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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第3章 音楽――あるいは愛について
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人々のアジール

 僕と白州さんは一階に上がってダイニングのテーブルに着いて向かい合った。太平洋戦線の作戦会議ができそうなくらい大きなテーブルなのだ。深理さんはまだ奥の部屋でピアノを弾いていた。ショパンのエチュードが好みのようだ。

「この家には白州さんが一人で住んでいるんですか」僕は訊く。

「基本的にはね」白州さんは綿シャツの腕捲りをたくし上げて肘をテーブルに立て、両手を組んで腕全体で台形をつくった。「見かけ上は、といった方が正確かもしれない。なぜならこの家は僕の所有物ではないんだ。僕は居候なんだが、所有者がここに住んでいないので僕はここを管理しながら生活し、仕事をしている。仕事の時はモデルを呼ぶこともあるから一人ではないこともあるが、家事は一人でやる。掃除と庭仕事は特に大変だけれど、それも貴重な息抜きのひとつだ。そういう意味では、僕は確かに一人でこの館を切り盛りしている。ただ、僕の健康を維持したり、生活環境を清潔に保ったりするのは僕自身の要求によるものであって、ここの所有者は僕が素晴らしい絵を描けばそれで満足なんだ。つまり、この館の所有者は僕のパトロンなんだ。僕は主人と呼んでいるが、彼はよき創造のためにこの場所を与えてくれたに過ぎない。自身で泊ることは滅多にないが、客人とその世話役を泊めさせることはある。彼はしばしば僕の仕事ぶりを視察しにくるよ。ご令嬢を連れてね。もともとこの家はそのご令嬢のために改装したものだそうで、彼女は庭やそこの日当たりをひどく気に入っているんだ」

 白州さんは手を広げてサンルームの方へ向ける。日が高くなって天面ガラスが白く輝いている。

「彼女はピアニストでね、ミコトが弾いているピアノも本当は彼女のためのものなんだ。ついでに言っておくと、今日こんなに早く来てもらわねばならなかったのは、その小さな発表会があるからなんだ。主人に昼食に誘われていてね」

 僕は白州さんの向かいに座って、だいたい彼の指先を見ながら話を聞いていた。

「囚われているんですね」と僕は言った。

「『囚われている』か、確かに、そう、鳥籠の鳥のように囚われている」

「言い過ぎですか」

「いいや」白州さんは答える。「しかしね、主人という言葉を聞いて君は僕のことを芸術の奴隷のように思ったのかもしれないが、僕が囚われているのだとすれば他の多くの大人だって同じくらい囚われているんじゃないかな。僕にとって芸術は仕事だ。大人たちが働きに行くのと変わらないことさ。めんどくさいと呟いて溜息を吐き、疲れたと言ってぐるぐる首を回しながら夕飯を食って風呂に入るんだよ。自由になれる休日というものも僕にはある。例えば今日がそうだ。僕は今次のコンペティションのこともご主人の要求も一切頭にない。心地よい空白だ」

「でも昼食会がある」

「そう、昼食会には行かないとね。それで、この家の話だったか、そうだな、僕は週に三回だけ絵画教室を持っているんだけど、たまに熱心な生徒さんが夜遅くまでアトリエに残っていたり、泊っていくこともあるね」

「芸大志望の学生さんとか?」

「どうかなあ」白州さんは目を閉じて考え込む。「夜まで居座りたがるのは高校生の生徒より大学生の生徒に多いよ」

「高校生と大学生のクラスですか」

「いや、そうじゃない。程度によって分けているんだ。僕が講義を打ったりするわけじゃないから、程度といっても技術的なものじゃなくて、制作環境の雰囲気の違いだな。真剣か、趣味か、あるいはお稽古か。だから同じ歳でも別のクラスにいるということはある」

「年齢別じゃないんですね」

「そう。一番真剣にやるクラスでは中学生から社会人まで入り混じって描いているね。彼らは自分の生きる手段として描くことを選ぼうとしているんだ。だから根を詰めて、時間を過ぎても描き続けられる。もっとも、あまり小さい子を長居させると親が怒るな。お稽古事のクラスにはこれくらいの小さな子どもたちがいてね、画材の違いなんかを教えてるんだよ。これはいわゆる習い事だな。決まった時間勉強して、解放される。そう、彼らにとっては解放なんだな。嫌々やっているわけでもないんだが、ここで習うことはここで完結しているんだ。玄関を出た瞬間からもう何か別のことを考えている。夕ご飯は何かなあとか、DSの充電挿してくるのを忘れたとか、そんなことをね。見送りに出てみるとよくわかるよ。家の下のところで、コンクリの壁をどこまで登れるか競ったり、アリを捕まえて遊んだりしているんだから」

 白州さんはそこで言葉を切った。少し右目を気にして目尻の方の睫毛を軽く引っ張る。それから何度か瞬き。

「しかし、確かに大学受験勢は居残りをしないな。それにはちゃんとわけがあると思うんだ」彼はその問題に興味が涌いたらしかった。「大学受験のためにここへ来る子たちはいずれ試験会場の限られた空間と時間の中で課題に対応することを求められる。ごく実務的な訓練を目的にここへやってくる。彼らにとって僕の教えることは他の英語や数学といった教科の勉強と同列に扱われるものに過ぎない。他の勉強もしなくちゃならないから、現金なことを言えば、絵に費やす時間は必要最低限で構わないわけだ。僕も彼らに対しては、絵を教えるというより技巧を伝授する姿勢でやっている。むろん、一部の受験制度には業績で評価するものもあるようだから、そういった場合にはきちんとひとつひとつの絵を丁寧に仕上げなければならない。そこは大学次第だな。ただ、受験生に対する一種の教育者としての責任から離れて本音を言うなら、僕は後者の方が好きだな。芸術に関して数時間というシビアな制限を設けるのはナンセンスだと思うからね。ひとつの作品に好きなだけ時間を使える方がいいよ」

「受験目的じゃない高校生もいるんですよね」

「そうだね。差し迫った目標のない生徒たちを比べても……、そうだな、それでもやっぱり大学生の方が残りたがる感じがするね」

「歳の問題ですか」

「うん。それもひとつだと思う。まず何より年齢的に僕のような他者と時間を共有する抵抗感が小さく行動力が大きいというのは一つだろうね。でも僕が思うに、彼ら大学生には絵を描くための場所がないんだ。高校生の君はまだ知らないかもしれないけれど、中途半端な総合大学だと美術室なんてお誂え向きの部屋は用意されていないんだよ。あったとしても、それは大抵、どの学部学科の学生でもご自由にお使いください、といったようなものではないんだ。ここへ来る大学生の多くがそうした若い難民たちなんじゃないかな。何かの事情で美術系の大学に行けなかった人や、それで食っていこうとも思わないが絵を描きたい、という人だな。誰もが分け隔てなく総合的に自分の居場所を見つけることができるという意味では、実は大学という場所は少し広すぎて、かつ細分化されすぎているのかもしれない。まるでアリの巣穴みたいにね、自分の担当区域を離れて違う部署へ迷い込むと白い目で見られるんだよ」

 彼の言っていることはよくわかった。高校に旋盤がないと知った時の僕もそんなふうだったかもしれない。

「大学ってそんなに居心地の悪い場所なんでしょうか」僕は訊いた。

「一般論でいえば決してそんなことはないと思うよ。大学生になるほとんどの人々が自分の趣向に合ったサークルやクラブを見つけるだろう。ただ一部にはそうでない人もいるというだけのことだ。彼らにとってここは、いわば、アジールなんだ」

「アジール?」

「避難所という意味の言葉だよ。あまり上手い定訳とは思わないけどね。他の場所で居づらい思いをする時にここへ逃げ込むことができる。居づらさの元凶はここには侵入できない」

「アジール」

「そう」

 一通り話し終えたらしく白州さんは僕を見たまま顔の向きを少し、顎の位置を斜めに一二センチ上げるくらいに動かした。何か質問があるかい? そんな感じ。

 アトリエの方から深理さんのショパンが聞こえている。

「白州さんは芸大ですか」

「生憎ね。だから僕の生徒の大学生たちとは事情が違うな。彼らの事情を知っているのは本人たちから聞いたからだよ」

「じゃあ、深理さんは?」

「彼女は違う。彼女はモデルだ。絵は描かない」白州さんは上体を捻り、背凭れを脇に抱くようにして深理さんの方を見る。「それに大学でも上手くやっているよ。オーケストラでコントラバスを弾いている。もう聴いたかい?」

「いいえ」

「それなら是非とも聴くべきだな。オーケストラでもいいが、ソロの方がいい。彼女はああ見えて本当は協調性のある人間ではないから。思いやりがあるのは確かさ。でもそれは優しくすれば……、いや、逆だな。優しくしなければ自分の気持ちが沈んでしまうかもしれないと踏んでいるからなんだ。よく気が付く性格なんだが、自分に対して繊細なんだよ」白州さんはそこで瞳だけを動かして深理さんの方を見やった。「割に有名な曲の方が良さがわかると思うんだがね、コントラバスのための曲というのはそんなに多くないだろう」

「プレリュードは? 無伴奏チェロ組曲の」深理さんが手を止めて訊いた。いささか寒色系の声だった。話が聞こえていたらしい。彼女がペダルを踏んだままなので最後の和音がずっと響いていた。なにしろショパンの曲だから、その和音というのがまた短調なのだ。

「そう。それはいいね。最初に聴くべきだ。あと僕が聴いたことのあるものでは、パーシケッティのパラブル十七番もよかった」

 短調の和音が消える。

「それ、いつ弾いたの?」

「たしか去年の春の演奏会だよ。こっそり見に行ったから君は驚いたな」

 深理さんは弾き続けながら「ああ」と目を大きくする。

「年に二回、大学の講堂で演奏会があるんだけど、それとは別に公会堂の貸しホールでアンサンブルの発表会があってね、彼女はソロで弾いたんだ。約束をしていなかったんだけど、僕がいるのといないのとじゃ彼女にも心持ちの違いがあるかと思ってね。行ってみたら随分小さな会場だったから開演前に彼女に見つかっちゃうんじゃないかとひやひやしたけどさ。――ねえ、君にはどこか決めている大学があるのかい?」

「いいえ」僕は答える。

「それは、どこかに決めなければならないけれど今はまだ決めていないという意味でのいいえ? それとも大学なんてどこでもいいという意味?」

 僕は少し吟味する。顔を俯けるとテーブルの上に白州さんの姿が逆さ写しになっているのが見えた。池の水面のみたいだ。「どちらでもない」と答える。

「じゃあ、大学に行くか行かないか、君の問題はそこにあるんだね」

「そうです。行かなくてもいいという気がする。僕はまだ大学という知らない世界に対して何の目的も抱いていないんです」

「そうか、いや、君が自分の選択をどうしようと別に僕は構わない。ただ、さっきの話で言うと、極力難民にはならない方がいいかもしれないね」白州さんは壁の時計を見る。「君の事情に首を突っ込むのは止めよう。話が逸れ過ぎた。そろそろ件のものを見せてもらおうかなと思うんだが」

 僕は鞄の中に自分の絵を詰め込んできたことを思い出した。深理さんがそれを頼んだのはどうやら白州さんに見せるためだったらしい。

ようやくここでアジールという言葉がきちんと登場します。

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