デート、魔女語り
花はカキツバタの盛り、枝先の芽から開いた木々の葉は深緑に色づいて、いよいよ夏らしくよく晴れた週末の朝。五月中旬だったと記憶している。チュニックシャツをベルトで絞って、黒いタイトなパンツにパンプスを履いて、玄関の姿見で髪が変に跳ねていないか、シャツに皺はないか、ズボンに埃が付いていないか、上から順番に確認した。朝から手島模型に行くのは初めてだった。学校のついででもなく、寄り道でもなく、ただ単に目的地としてそこへ行く。新鮮な気分だった。週末、深理さんが僕を誘ってくれたのだ。
店の表のシャッターはまだ三枚ともぴたりと閉じていた。車庫にはスバル・サンバーが窮屈そうに収まっている。看板、二階の窓と順番に見る。静かだった。人間の喧騒が遠い。カラスの鳴き声が質量のない槍のように空を飛んでいる。向かいの公園に入って、ちょうどブランコの欄干が木陰になっていたから腰掛ける。日除けに被ってきたキャスケットを取って上を見る。空の手前にある木の枝葉に光の靄がかかっていた。
待つ間に三匹の猫を見かけた。茶色いのが二匹と黒いのが一匹。どの猫も一匹で行動していて、物陰から現れたところで僕に顔を向けてまっすぐに睨みつけた。そしてまた歩き出してどこかの物陰に消えていった。僕のことは好きじゃないらしい。誰にでも額をこすりつけたりするわけじゃないのだ。相手による。
約束の四分前に深理さんは現れた。黒地に薔薇のジャカード織のワンピース、その上にスタイルを隠すためのグレーのレースのショールをカーディガンのように羽織り、先の丸いフラットパンプス、革製の白いハンドバッグ。彼女の服装はいつもハイソだ。とてもさびれた模型屋の娘とは思えない。不思議なのはそれが貧乏人が背伸びをして贅沢をする感じではなくて、むしろ金持ちが周りに合わせて抑制を効かせたような服装であるところだった。僕はキャスケットを被り直して腰を上げた。
「おはよう」
「おはようございます」
深理さんは黒い日傘を開いてそれをこっちへ傾ける。僕は彼女と肩をくっつけるようにして半分だけ陰の中に入った。北千住駅に向かう。方角は北東。まず東へ行って、それから線路に沿って北へ。深理さんの歩幅が小さいので僕が合わせる。かといってもどかしい気はしない。至って自然だった。僕は一人ではゆっくりと歩くことのできない人間だけれど、この時はその速さが自然だった。
JRの改札前で深理さんは綾瀬までの切符を買って僕に渡す。常磐線のホームに上がって取手行きの快速に乗る。微妙に混んでいたので我々はボックス席の背中のところに寄りかかって立っていた。景色を見て、路線図を見て、車内を見渡す。吊り広告、吊革や網棚の形。晴れているのに蛍光灯が灯っていた。全く無意味だ。床の上の日差しの当たるところと影になったところのコントラストが鮮明だった。
電車の中ではそれぞれの学校のことを話した。彼女は女子大で器楽を専攻している。カポーティの小説を読んでいたのは教養科目で取った英文学科の講義の課題だったからで、本分ではない。楽器はコントラバス。シマンドルのエチュードを何曲かハミングにして耳元で聞かせてくれた。知っている曲もあったし知らない曲もあった。どちらかというと知らない曲の方が多かった。そんなことより耳がくすぐったかった。
「ねぇ、高校にはどんな友達がいるの?」
と彼女が訊いたので僕は海部のことを話題にした。といっても人物については根暗でお節介だという紹介しかしていない。メインは魔女の話だ。
海部は一年生の九月から月に一二回、生徒会が全校に配る機関紙『緑蔦』で「魔女を辿って」という連載をやっている。一回八百字くらいの短いもので、文章は下手だけど内容が面白いのでそこそこの評判を得ていた。ルーマニアにあるという魔女社会の歴史とか伝統とか、魔女個人の能力とかそれによる職業分類とか、そういった話だ。
話はルーマニアの魔女制度から始まる。国が公式に魔女を認めて資格や営業に関する法律を定めているのである。魔女は客を取って将来の占いをしたり幸運のまじないをかけたりする。海部曰く、彼女たちは広義の魔女の中でも魔力の放出よりは感受に優れていて、人の心を察したり、未来を透視したりすることに長けている。こうした職業に就く魔女は比較的年長者であり、若くても三十歳を下回らない。これには魔女の一生におけるいくつかのステージが関係している。
幼い魔女は分別のつく年頃になると、大抵十歳か十一歳で、算術や音楽を習うのと同じように、まず親や指導役から力の制御の仕方を習う。教える方から具合を見るためにこの時使うのは全て目に見える魔法で、特に浮遊に関するものが多い。手を使わずにリンゴをかじったり浮かべた箒で逆上がりをやったりする。浮遊を最初に覚えるのはそれが明確な対象を持っていてモノの形や重さを知ることに適しているからだ。若い魔女はそうして身の回りのものを操る力を育てていく。そしていつかは多くの魔女が、普通の女性が閉経するように、あるところでぱったり外界に対する魔法を使うことに適さなくなる。魔力の対流が外に向って開かなくなる。内側にぐるぐると籠るようになる。すると自然に感受性のようなものが高まって、能力が失われたことで精神的不安定に陥った一時期のあと、急に自分の体に納得して我が強くなる。それまで外に向って働きかけていた力を自分を支えることに使えるようになるからだ。それは厚かましさとは違う。きちんと理論の通った凛とした自信なのだ。そういう時期になると大抵の魔女は結婚する。稀に小さい時から占術師向きの、つまり力があるのにもかかわらず先天的にモノを扱うことが不得手な魔女がいるけれど、そういった魔女は将来的な魔女頭として教育される。占術も素質だけじゃないから、早くから伸ばせば、その分伸び代も大きい。
これでだいたい連載の半年分になる。いわば第一章が完結して、その回、第十一回の後半から海部は少し雰囲気の違う話を始めた。
魔女の力は実はひとつの能力に帰結する。浮遊も、炎を操る能力も、巷では、そして現に魔女たち本人すら魔力と呼んでいるけれど、その実態は自己変化機能なのだ。つまり、炎を現したい時に必要なのは炎を現すための作法や技術ではない。炎を現せる自分に変身することなのだ。より大きな力を手にするには、魔女としての素質と豊かで具体的な想像力、そしてその二つに裏付けられた自信が欠かせない。内的なコンディションを操作する点では気功やヨガに通じるけれど、魔女の力はそこからさらに外界へ出力するものである。ある意味でそれは自らの運命に干渉することでもある。例えば、一般に魔女が美しいとされるのは、もちろん彼女が美しくありたいと祈ればだけど、魔女が自分自身を魅するからである。しかしそれはあまり作為的な魔法ではない。彼女が毎日鏡を見る時にもう少し鼻が高ければなあ、と思っているうちにそれが積もって効果が出てきてしまうのである。そんな力は魔女ではない女性たち(と一部男性たち)にとってこの上なく羨ましいことかもしれない。実際そうだろう。だけど決していいことばかりとは限らない。例えば、ある愚かな魔女は自分を変え続けたあまり、もともと自分がどんな人間だったか思い出せなくなってしまった。誰も彼女のことを覚えていなかった。かつての彼女は誰からも忘れ去られてしまった。幸いにも彼女はほとんど完全無欠でどこへ行ってもちやほやされたけれど、それは現実味がなくまた面白みに欠ける人間であるということでもあった。彼女は元の姿に戻ることを本気で願った。しかし魔法は彼女の記憶に働きかけるだけで、それ自体が過去を保存しているわけではなかった。
深理さんは海部の魔女物語を面白そうに聞いていた。僕は彼女の顔を見ながら「美しい」と言うのがなんだかとても恥ずかしかったのでその件は少し赤くなりながら話した。
「その子、ファンタジーが好きなのね」
「さあ、どうでしょう。こういうのはその連載だけですよ。言われてみれば魔女の話だって人に話しているのは聞いたことがないし」
確かに海部と連載の話をしたことはほとんどなかった。もともと挨拶以外には僕から話しかけることもないし、海部が話を振ったのも一度きり、僕が『緑蔦』を読んでいる時に机の横を通りかかって、「面白いか?」と訊いた。「うん。文章は安っぽいけど」と僕が答えると、「そうか」と一言それだけだった。
「案外恥ずかしいのかもしれないわね」と深理さん。
「それとも何かあるのかな」
「何か?」深理さんは首を傾げる。
鏡写しみたいに僕も首を傾げる。心当たりがなかった。
綾瀬で降りて駅の北口から八潮方面行のバスに乗る。後ろのタイヤの上くらいの二人掛けの席に深理さんを奥にして座った。僕はずいぶん気を遣って肘掛けの方に体を寄せていたし、たぶん彼女の方もきちんと壁に寄っていたのだろうけど、それでも僕の腰骨に彼女の柔らかい太腿が当たっていて、僕は始終どきどきしたままだった。




