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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第2章 踊り――あるいは居場所について
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本を読む女の絵

 僕は年末年始一週間ほど神奈川の家に滞在して千住の部屋に戻った。暗い部屋の空気は隅から隅までしんとしてまるで長い間生き物に立ち入られたことのない深海のようだった。

 年明けの学校、放課後の美術室の空気は冷たく乾燥して、蛇口も、そこから流れ落ちる水も氷のようだった。ストーブの上に鍋をかけて加湿しながら、僕と角南さんが教室の南側の隅にそれぞれ陣取って自分の絵に手を入れていた。といっても角南さんがイーゼルを立てているのに対して僕はカルトンに画用紙を貼っているだけだった。

 池辺が入ってきた。いつものパターンなら道具を取りに来ただけで作業はしていかないのだけど、この日は様子が違っていた。

「あれ、角南さんがいる」と池辺は一歩踏み出して傾いた体勢のまま立ち止まった。

 角南さんは絵筆を持った手を上げて挨拶を返す。

 活動が活動だから展覧会でもなければ三人揃うことはまずない。珍しい状況だった。さらに三人が一時に揃ってそれぞれ自分の仕事に没頭しているなんてことになると、年に二三度あるかどうかだ。

「受験の結果出たんすか」と池辺が角南さんに訊く。

「結果はまだわからないよ」と角南さんはゆっくり答える。「まだ二週間くらい待たないと出ないの。必要な試験は全部受けて、あとは結果を待つだけで、今は時間があるから、最後に一枚くらいここで描いておこうと思って描いているんだ」

「晴れて自由の身ってやつですね」

「釈放、釈放。でも、学校の推薦貰えたから、私は絵を描いていればよくて、苦手な科目も無理に勉強しなくて済んだし、そんなにがちがちに囚人でもなかったよ。試験何科目って人たちに比べたらかなり楽をしたんじゃないかな。もし美術系の受験を考えてるなら、二人も自分の作った作品はきちんとアルバムにしておいた方があとで役立つかもしれないよ」

 池辺は角南さんのゆっくりした話を聞きながら入口に近い作業台の隅に荷物を下ろす。

「あれ、池辺今日は時間あるの?」と僕。

「うん。塾まで暇だしさ、時間潰そうと思って。先生居る?」

「いない。荒巻先生は会議で尾上先生はバド部」

「へえ、じゃあ三人だけか。角南さんの絵、見てもいいっすか」

「こんなの、見せなくたって見えるよ。隠しようがないじゃない」とは言いつつ角南さんは椅子を絵の正面からずらして横向きに座り直す。

 僕も体をほぐすついでに立ち上がった。角南さんの油絵は外の非常階段から見た街並みの俯瞰を描いたもので、バロックと印象派をかけ合わせたような作風だった。夕方なのか全体的に赤黒く、かなりの勢いを持った筆の跡がくっきりと残り、所々絵具も延ばされずに固まっていて、家屋や塔の輪郭は色彩のグラデーションによって曖昧になり、かといってデッサンが崩れているわけでもない。遠くから見るととても緻密な絵に見える。

「池辺さんは今何を描いてるの?」角南さんは筆を休める間にいくつかチューブを絞ってパレットに絵の具を足す。ナイフで軽く混ぜる。

「新歓冊子に載せる広告を」

「今年は池辺さんが描くんだ」

「いや、今年はコンペにしようと思ってるんすよ」

「ミシロさんと?」

「僕はもう描いたよ」と僕。

「え、見せて」池辺。

「別にいいけど、自分の描きにくくなるんじゃない?」

「どうして?」

「思わないなら構わないけどさ」僕は拳銃を向けられたみたいに手を上げる。指と爪に絵の具がついている。「これ。鞄に入ってるから取ってよ」

「コンペっていい考えだね」と唐突に角南さん。

「角南さんも参加します?」

「一年の時はちょっと描きたかったけど、先輩の仕事だったし、去年は私しかいなくて、私の仕事だったのに、時間もアイデアもなくてちょっと投げやりでね――」

「どこ?」池辺が僕の鞄を漁りながら訊く。角南さんの話の間に僕の作業台へ行っていた。

「青いファイル」僕は角南さんの絵の正面少し遠くで流しの縁に腰掛けている。尻が冷たい。

「参加は、うーん、いいのを思いついたら、いいかもね」

「締切って二月の頭だったよね」池辺。

「最終が九日の四時」僕。

「なのでそれまでに描いてくれれば」

「誰が審査するの?」角南さん。

「先生に頼みます。どっちか、その時居る方に」僕。

「そっか。荒巻先生と尾上先生、結構趣味が違うんだよなあ」

「そん時の運すね」と池辺は僕のファイルを開いて「二枚描いたの?」と驚く。

 僕はまず女性の立像を少し左に寄せたすっきりしたのを描いて、それから手島模型の影響が明らかなメカニックっぽいラフを描いたのだ。

 池辺はファイルだけ鞄に戻して角南さんのところへ僕の絵を持っていく。両手で目の高さに掲げる。

 角南さんはそれを交互に見て、「らしい」とただ一言評価を下した。

「メカっぽいのこんだけ描けるのってすごいよね。機械描くのって難しくない?」と池辺。

「そうかな」僕。

「輪郭や角がはっきりしているから、パースの歪みが目立ちやすいんだよ。そうだね、確かに難しいと思うよ」と角南さん。「ミシロさんの絵はなんだか美術然としていないな」

「どういうことです?」

「なんて言うのかな。静物とか、石膏像とか、あまり描かないでしょう?」

「デッサンがまずい?」

「そうじゃなくて、世間一般には在りうるモチーフなんだけど、展覧会で見るとミシロさんの絵はすごく異質な感じがして。うーん、なんだろう、上手く言えない」

「ねえ、何で仮入部のままにしてるわけ?」と池辺。

「ああ、うん。そういうことなのかもしれない。ミシロさんは私たちの中でも、この部活で、一番生産的じゃない? デッサン、水彩、アクリル、彫刻、色々やってその度先生によく教えてもらっているのを見て、この人はとても熱心な人だなって思っていて、それは、つまり、とても実質的なの」

「実質的って、肩書に甘んじていないってことですか」僕は言った。

「まあ、そうかな」

「うわ、それ刺さるわ。私へのバッシングじゃないですか」池辺。

「そうなの?」角南さんはなぜか僕に質問を振る。

「僕は別に」いささか困り果てながら答える。「バレー部の練習があるんだし、空いた時間のために所属しているなら、それも一つの在り方じゃないかな。尾上先生だって顧問の掛け持ちで今日みたいにいない日が少なくないし、部員揃って何かする部活でもないし」

「ほんと?」

「君があまり来ないことに関して僕は本当に気にしていない。もし僕が部員でも意見は変わらないと思うよ」

「そう言っていただけると救われます」池辺は妙に畏まる。

 角南さんは楽しそうに絵具を練っている。

「ところでさ、『緑蔦』の題字のとこってミシロが描いてるんだって?」と池辺。『緑蔦』というのは生徒会誌のことだ。

「海部に頼まれたんだよ」僕は答える。

「何の縁?」

「最初に話したからじゃないかな。同じクラスだから」

「ああ、そうか。同じクラスか。どうなの、やっぱりハンサムなの?」

「うん、どうかな。ハンサムってほど色気のある人間じゃないな」

「色気って?」

「僕は他人の陰口は言わないよ」

「へぇ、今ミシロの頭の中にあるのは悪口なんだ」

「まあね。裁判沙汰になりかねないくらいの悪口なんだ」ジョークだ。

「気になるなあ」

「いや、そこまで言うのはジョークだけどさ、実際、人といることに慣れ過ぎてるんだよ。みんな彼のことを見かけると近寄って挨拶せずにはいられないみたいな感じなんだな。それで、時々一人になりそうなことがあると、購買でも生徒会室でも、誰かを引っ連れてかなきゃ落ち着かないのか、僕は結構迷惑してるんだ」

「特別頼られてるってことじゃないの?」

「違うね。他に用のある人間がいれば僕は放っておかれるんだから、僕が大抵一人でいるのが都合いいってだけだろう」僕は話を変える。「でも、まあ、いつもいつも用もなく連れ回されてるってわけじゃないんだ。実は生徒会の広告も頼まれてさ、海部は広報だから」

「それももう考えたの?」

「うん。同じファイルのはずだけど、見なかった?」

「いや」池辺は再び僕の鞄のところへ行ってファイルを開ける。「ああ、あったあった。全く仕事が速いね」

 そっちの絵は、窓を中心に、その窓枠に片足を上げて座る少女と会室の散らかりっぷりをモチーフにしたものだった。別に商業で描いているわけじゃない。上手く描けていれば団体のイメージダウンになる内容でもお咎めなしだった。

「これは会室でスケッチをしたの?」と角南さん。

「いいえ。入ったことはあるけど」

「窓枠の傷とか、壁に貼ってあるものとか、机の上のものとか、よく憶えているね」

「不正確ですよ」

「それでも想像で描けるんだから。やっぱり変わってるね」

「変わってる」と僕。

「別に嫌な意味じゃなくて……」


 そのあと僕は美術部の広告のための絵をもう少し仕上げたけれど、池辺がぐずぐずしているうちに角南さんが描いてきた。フラゴナールの『本を読む女』のようなメイン、四辺に細い縁を切ってその左上と右下を膨らませて石膏像の姿にした豪華で均整な絵だった。両手をモチーフに様々な美術道具を鏤めた池辺の絵が上がったところで荒巻先生に持っていったが、結局角南さんのが採用されることになった。残念だけど実力が違う。角南さんの絵の方が美術部の格にも箔がつくだろう。

 角南さんのせいで少し気になって調べてみると、本を読む女というモチーフは結構人気があるようだ。フローレンス・フラー、ピーダ・イルステズ、カール・ホルスーウ……。僕は電車の扉に寄りかかって本を読んでいる狭霧を想像する。画家の心を魅了するものはたぶんそこにある開かれた宇宙の存在なのだろう。彼女が何に没入しているのか僕の目には見えない。しかし没入しているが故にその宇宙は無防備になる。僕は彼女の仕草を観察している内にそこへ入り込むことが可能であるかのように思ってしまう。

 僕は自分の絵を作業部屋の壁にマスキングテープで貼って改めて眺める。人物を描き入れた二枚を見比べる。そういえば二人とも僕のメカ絵は褒めたけれど人物の絵は褒めなかった。僕は彼女たちの内面まで描くことができるのだろうか。しかし内面を内面として写実的に描くことはできない。体や表情を介さなければならない。それは結局、人間のカタチを知るということでもあったのだ。

 この頃から僕は人物モチーフの絵もわりあい多く描くようになっていった。かといって手島模型の絵を減らしたりしたわけではないから、絵を描く総量もまた増えていったということになる。

ここが第2章と第3章の切れ目です。

章立てとしてはこれで半分なのですが、分量的には1/3くらい……。

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