう言われたってまだ聞いてない。僕は心を決めてウォークマンの封印を解きにかかった。イヤホンを浅く耳に挿し、カセットをスリーブから出して咥えさせる。縁側の柱に肩で寄りかかって台所を見る。狭霧は調理台でようかんを切っている。北向きの窓から入った結晶のような光が彼女の周りに漂っていた。

 体の向きを変えて外を眺める。そして再生。狭霧の撒いた水滴や、光沢の強いクチナシの若葉に日光がきらきらと反射する。カセットが音を発するまでの短い間、僕は無音の光の世界を眺める。

 音が始まる。

 聞き流しタイプの対話形式の英文読み上げなので、テキストのここを開けなどという指示はなかった。聞くのは字幕スーパーで洋画を見る時の感覚に似ていた。日本人が相手だということなんて考えていない。理解も求めていない。一通り会話が終わったあとに簡単な英語で状況の説明があって、そのパートは僕でも十分訊き取ることができた。会話が五本くらいでひとつのユニットを形成していて、ユニットの合間にラジオのDJのようなパートがあって、ビートルズの「ラヴ・ミー・ドゥ」をバックに陽気な男の声がリスナーの調子を窺うようなことを二三言った。

 イヤホンを外す。気の早いニイニイゼミが鳴いている。

「座って」狭霧は席に戻っていた。テーブルにようかんのガラス皿が置いてある。

 カセットを出して狭霧に渡し、イヤホンのケーブルをウォークマンに巻いて封印し直す。狭霧はカセットとウォークマンをひとまず自分のノートの上に乗せた。

 僕たちは再び低いテーブルの両側に座る。ようかんはつやつやしていて黒い中に薄赤い透明感がある。それが曇りガラスの小さな角皿に斜めに乗っている。僕はようかんの角を銀色のフォークで切って食べた。食感も控えめな甘さも素晴らしかった。

「どこのようかん?」

「私が作ったんだ」狭霧は肩を竦めながら答えた。

「ようかんって作れるの」

「うん。全然難しくないよ」

「へえ」

「本に書いてある通りやっただけなんだけど」

「おいしいよ」

 狭霧はようかんを刺したままのフォークを皿の縁に引っ掛けて、「今日は家に誰か居るの?」と訊いた。たぶんフォークを持ったままではできない質問なのだ。

「うん。親がいる。今頃出かけているかもわからないけど、お昼までに帰るって言ってある」

 狭霧は時計を見上げた。

「まだ居られるよ」と僕は言った。はじめは長居するつもりもなかったのに。自分でも不思議だ。


「手」のフェティシズム。

その人が書いた文字のことを「手」と表現することもあります。きちんと辞書に載っているのです。

だから「僕」は狭霧の手に注目して、字の形にも注目しているのです。


他方、するりとイギリスの気配が現れます。それは「僕」と狭霧の空間的時間的隔たりの予兆でもあります。

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