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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第3章 音楽――あるいは愛について
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9ヵ年の差異

 僕はソファに置いた鞄から飛行機のイラストのファイルを出して白州さんに見せた。白州さんは二十枚ほどの僕の絵をじっくり眺める。一枚に十秒から十五秒かけた。

 僕は両手を太腿の下に敷き込んで白州さんの目の動きを向かいからじっと見守っていた。彼の目が不意に持ち上がって僕を見る。光の加減で左右で瞳の色が違って見えた。窓に近い右が若干淡く鳶色、左はほとんど黒だった。

「君の絵はすでに何枚か拝見しているよ」

 僕は廊下の方へ目をやった。

「コピー用紙になっているのは原画を売ってしまったものだね」

「そうです」

「ということは売らずに残しているものもあるというわけだ」

「あまりよく描けなかったものは取ってあるんです」

「彩色は水彩に拘っているのかい?」

「いいえ。でも他の絵の具に手を出すより安くて手間がかからないので」

「なるほど。どうやって描いてるのかな。実物?」白州さんは訊いてみてから首を振って自分で否定する。「実物はさすがに無理か。いくつかはずいぶん古い飛行機だものな。模型を見て、それとも写真を見て?」

「写真です。模型がある時は模型を見て」

「基本的には模写ということだね」

 僕は少し悩んでから否定した。「写真と同じ角度からはあまり描かないので」

「それなら模写はあまりしないということになるね」

「模写というのは見たままを写すことですよね?」

 白州さんは肯く。

「僕はたぶん意図的に模写を避けているんだとおもいます。模写は、つまり何か立体の影を影のまま捉えるということだから、物の本当の形を把握することはできない」

「ほう?」

「そこにある影の形をただ正確に捉えるよりも、そこになぜその形の影ができるのか知ってから再現するべきだと思うんです」僕は机の上で指を斜めに組み合わせる。「つまり、二次元を二次元のままアウトプットするのではなくて、二次元を一度三次元に膨らませてから二次元に還元したい」

「絵を描く前に立体的なイメージを構築しておきたいということだね」

「そうです」

「君が描く絵は、何かしら既存のものを写したものではなく、君の頭の中に生じたイメージをある角度から描写したものだ」

 僕は肯く。

「君はなかなか面白い考え方をするね。他にも何か描くのかい? 飛行機以外に、人物や風景や」

「描きます。あいにく今日は持ってきていないんですが」

「ぜひ今度持ってきてくれよ。君だったらいつでも歓迎する。何か書くものはあるかい?」

 僕は鞄を膝の上に置いてクロッキー帳と鉛筆を取り出す。白州さんの言った電話番号を新しいページにメモする。

「携帯電話は持っていないんですね」

「うん。主人やファンと連絡を取り合わねばならないからパソコンでならメールをやるんだが、あまり好きじゃないね、ああいうのは。肉筆の手紙だって冷淡な感じがするのに」

「文字が嫌いなんですね」

「そうは言ってないよ。なんと言うかな、ただ、現代人の書く字は情報的すぎるんだ。読みにくい手紙に関しては興味がある。何と書いてあるのか読み解かずにはいられない気持ちになる。表現の中に意味を探すという過程が大切なんだ」ちょっと僕の反応を見て、「どう、少しは芸術家らしいことを言うだろ?」と付け加える。

「芸術家だからメールをしない」

「そういうわけでもないんだ。ああいった感情の籠っていないものがほんとに好きでないんだよ。うすら寒いというかね。ポロックやカンジンスキの抽象絵画を気味悪く感じる人もいるようだが、僕の場合には一種の安心を感じるんだな。絵画には内容のわかりやすいものとわかりにくいものがある。ミカンの皮は手で剥けるけど、グレープフルーツだとそうはいかない、といった具合にね。ほとんど皮だけで身がないという絵もある。頑張って剥いてもいいんだが、ほとんど身がないので味を確かめる必要もない気もする。ポロックの絵はグレープフルーツ的というか、もっと皮の分厚い、中身の少ない絵画なんだな。ただただ作家のエネルギーの航跡がそこに表現されている。しかし、困ったな。また研究家の真似事をしている。こういう話はどうか美術の先生には言わないでくれよ」

「ええ、もちろん」僕は答える。

「抽象絵画は好きかい?」

「あまり」

「それはまた、なぜ?」

「よくわからないけど、白州さんがそれを評価する理由と同じかもしれない」

「すると、表現だけというのが気に食わないわけだね。あくまで実を食べてみたいと」

 僕は横を向いて少し考える。「僕は実のある絵の方が感心するし、長く見ていたいと思う」

 白州さんも自分の顎を撫でながらしばらく考えた。

「もしかするとそれは寓意を探しているからかもしれないね。細かいところを見て、隠された意味を探そうとしている」

「たぶんそうです」

「なるほどね」白州さんは腕を組んで背凭れに体を預ける。彼が何に納得したのか僕にはわからない。

「白州さんは飛行機を描いたことはないんですか」

「飛行機の絵だって?」

「はい」

 白州さんはしばらく腕を組んで黙り込む。

「作品にしたことはないな。もしかして僕の描いた飛行機が見てみたいの?」

「デッサンの練習でもいいんです」

「見ない方がいい。だって作品じゃないんだから」

「あるんですね」

「あるにはある。いいよ、どうしてもというなら持ってこよう」

 白州さんは席を立ってリビングを出ていく。話し声が止んだことに気付いて深理さんが手を止めてこちらに目を向ける。「白州くんは?」

「僕に見せてくれる絵を取りに下りてるんです」

 深理さんは鍵盤に向き直って再び弾きはじめる。「絵って?」

「たぶんスケッチなんじゃないかな。作品ではないと言っていたから」

「白州くんのスケッチかあ」深理さんは何か美味しいものでも食べた時のように言う。「じゃあ彼はあなたのことをとても気に入ったのね」

「どうして?」

「そんなの、私が言っても見せてくれないからよ。少なくとも芸術に関しては、私みたいな中身のない人間よりも、あなたのように奥行きのある人間を話し相手にしたいと思ってるんじゃないかしら」

「深理さんはいつから白州さんのモデルをやっているのですか?」僕は照れながら訊いた。

「いつから、ということもないかな。高校の知り合いなの」

「同級生?」

「そうね」深理さんは微笑する。

 白州さんは地下階の書庫から綴り紐留めの紙のフォルダを手にして戻ってきた。「確かこの時期だったと思うんだ。――ああ、やっぱりあった。僕はこの時初めて飛行機の形態というものに興味を持ってね」

 白州さんは画用紙を僕に見せる。そこにはルーミス的な簡潔な陰影のデッサンで九八式水上偵察機が描かれている。後方少し左下方から。飛行機が最も美しく見えるアングルだと僕は思う。この角度だと機種判別は難しくなるが、九八式は見間違えようのない特徴的な形をしている。主翼は二段組みで下に胴体、上にエンジンが取りついている。プロペラは主翼の後ろにあって胴体をぶつ切りにしないぎりぎりの回転半径になっている。

「なんという飛行機かわかるかな。鉢植えなら貰う時にきちんと種類を聞くんだけどね」

 僕は九八式水上偵察機だと答える。絵の裏を見る。題名もモチーフの詳細もない。ただ描いた日付だけが記されている。1997・10・3。…十三年前だ。

「白州さん今いくつですか」僕がそう訊いたのは深理さんの学年を把握していなかったからだ。

「今?」彼は頭の中でぱたぱたと自分の足し算をする。「二十五だ」

「そうすると……、え、二十五?」僕は驚いて赤くなった。頭の中を整理しようと焦っていた。

「そう。その絵を描いた時は十二歳ということになるね。ねえ、なぜそんなに驚いているんだい」

「さっき芸大って」

「確かにね。しかしそれは在学中というのではなくて、出身という意味だよ。さすがに学生の身分で学生を教えることはできないな」白州さんはいささかにやにやし始めた。「もしかしてミコトのことを現役だと思っていたのかい?」

「ええ……」

「彼女は君に歳を言ったかい?」

「いいえ。ただ、白州さんとは同級生だったって」

「そう。それなら、残念だけど君の方で勘違いしたんだな。彼女もちょっと大人気ないことをしたと思うけどね。とにかく僕たちは二十五だよ」

 僕は両手で顔を拭って気持ちを鎮め、それからもう一度彼のスケッチを眺めた。落ち着いて、じっくり。

「十二歳でこれを描いたんですね」

「そうなるね。でもどうしてそんなことを訊くんだい?」

「いえ、ただすごいと思ったから」

「すごいって、僕の絵が?」

 僕は肯く。

「昔の僕が聞いたら喜ぶだろうね」

「今の白州さんは?」

「今の僕は絵の上手い下手では評価されない。その絵は君にあげるよ。僕が持っていても仕方のないものだからね」

 僕は顔を上げて唖然とする。それからどうするべきか考えて、できるだけ早く絵をひっくり返し、白州さんに返す。「お気持ちは嬉しいけど、でももらえません」

 白州さんは一瞬だけ残念そうにしたあと、絵を受け取りながら首を振った。

「いいんだ。僕には少し初めてのお客様に接待をしすぎるところがあるからね、その時は遠慮なく言ってくれたまえ」

 白州さんとその主人の会食は六本木で十二時半からということだった。彼はするするとしたサマージャケットを羽織って、行きがけに深理さんと僕を送ってくれると言った。僕たちは玄関を出て階段を下りる。家の基礎の中にくりぬかれた車庫にBMWの3シリーズカブリオレとトヨタ・ノアが並んでいる。ノアは運搬とか実務的な仕事のための車だろう。BMWは落ち着いたブルー。ハードトップをトランクの中に格納するのでろくに荷物を運べない、ちょっと装飾的な存在だ。白州さんに似合いすぎている気もする。彼の主人が選んだのかもしれない。

 彼はBMWを前の通りに出す。猛獣の唸り声みたいなエンジン音だ。よく磨きあげられたフェンダーの曲線に周りの景色が映り込む。内装は黄みの強いブラウンで、ルーフは閉じている。僕は後席に、深理さんは助手席に乗る。白州さんは車を出す。トランスミッションはオートマチックだった。

 走っている間は白州さんと深理さんが手島模型の近況について話していた。僕は窓から入る風の渦が顔に当たるように首を斜めに伸ばして景色を眺めていた。ルームミラーに時々白州さんのサングラス越しの視線が映った。でも気付かないふりをしていた。構ってほしいのだと思われるのが嫌だった。

 白州さんは手島模型の前ではなく公園の横にカブリオレを停めて、深理さんと僕はそこで降りて見送った。彼が行ってしまったあとで彼女はその訳を教えた。「白州くんはうちのお父さんとちょっと折り合いが悪いのよ。だからうちのまん前にはつけないの」

 折り合いが悪い、というのはどういう関係なのだろう。もし二人が顔を合わせてしまったら何か悪いことが起こるのだろうか。それとも、口を利かない、目を合わせたくもない、そういった関係だということなのだろうか。だとして、なぜ? 僕はどうも何かものごとを詮索しなければ気が済まないような心境に陥っていた。


白州さんの館に着く前に深理さんからもう少し前情報を出してもらった方がいい気もするんですが、深理さんは自分が白州さんと同級生だなんてことをあえて言いそうな性格ではないんですよね…。割と大事なことを隠しておくタイプだと思う。

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