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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第2章 踊り――あるいは居場所について
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冬の話

 どうにも僕は冬の朝を好きになれずにいる。冬は好きだ。冬そのものは。毛布はずっと包まっていたくなるくらい気持ちがいいし、空気はさらさらと澄んでいて、寒さは服をたくさん重ね着すれば凌げるし、蚊や蠅は死んでいるか鈍っている。けれど日の出が遅いのだけは困りものなのだ。夏場なら五時前にはもう明るいのに、六時半を過ぎなければ窓に光が差さない。明るさで目を覚ますということは、裏返せば、暗いうちは本当に深い眠りの中に居るのであって、いくら早く目覚ましを設定したって聞こえない時は聞こえない。だから冬はとにかく布団から脱出するのが遅くなる。目が覚めて、時計を見て、朝食を抜くか、それとも諦めて遅れていくのか、選択を強いられる。

 人々はマフラーを高く巻いてポケットに袖口まで差し込み、電車の窓は息に真っ白く曇って、たまさか景色の見える日には川面に霧が張っている。ブドウ棚は葉が落ちて空が透け、本を開けば数分で指先が凍える。スズメたちは羽を膨らせて団子のように丸くなる。冬の生き物は、毛か、脂肪か、衣服か、とにかく丸くなる。冬の方が細い動物っているだろうか。

 教室に入ってガスの元栓を開きストーブに着火する。授業はぼんやりと生暖かく、廊下は氷室、休み時間の女子は膝掛けを腰巻にしてそのまま出歩き、教室ではスルメを焼く。それが平日。

 休日は長い夜をじっくり堪能できるので気持ちがいい。目が覚めるとわずかに天井が明るく、そのまま三十分も布団を被って暖まっているうちに起き上がるべき明るさになる。


 十二月の終わり、いつもと天井の形が違っていた。窓の位置も、布団の匂いも、毛布の柔らかさも違う。ドアの向こうでは母がごみ袋を持って歩き回っている。母。家に帰っているのだ。家。実家という表現にはまだ馴染めずにいる。神奈川の家、とでも言おうか。朝から他の人間の気配を感じるのはあまりに久しぶりだった。北千住の部屋には水道管の気配か幽霊の気配しかない。後者は完全に僕の神経のせいだ。

 トースターのベル、コーヒーの匂い。朝食を出してもらうのも久しぶりだった。せいぜい箸と塩胡椒を取りに行くくらいで、あとは座っていていいのだ。ほぼ一年前まで使っていたお椀とコップが手に馴染まない。

 父はまだ部屋にいる。卵が焼き上がったところで呼び出して三人で食べる。テレビが点いている。テレビ台の上に四つ揃いの新しい鳥のぬいぐるみがある。

 顔を洗い、髪を整え、部屋に戻って着替える。オレンジのトレーナーとオリーブのカーゴパンツ。服はサイズはともかく、趣味が合わなくなっている。椅子に座って机の上のマグカップに並んだ文房具をひとつずつ確認する。懐かしい。部屋の中はほとんど変わっていないけれど、ここはもう僕の場所ではない。

 近所の変化を調べてくる、と言って散歩に出る。玄関先に植わっている尖塔のようなルピナス。前はきっと違う花だったのだろうけど、どんな花だったか思い出せない。公園に自転車を集めて柵を越えて裏山に分け入っていく子供、酒屋の店先を短い箒で掃いている老人。ああ、そういえばそうだったな、という景色だ。かつてはよく知っていた景色、でも今の日常からは失われている景色。

 世界よりも僕の方がより大きく変わったということなのだろう。つまり、世界だって変わってないわけじゃない。伸びすぎた生垣を刈ったとか、家の屋根を塗り変えたとか。それが日常だった頃にはきちんと気付いていた変化で、今わからないのは基準になる記憶が遠くにあるからだ。

 「変わった」という感覚は一体何なのだろう? 違っているのに同一のものだとわかるのは変わっていない部分も多いからだ。でも変わっていない部分を見て「変わっていない」とは感じないのだ。

 どうだろう、変わっていないのに同一ではないということもあるのだろうか。

 いつかのメールで訊いたのだけど、狭霧も『銀河ヒッチハイクガイド』を見たことがあるという。話の筋はもちろんここでは明かせないけれど、スペアの地球が出てくる。何もかも、家もお隣さんも元通り。でもそこが腑に落ちない、納得できない、と彼女は言っていた。たとえ全く同一でも、その前に一度破壊されたことは事実なのだから。破壊されたものが再生したのではなく、全く新しいものがそれに取って代わる。破壊されたものはどうなるの? 自分から見て同じなら、連続なら、それでいい、なんて受け止め方は私にはできない。

 そのうち柴谷邸の前に出た。開いた門の中にルーテシアが見えた。帽子を被った絹江さんがしゃがんでアジサイの枝の剪定をしていた。僕に気付くと帽子のつばを少し持ち上げて「やあ」と言った。結構離れているのだが顔が見えたのだろうか。

「入って」絹江さんはそう言うと門のところまで出てきて帽子を取った。前より顔の肌が焼けている気がした。薄いダウンにほとんど色落ちしたデニムスカート。これで三連続デニムスカートだ。しかも全部違うものだった。僕がたまたまデニムスカートの日に絹江さんに会っているだけなのだろうか。それとも彼女はデニムスカート以外のボトムスを持っていないのだろうか。不思議だ。手にピンク色のゴム手袋をしていた。

「でも、通りかかっただけで」僕は本当に通りかかるだけのつもりだったので「入って」と言われて戸惑った。

「そんなによく通りかかるの?」

 絹江さんは訊きながら二歩だけ玄関の方へ下がった。僕も釣られて門の蹴放しへ一歩近づく。

「いえ、あれ以来です」

「それなら折角でしょう」

 また後退り。僕はとうとう敷地に入る。会話が磁場のように働いていた。離れても声が届かないわけではないのに、少し遠いなと感じると間を詰めてしまう。僕の癖なのか、それとも人間の構造なのか。

 家の中はほとんど僕が知っている通りだった。他人の家だから何もかも知っているということはないのだけど、違和感を与えるようなものは何もなかった。壁に新しい絵がかかっているということもなく、家具の配置もそのままだった。強いていえば廊下に置いた折り畳み椅子の上に本が積まれていたことくらいだ。

「整理できればいいのだけど、なんだか自分のものをこの家の収納に仕舞い込むのが憚られるのよね」と絹江さんが僕の視線に答える。「コーヒーは飲める?」

「はい」

 絹江さんは僕を居間に通して台所に入る。

 奥の間の障子は開いていた。仏壇は蝋燭も線香もなく沈黙している。その傍らにダイソンのてらてらした掃除機が立っていて、うちのおばあちゃんはハイテクだと狭霧が言っていたのを思い出した。確かにテレビも薄型で、下にレコーダーが仕舞ってあって、他の家電も押し並べて新しい。もの自体は狭霧が居た頃から替わっていない。でも僕の部屋とは大きな違いだ。テレビはブラウン管だし、電話にディスプレイはない。

 そんなことを考えながら僕は本棚を覗き込んでいる。英語の教材も全部残っていた。上の段は文庫の古いサスペンスと文学、詩歌集。

「そのあたりはほとんど私の母が読んでいたものね。昔からあるわ」絹江さんはお湯が湧くのを待つ間台所から戻ってきて、廊下の柱に抱きつくみたいな恰好で僕の手元を眺めていた。帽子とゴム手袋は外している。

「見てもいいですか」

「うん、お好きに」

 ガラス戸を滑らせて石榑千亦の歌集を取って開く。栞を挟んだページ。

「歌が好き?」絹江さんが訊く。

「特に好きってわけじゃ。ただ気になって」

「私は読まないけれど、それはここに置いといてね。できるだけそのままにしておいた方がいいと思うのよ」

「それは、狭霧がいつかここに戻ってくるかもしれないから、ですか」

「そうね、そういうことだと思うわ」絹江さんはゆっくり頷いた。

 庭で鳥の鳴き声がした。きょっきょ、ひょろろろ。何が鳴いたのだろう。気になったので本を仕舞ってそっと縁側に出る。防寒のために右手の方は木戸が嵌められて、居間の正面だけ二面分の開口が残されていた。そこへ顔を出して垣根の根元を右から左へ見回し、椿の根元に一羽アカハラがいるのを見つける。茶色とオレンジの鮮やかなツグミの仲間で、関東には冬に渡ってくる。人間が自分のことを見ているのに気がついて枝の向こうに隠れて体を低くする。ちょっと心外だけど、僕が大人しくしていれば向こうもリラックスしてまた出てくるだろう。

 家の中と対照的に庭は変わっていた。真ん中に餌台があって、いくつか木の幹に鳥の巣箱が巻き付けられていた。形はどれもサイコロ型。全体がひと抱えくらいの大きさで、親指を突っ込んだら抜けなくなりそうな小さな丸い穴と、庇、止まり木がついている。

 そういえば僕は狭霧の家の冬を今まで知らなかった。木々が葉を落とした庭を見るのは初めてなので余計に目立って見えたのかもしれない。

「庭に巣箱を置くのが夢だったの」絹江さんは僕の横に来て、にっこりしてそう言った。

「自分で作ったんですか」

「板を切って組み立てるだけのものよ。あの木につけた巣箱、シジュウカラが卵を産んで七羽が巣立ったわ」

 僕は絹江さんの指した巣箱をよく見た。庭の右手、ヤマモモの幹の中ほどにくっついている。鳥が使い古した形跡はない。つまり巣材がはみ出しているとか、白い糞が垂れているとか、そんなことはない。他の巣箱と同じくらい雨粒の筋や脂や苔が付いているだけ。

「ああ、あの巣箱の掃除をしようと思っていたのよ。色々他のことですっかり忘れていたわ」絹江さんはちっとも驚いてないような様子で言った。「君が巣箱を見たければ今やってしまおうかしら」

「見てみたい」

 彼女はゴム手袋を腰に詰めて庭に下り、家の裏手に回って腰丈の脚立を持ってきた。僕も手伝った方がいいかと思ってその間に玄関から靴を持ってきて沓脱ぎ石の上に置いた。

「こっちは一人で大丈夫よ。もしあれだったら縁側に新聞を敷いてくれない?」絹江さんは一度立ち止まって言った。脚立をブリーフケースみたいに手提げにしていた。

 古新聞は本棚の横に重ねられていた。全部一面の日付のところが上になって向きも揃っている。崩していいんだろうか。一部でもくしゃくしゃのままになっていればやりやすいのだけど、全部綺麗に畳んであると手をつけにくい。セールの籠に入れられたTシャツと同じだ。週末のチラシが纏まっている層まで掘り返す。大判のチラシなら十分かもしれない。ちょうど分厚いマンション広告があって、広げるとその上でピクニックでもできそうなくらい大きかった。大きいくせにCGばっかりで読み応えのないやつだ。写真ならまだ許せるんだけど。

 絹江さんはヤマモモの木の下に脚立を立てて腰に差していた手袋を両手に嵌め、三段目まで足をかける。デニムスカートが膝に当たってがぼがぼしていた。

 幹はまっすぐで地上二メートルと少し、最初の枝の下に針金が二本巻き付いて巣箱を固定している。絹江さんは両手を伸ばして針金の捩じりを外しにかかる。脚立は安定している。

 アカハラはどこへ行っただろう。ああ、いた。まだ茂みの下だ。サンザシの赤い実を嘴で拾っている。絹江さんのことはあまり気にしていないみたいだ。

「他の巣箱には入らなかったんですね」

「あっちの角にも入った。巣作りはしていたのよ」絹江さんは顔をちょっと左へ向けて言った。「けどヘビが入って、気の早いヘビよね、きっと架けた場所が悪くて、枝を伝って来たんでしょ、にょろっと入って中を一回りして出てきて、それでここは危ないからって捨てて出ていったわ」

 絹江さんは無事に巣箱を外して縁側に持ってくる。一抱えほどの大きさだ。チラシの上に置いて、真鍮製の蝶番で繋がった天面の板を開く。中には褐色に乾いた苔が敷き詰められて、その上に巣穴から入った光が丸い形に落ちている。苔のマットが厚いのか内側はかなり浅い。

 巣箱を逆さまにしてマットを叩き出す。雛の羽毛がぽわぽわ舞う。

「一度使った巣箱は巣材を出して綺麗にしておかないと次の年に絶対使ってもらえないから」と絹江さん。

「一度自分の使ったものなのに?」僕はチラシの横にしゃがんで絹江さんの作業を見学している。

「一度使ったからでしょう。誰かが――それが自分でも、使った形跡があれば避けたい。新鮮な洞でないと」

「巣って消費するものなんだ」

「意外?」

「でもスズメがイワツバメの巣を奪って使うことはありますよね」

「それは、これから使おうとしている巣をよ。去年使ったものじゃなくて、今年新しく作ったものだけ」

「そうなのか」

「そう」

「毎年一から材料を集めて、草の茎とか犬の抜け毛とか……。いつも使っているものだから安心できるって感覚ではないんだ」

 絹江さんは一度サンダルを脱いで風呂場から柄のついたブラシを持ってくる。そこは僕には頼まない。それからまた縁側を下り、ホースに水を通して外で巣箱を水洗いする。内側と外側を軽くブラシでこする。

 苔のマットは結構硬かった。雛が踏み固めたからか。ここに何日も雛が座っていたんだな。そのことにちょっと驚いた。時間を飛び超して雛の足や爪に触れたような気持ちだ。

 ちょっともったいない気持ちになりながらチラシで包む。かなり余った。四分の一の大きさで十分だ。

「巣は鳥の家ではないのよね。ただ雛をそこに置いて育てるために必要なだけで、親鳥がそこで眠ったりするわけではない。もちろん絶対とは言い切れないけど、普通は近くの枝で眠るもの」

「巣と家は違う」

「そう。家というなら巣ではなくて塒よ」

 絹江さんは沓脱ぎ石の端に蓋を開けた巣箱を伏せる。水気が石に浸み込んで黒くなる。ついでにゴム手袋も洗って隣に干し、水を止めて家の中に入る。マットを包んだチラシを台所へ持っていく。

 アカハラが鳴いた。いつの間にか木の上に登っている。水笛のような鳴き声だ。

 縁側にふわふわした丸い羽毛が落ちていた。息を吹きかけて外へ追い出す。細かなチリも一緒に飛んでいく。苔も動物の毛もダンゴムシやミミズが食べて土に返すだろう。考えてみればマットを包んで捨てるのはちょっと勿体ない。シジュウカラが作ったものとはいえ、落ちていたものを組み合わせただけのものだ。その辺に放っておいてもいいものじゃないだろうか。

 でも、たぶん絹江さんは正しいのだろう。そんな気がする。シジュウカラは同じ巣材を二度使いたくない。外に置いたら、次の巣作りまでそのまま残らないとも限らない。きちんと浄化しないまま素材の中に混ぜるのは汚い、というか、行儀が悪い。それなら一度使った巣箱は手をつけずに放っておいて、別のところに新しい巣箱を架けてくれる方が彼らにとってはありがたいのかもしれない。

 絹江さんが菓子折りの紙箱を持ってきて卓の上に開く。

「別所に行ってきたお土産があるの。職場に持っていこうと思っていたんだけど、少し食べない?」

「別所」

「上田の。温泉街としては決して賑やかなところではないわね」絹江さんは台所に戻ってカップに入れたコーヒーを持ってくる。それから僕の右手、台所に近い側に座って足を崩す。

「旅行というよりは、ドライブ」と僕。僕の部屋へ来た時の青森のことを思い出した。

「そう。旅行というよりはドライブ。今度はそれらしいお土産があってよかったわ」

「いただきます」僕はカップを自分の方へ引き寄せて、おまんじゅうの個袋を裏から剥がしていく。

鳥の話は好きだけど飛行機の話は受け付けない、という方がもしいるなら、なぜ自分がそう感じるのかぜひ考えていただきたい。

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