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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第3章 音楽――あるいは愛について
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狭霧のメール 2010年3月



生命がいかにも気やすく生命に出会い、風のベッドの中にあってさえ花とまじり、一羽の白鳥は他のあらゆる白鳥と知合いの、この同じ世界に棲みながら、ひとり人間だけが、自分の孤独を築きつづけているのである。


 ――「飛行機」(前掲書より)





 狭霧のメール 2010年3月


 観光で母と一緒にドーバーへ行ってきました。対岸のカレーがぼんやりしか見えなかったとか、街中のことはフェイスブックのタイムラインに投稿した通りです。「いいね」をどうもありがとう。

 ホワイトクリフの丘の続きに高い鉄塔があって、発電風車のような立地ながら実際はアンテナなのです。もはや使用にないレーダー。七十年前はそれがブリテン島の海岸線に沿ってガードレールの支柱みたいに立っていたのね。

(上から下まで鉄骨組みだけど、レーダーってお皿みたいのじゃないの?)

 遺跡へ行ったのはエミリア・ハイクスの話に登場したからなの。

 前のメールでお年寄りたちの話を聞く機会ができましたって書いたけど、そのこと。2週に1度「北ワトフォード鳥を観る会」の集まりがあって、お歳はみんなだいたいヒースの2倍くらいある人たちだから、当時の話を体験した人が聞かせてくれるの。興味があるなら来てみたらいいってヒースが取り持ってくれて、それから私も何度か参加しています。私以外に若い人がいないから、みんなこぞって私に話したがるります。時々お孫さんを連れてくる人はいるのだけど、ほとんどの場合彼らは第二次世界大戦と百年戦争の区別もついていなさそうな年齢の子供たちなのです。だから私はとても長い時間お年寄りたちの話を聞いています。全員が揃うまでの空き時間や、休憩中に水筒のお茶を飲みながら、あるいは解散後に食事に誘われて。そのうち北ワトフォードで一番の聞き名人になってしまいそうです。

 さて、エミリアの話。

 エミリアの家はドーバーの街の外れにあって、何しろドーバーはユーロスターのトンネルを掘れるくらい大陸に近いでしょう? 当然ブリッツの前後は激戦空域だったから、港の方の空に真っ白な阻塞気球がたくさん浮かんでいて、時には空で戦っている時の絡まった糸みたいな飛行機雲も見えた。

 内陸を目指して丘の陰に沈むほど低く飛んでくるドイツ機もいた。黒い影が草原の起伏に沿ってうねうねと上下に跳ねながらものすごい速さで走っていくのだった。農家が外に出ていても爆撃機は彼らを狙ったりなんかしないで、ガラスの中に顔が見えるほど近くを悠々と飛んでいった。銃座の飛行兵は上から襲われた時のために銃口を上げて、ほとんどん場合は地上の人間には気付かないか、気付いても一瞥するだけだった。たまに軽く手を振ったり挨拶じみた仕草をしていく陽気な兵士もいたけど、返事をする気にはなれなかった。だって、どうしろというのだろう。愛想良くしたら爆撃を応援しているみたいだし、かといって首切りみたいな手振りもできなかった。別に彼らに死んでほしいわけでもなかったからだ。

 まだドイツ空軍の爆撃が激化する前の、つまり低空を飛ぶ爆撃機もまだ現れていなかった頃の、ある曇天の日、アンテナの上空に1機のドイツ機が旋回しているのを見かけた。建物に上昇気流を貰って遊弋する鳶のように見えた。以前にもドイツ軍の飛行機を見かけたことはあったけれど、1機か2機、あまりに高く飛んでいるので飛行機そのものは真っ青な空に浮かぶ胡麻粒くらいにしか見えなくて、高射砲を撃ち上げて破裂した時の黒い煙で敵がいるのだとわかるくらいのものだった。だから胴体に描かれた国籍の十字マークがきちんと見えたのは初めてだ。色はイギリス空軍より暗い茶色と緑のぱっとしない迷彩で、プロペラの音も妙に低く震えていて緊張を誘った。Bf110という双発の飛行機だった。空軍情報部の士官だった父の引き出しから弟のジャスパーが「軍用機の見分け方チャート」を盗んできて、飛んでいるものを片っ端から言い当ててしまうのだ。

 そこに4機のブレニム――これもジャスパー曰く――が雲の中から飛んできた。トリコロールの国籍マークが鮮やかなイギリス機だ。双発なので単発のスピットファイアやハリケーンに比べると動きが鈍いけど、数の力がある。ドイツ機の方はそれに気づいて海峡へ逃げようとする。けれど上から来た方が速度が乗っているわけで、真後ろに食いつかれないためには複雑に飛ぶしかない。結局ぐるぐると回りながらお互いを追い回す。無勢のドイツ機は包囲の輪が開いている内陸の方へ追い込まれる。途中で雲の上から同じ型のドイツ機が突っ込んできて機首を上げながら次々とブレニムに射撃を浴びせたけれど、閃光と破片が飛び散っただけだった。流れ弾が地面に突き刺さって雑草がくっついたままの土くれを巻き上げた。しかもその時には既に最初の一機が仕留められていた。味方が煙を吐いたのを見て後続の一機は旋回せずに低空のまま南に飛び去った。一旦空戦に入ってエネルギーを失ってしまったブレニムではこれには追いつけない。逃げた。

 ドイツ機の最初の一機は黒い煙を引きながら地面すれすれに下りてきて、水平姿勢を保ったまま速度を落として接地、不時着した。そこは春小麦の畑で、種蒔き前の田起こしを終えたふかふかの状態だった。プロペラは最初の衝撃で折れ曲がって回転を止め、胴体の鼻先は盛り上がった柔らかい土の中に半分埋まりかけ、ふたつに分かれた尾翼のかたっぽが千切れてちょっと先の畦岸まで飛んで突き刺さった。

 ブレニムの群れは上空で蜂のように飛び回りながらその様子を確認した後、編隊を組み直して北西向きに帰っていった。よく見ると翼の縁が欠けたり穴が開いているのもいて、その割普通に飛んでいるので当たり所が良かったらしい。

 空戦の間、方々の家の前や道端で人々が空を見上げていて、彼らは不時着の決着がつくとともに飛行機に向かって駆けつけた。自転車でやってくる人もいた。彼らはちょっと遠巻きに様子を窺ったあと、当面の間は何も危険が、つまり突然またプロペラが回り出したり、エンジンから火が出たり、飛行士が出てきて銃で脅すなんてことがないとわかると、大人は女も男も寄って集って翼の根元に登り、ガラスを開けてまず乗員を中から引っ張り出そうとした。決して袋叩きにしようっていうわけじゃなくて、下では水差しなんかを持った女たちが待っているの。でも銃手はブレニムの銃撃かその破片が当たったのか肩や脇腹から酷く出血して息をしているだけのほとんど死にかけ。座席の周りはドロドロした赤色に染まっていた。操縦士の方がまた上等で、衝撃でどこかにぶつけたのか額を切って片目まで赤く濡れていて、腕を持って担ぎ上げられると、脳震盪か何かのせいで意識がはっきりしないまま、ドイツ語でたぶん「爆発するぞ」とか「機体に触らないでくれ」とか言った。でも燃えてはいないものだから、子供が寄ってきて持って帰れそうなものがないか物色を始める。できるだけ珍しいもの、それとわかる特徴があるものに高い価値があるということになる。でもガキンチョのするままにもしておけないから、そのうち軍のフォードソンのトラックが走ってきて現場を押さえ始めた。それまでに飛行士たちは道の横に移されて、いわば住民たちの「監視」の下で水を飲んだり止血の手当を受けたりしていた。飛行機の周りでは子供たちは親が手隙になったものだからみんな飛行機から引っ剥がされ、漏れ出してくる油が土に広がるのをなんとか止められないかと農家の男たちがシャベルを立てたりバケツを置いたりして難儀していた。

 畦から見ていると、でも、それは、特に子供たちによる略奪などは一種の蹂躙に違いなかった。人間が助かるに越したことはなくても、いっそ燃えてしまった方がそのBf110にとっては尊厳を守ることになったのかもしれない。明確な目的のためにこの世に生み出されたという点で、戦争よりもっとすべきことがある人間とは違うのだ。回収されてイギリス軍の検分に供されるより、博物館で眠るより、スクラップになるより、戦って消滅することを選びたかっただろう。


昔話のシーンこそカラフルに描こう

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