こまごまとしたレゾンデートル
僕は木戸の間に目を向けて木の枝の巣箱を眺めた。ヘビが入ったせいで小鳥が出ていったという巣箱だ。まだ若い細いアオダイショウが枝を渡ってぬるぬると巣箱に入り、自分のしっぽとすれ違うようにして頭を出すシーンを思い浮かべた。若いアオダイショウは全然心当たりがないみたいな顔をしてしきりに舌をぺろぺろさせていた。
「旅行というかドライブに行く時って、いつも絹江さん一人ですか」僕は訊いた。
「そうね。そういえば、そう。誰かと一緒に行ったことってないわね。たぶん、そういうのは社員旅行で十分だと感じているのよね。年に一度、バスと旅館を貸し切りにして大勢でどこかへ行くのよ。でもバスだからほとんど首都圏の周りよね。あまり遠出はしない。今年は浜名湖だったけど、それでも遠い方。会社の人とは食事になんか行くことはあっても、旅行へ行こうなんて話にはならない。私が誘わないのはいいとしても、なんでかな。休みの日をそれで潰そうって、きっと思えないんでしょうね。私みたいに家で浮いている人間ばかりではないのよ」絹江さんはカップの取っ手を親指の腹で撫でながら話した。伏せていた目を上げる。「もしかしてあなたも一緒に行きたい?」
「ど、どうでしょう」僕はアカハラみたいにおどおどした。
「冗談よ。でもあなただったら連れて行っても悪くないかもしれないわね」
僕は何とも言えずにコーヒーを飲んだ。ブラックだけど少し甘みのあるコーヒーだった。
「前にここで話した時、この家の女性は一人きりで対処しなければならない問題を先天的に抱えている、内向的な感覚を持っている、という話をしてくれましたよね」僕は言った。
「よく憶えているわね」絹江さんは少し驚いた。
「忘れられませんよ」
「何かそれに関わる話?」
「絹江さんも一人の生活を続けている」
「うん」
短く沈黙。
「絹江さんはそれを選んだんですか。それとも選ばざるを得なかったんですか」
絹江さんは庭の方へ顔を向けてまるでタバコの煙を吹き出すみたいに息を吐いた。
「選んだともいえるし、選ばざるを得なかったともいえる」
「さだめのようなものですか」
「さだめ、ね」
「はい」
「一人の生活、というのはどういう意味なのかしら」
「結婚していない。一人暮らしをしている」
「でも他人との接触を遮断しているわけではない。仕事でも、旅行先でも、とてもたくさんの人たちと話をする。それはきっと家では一人で居る、という意味よね」
「おそらく」
「なぜ私はそれを選び、選ばざるを得なかったのか」絹江さんは自分自身に問いかけるように言った。それからまたしばらく沈黙があった。「それはたぶん、存在意味のせいよ」
「存在意味?」
「自分がなぜ生きているのか。何のために生きるのか。あるいは、いや、そんなものは何でもない、人生というのは長い暇潰しに過ぎないんだ、そういう考え方ができればよかったんでしょうね。実際、それが真実なのかもしれない。生き物として正しいのかもしれない。でも私にはできなかった」
「内向的な感覚がそうさせた」
「そうね」
「存在意味を守るためには一人でいる必要がある、と?」
「必要なのかどうかはわからない。ただ私にはその手段が合っているのよ。合うって、わかるわよね。万人にとって私の方法がいい、適しているなんてことは言えない。人によっては私の方法を変だと思うでしょう。でも私にとってはそれがいいのよ。ねえ、こういう経験ってないかしら。波打った床の上で椅子ががたつきなく収まる場所を探すの。がたがたやりながらあちこち移動して、ようやく見つけてそこで落ち着くでしょう。もちろん椅子が安定するのはその場所だけじゃないかもしれない。もっといい場所があるかもしれない。でもそこへ辿り着くためにまた長い間椅子をがたがたやりながら移動する気力まではさすがに起きないのよ。それならもう、この辺りでいいって」絹江さんはテーブルの上に伏せた掌をひらひら動かしながら説明した。
「わかります。もう十分な居心地を確保しているなら、完全な安定にこだわる必要はない」
「そう」
絹江さんはコーヒーを一口飲む。カップを置いて少し左右に揺らす。カップの底にがたつきはない。安定している。
「なぜこんなことを他人に話そうと思えるのか私にもわからないのだけど、あなたになら話してもいいような感じがしているの。なぜか引っ掛からない。不思議ね。そういう話。構わない?」
僕はしっかりと頷く。
「もう何十年も昔、私は自分の存在意味を誰か一人の他者に求める危うさに気づいた。そしてそれに耐えられなくなってしまった」
「きっかけがあった」
絹江さんは頷く。「私が今のあなたよりいくつか歳上だった頃、私は一人の人をひどく愛していたのよ」
「ひどく」と僕。
その一語は十分すぎるほどその愛の歪みを示唆していた。
「はじめのうちはとても素晴らしい甘美な気分だったわ。私はそれまで本気で誰かを好きになったことがなかったのよ。人を愛するというのがこんなに嬉しく、人生を明るくしてくれるものなんだと、そう感じた。私と彼は同じ大学にいて、一緒にご飯を食べたり、近くでデートをしたり、そして夜は私のアパートへ来て、一晩声を殺してセックスをした。そういった仲だったわ。平気?」
「はい」
「素晴らしく、気持ちがよかった、というのはそういう意味。エクスタシーよ。本当に、とてもよかったの。私は彼のことが好きだったし、私の人生も、肉体も、血までも、彼にあげてしまいたい、彼のものにしてしまってほしい、そんなふうに思うようになった。捧げたい、と。そして望んだとおりの未来が訪れるに違いないと信じて疑わなかった。まともな愛ではなかったわね。でも当時の私にはそれがわからなかった。愚かな女だったわ」
絹江さんはそこで溜息を一つ吐き出した。何か一つ厄介な仕事を終えた時の区切りような感じだった。どうやらその過去は彼女の中でもうしっかりと整理がついているものらしい。語る彼女の様子に感情の変化はほとんど表れていなかった。
「案の定彼は私の愛を受け入れなかった。嫌いなわけじゃなかったわ。彼も私のことを好きだったのだと思う。でもきっとどこか後ろ暗い感じがして、あるところから踏み込めなくなってしまったのね。まるで地雷原の看板を見つけたみたいに。そして彼は私ではない別の女の子を愛するようになった。もっとまともな愛を備えた誰かを。彼女が人間として、性格的にまともだったかどうかはわからない。ただ愛の構造だけはきちんとまともだったのだと思うわね。彼はきっぱり言ったわ。僕と君との関係を終わりにしようって。そして私のどこが歪んでいるのかをきちんと教えてくれたわ。残酷すぎるほどきちんとね。彼、とてもきちんとした性格だったのよ。最後まできちんとした男だった。だから私は彼との間の関係をどろどろに腐らせることなく綺麗に諦めることができたのだと思う。関係だけは、綺麗に。
私という人間は、けれど、とても落ち込んだわね。目も耳も利かない、手足も動かない、本当にそんな感じがするくらい外界に対する感覚を失ってしまったの。自分の中で考えていたこと以外の記憶が全くないのよ。ある期間、おそらく数か月、まったく世界についての記憶がないという記憶だけがはっきり残っているの。妙なものよね。私はその時、まるで谷底にある深い井戸の底に落ち込んでしまって、地上にある街の営みや時間の流れから一人だけ取り残されたような感覚を抱いていた。そこで彼との最後の記憶を何度も何度も思い返して頭の中で再生していたのよ。そうしてだんだん自分の存在意味を彼に依存していたことに気づいていったの。私の人生は彼のための人生であり、私の肉体も、心もまた、彼のための肉体であり、彼のための心だった。彼との関係を失った私は何もかも空っぽになっていた。そこに私自身のためのものはほとんど何も残っていなかった。九十九パーセントまで空白の円グラフを想像してみて。私はその空白を埋めるための何物も持ち合わせてはいなかった。何のために生きればいいのか、自分が何をしたいのか、それすらわからなかった。存在意味を失うというのはそういうことよ」
「残りの一パーセントから立ち直ったということですか」
「たとえ話よ。一パーも残っていたのかわからない。そのどん底の期間、私が生き残ったのは、ただ、死に向かう気力すら起きなかったからに過ぎない。死ぬのってきっと気力も体力も半端では決められないもの。ただ、立ち直ったのは確かね。その兆しになったのはアパートの契約更新だった。少し家賃が高くなるというから、じゃあ引っ越しを考えようって。それだって別に積極的な理由ではなくて、それまでの部屋には、彼の匂いや、記憶や、そういった関係がまだ残っているでしょう。完全に断ち切らなければだめだって、そう思っていたからよ。それまで私はろくに食べることも飲むこともしていなくて、けれど片付けや箱詰めなんかしたら動くから空腹を感じるのよ。そうして外へ出て、ものを食べて、まともに考える頭が戻ってきて、まずは現実的な問題から処理をして、そのうち、誰か一人との深い関係の中に生きようとするのはとても危ないこと、苦しいことなんだと気づいた。自分の空間と外の世界とをきちんと分けて、自分の空間の中で自分の存在の安定を頻繁に確かめるようになったのよ。自分が何をしたいか、何のために生きるか、というのは依然外の世界に求めていた。できるだけ多くのものに対して、少量ずつ求めるようになった。そういうのって、あえて自分から求めなくても、誰かが与えてくれたりするものでしょう。でもそれを自分の空間の中に持ち込むのはやめたの。私が一人暮らしなのは、だからでしょうね。旅行が好きなのも、きっと同じ理由。他人が私自身の空間の中にいると、私の存在意味の中にその人の存在が入り込んできてしまうような気がするの。その人の存在が占める割合が大きくなってしまうような気がするの。それが怖いのよ。だから、今の私の存在理由が何なのかと訊かれても、簡潔に答えるのは難しいわ。こまごまとした項目をたくさん上げなければならない。ドライブが楽しいから、小鳥がかわいいから、あなたの話が面白いから、狭霧のことが気になるから。エトセトラ」
「人生に大きな意味や目的を定めるのは危ないことだと」
「私はそう思った、そういう経験をしてリスクが大きすぎると思うようになった、というだけのことよ。そんな教訓みたいな言い方をすることはない。だけど、前にあなたに言った、『広く浅く付き合い、自分の場所を守りなさい』というのは確かに私自身の経験から出た言葉でしょうね」
外で鳥が鳴く。窓越しの籠もった音。アカハラではない。ヒヨドリだろう。
「絹江さんが愛していたのって、狭霧の父親ですか」僕は訊いた。
「私、そんなこと言った?」絹江さんはまるで質問の内容を知っていたみたいに何食わぬ調子で訊き返した。
「いいえ。言ってないと思う」
「じゃあ、なぜそんなふうに思ったのかしら?」
「なんとなく」
「なんとなく、ね。でも、だとしたら私は狭霧や妹、この家に対してなんだかとても複雑な感情を抱かなければならなくなりそうだわ」
僕は何も言えなかった。実際絹江さんが狭霧やこの家に対してい抱いている感情はとても複雑そうに感じられたからだ。
「ところであなたはどうして私の話を聞きたくなったのかしら」
「どうしてだろう……」僕は記憶を探った「家で一人でいる時に、何をしていいかわからない時間っていうのが時々やってくるんです。趣味で絵を描いたりしてもいいんですけど、その時はそれもやる気が出なくてだめなんです。何をする気も起きないけど、何をしていいかわからない」
「なるほど」
「絹江さんにもそういう時間があるのかなと思ったんです」
「あるわね。割と頻繁にある。なにしろいま話した通りの私だもの。そういう時は、私だったら、窓から外を見るか、寝起きでもなければ、横になって昼寝をしてみるわね。そのうちいい考えが浮かぶか、何かしなければいけないことの時刻になってくるもの。それか、お茶でも、コーヒーでも、何か作って飲むのもいいわね」絹江さんはそう言ってまた一口コーヒーを飲み、別所土産のおまんじゅうをひとつ包みから取り出した。




