表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第2章 踊り――あるいは居場所について
40/132

手島模型へおいで3

「ごはん、食べましょうか」深理さんは僕にそう言ったあと、おやじさんの肩をゆすった。おやじさんは目を覚まして何度か咳をした。

「お父さん、今のお客さん『銀河ヒッチハイクガイド』を知ってたよ」

「どんな客だった?」おやじさんは両手でぴったり顔面を覆ってごしごしこすりながら訊いた。

「四十くらいの気の弱そうなサラリーマン」

「ラジオ世代じゃないか」

「だからラジオ版を知ってたのよ。あんなに立派に眠ってなければお話できたのに」

「なにを買っていった?」

「イタレリ=タミヤのファルクラム」

「そうか。ああ、うん。じゃあまた来ればだ」

 僕は二人の話の間に鉤を借りて表のシャッタを下ろし、半自動扉の内鍵を閉めてきた。深理さんが「ありがとう。さあ、どうぞ上がって」と言うのでカウンターの中で靴を脱いで居間に入った。六畳ほどの真ん中に小さなテーブルがあり、右手の西側が玄関と台所で、奥に冷蔵庫、手前の壁に食器棚、左手にテレビ台とアンプが寄せられている。おやじさんは現金出納帳と住所録と金庫を持って二階へ上がっていく。

「ミシロくんは『銀河ヒッチハイクガイド』は知らないみたいね」深理さんは訊いた。コンロの前で鍋のビーフシチューをスープ皿に取り分けている。

「ええ」

「ダグラス・アダムスのSFコメディ。一九七九年にBBCラジオで流したドラマが原作で、ほとんど同時に書かれた小説版とテレビドラマがあったのだけど、映画になったのはほんの何年か前よ。日本で人気が出たのはそれからじゃないかしら。イーグルスとの関係はさっき話していた通り。とにかくプレザントリ……冗談? の化身のような物語。でもそこには、アダムス的に表現すればだけど、近年急速に複雑怪奇になりつつある宇宙科学の論理的複雑怪奇さを、ありとあらゆる言語学的知識を総動員して織り成した言葉遊びに置き換えることによって風刺しているようなところもあるのよね、たぶん」

「宇宙科学と言葉遊び」と僕。

 おやじさんが勝手口の横の階段を下りてくる。アンプの前に立って曲を止め、CDをケースに入れてアンプの下のガラス戸棚に仕舞った。深理さんは最後に取り皿と箸を持ってきて食卓についた。彼女が台所側、おやじさんが奥、僕が店側だった。ビーフシチューはスープ皿に取り分けてあり、マッシュポテトはオレンジの琺瑯のボウルのまま食卓の真ん中に、その横にキャベツの煮浸しの鉢が置かれている。食べてみると田舎の洋食屋みたいに、独特で、凝っていて、それでいてきちんとおいしい料理だった。特に煮浸しの出汁に入っているハーブの塩梅が良かった。ただシチューは僕には少し重たかった。

「おいしい?」深理さんは僕が飲み込んだところで訊いた。

「おいしいです。とても」

「それはよかった」

「でも少食なのであまりたくさんは食べられません」僕は素直に申告した。

「だそうだ」おやじさんが深理さんを横目で見た。深理さんは体を少し僕の方へ向けてキャベツを箸で掴んで口に入れた。彼女は主にキャベツの煮浸しを取り皿に山盛りに盛って食べ、おやじさんはマッシュポテトとシチューを交互に食べた。

「手島模型では電話注文の方が多いですか」僕は訊いた。

「うん。だいたい八対二くらいだろう」おやじさんが答えた。「ここに居て体感するよりはもう少し売れているよ」

「インターネットには出していませんね。検索してみましたけど」

「この家には回線を引いていないんだ」

「それで」僕は一度頷いた。「でもなぜ」

「深理が嫌がるんでね」

 僕が目を向けると深理さんは「なんとなくよ」と口にものを入れたまま答えた。

「まあでもネットに広告を出したからってそう劇的に売り上げが変わるわけでもあるまい。陳腐なものを作ったら余計に客が剥がれるかもな」おやじさんはそう言って取り皿のマッシュポテトを箸で口に入れた。

「それじゃあ電話で注文するお客さんはどうやって手島模型のことを知るんです?」

「雑誌に載せておくんだよ」とおやじさん。

「雑誌。それって、飛行機関係や模型関係の?」

「表紙裏にカラー刷りでばーんと出るような立派なものじゃないが」

「それで電話がかかってくるんだ」

「ネットでうちのことを調べる人ならそんな雑誌の一冊や二冊捲ったことがあるだろう」

「サーバー代と掲載料を比べたら掲載料の方が高くつきませんか」

「大した額じゃない。コネクションというやつだ」

 キャベツの煮浸しは深理さんが空けてしまった。他のものは余ったのでマッシュポテトは半分ずつラップに包んで片方を僕に持たせてくれた。ビーフシチューは鍋からタッパに移して冷蔵庫に入れた。僕は深理さんが食器を洗うのを手伝って、おやじさんはその間食卓を拭いて夕刊を広げていた。

 そういえば、また玄関以外のところから他人の家に上がってしまったな。僕はそう思いながら店の方に置いたままだった靴を玄関の土間に移した。正方形の面の周囲にサンダルや靴がぎっしり並べられている。その真ん中にかろうじて一足収まる程度のものだ。

「お手伝いまでしてくれて、ありがとう」深理さんが言った。

「いえ、いいんです。ごちそうさまでした」

「それじゃ、楽しみにしててね」

 外はコンクリートタイル敷きの狭い駐車場で、表の方を軽バンが塞いでいた。その横をすり抜けていかなければならない。表へ出ると深理さんも後をついてきた。僕はどちらかというと体が薄っぺらい方だからまだいいけれど、彼女の場合はほとんど車か塀かどちらかに擦らなければ通り抜けられないような具合だった。それでも彼女にとっては自分の家なのだし、慣れたものなのだろう。大して気がかりな様子もなく、店の前でとても愛想よく手を振って見送ってくれた。

 僕はその姿をいつまででも見ていたいような気がした。目を離したくなかった。けれどなんとなく恥ずかしくなって帰り道の先に向き直った。背を向けただけでも彼女に少し悪いことをしてしまったような気持ちになったくらいなのに、不思議だ。

 世界は夜になっていた。かなり冷える。それでもあの店の空気がまだ体の周りに漂っているように感じた。ご飯もおいしかった。いい気持ちだ。

 けれど手島模型を離れてしばらく、全身が冷えたところで振り返ってみると、僕は怖ろしさも感じなければならなかった。自分の作ったものを売るということはその作品の価値を赤の他人に問うことだ。ただし彼らの評価が僕に聞こえてくることはない。作品がどんなふうに扱われるのかも僕にはわからない。想像してみる。額に入れてもらえなくてもいい、ファイルに仕舞っておくくらいが妥当だろう。でも、新聞と一緒に捨てられたりするのはちょっと悲しいよな。絵を見ればそれを描いた僕のことだって少しくらいは想像するだろう。その時どう思うのか気になるところだけど、やっぱりわからない。そういうのって結構不安なことで、真剣に考えると鳩尾の辺りが嫌な感じになった。

 とはいえ三週間ほどして次の絵を持っていくと、壁に貼っておいた絵にいくつかなくなっているのがあって喜ばないわけにはいかなかった。僕という人間は考える割に感情の構造は単純そのものだった。

 僕はその間まるでピンク色の雲みたいに浮ついた気持ちのままだった。深理さんと絵のことばかり考えていた。考えていないのは作業部屋か昼の美術室で実際に絵を描いている時くらいのものだった。

 手島模型に行くと、深理さんのイメージは更新され、絵のモチベーションはそのままだった。僕は爆発的なスピードでスケッチブックを消費した。

 借りていた雑誌を返し、また別の資料を貰って絵を描いた。時には模型のデッサンもした。写真より形状が掴みやすいのだ。

 つまり僕は手島模型のカウンターでも絵を描いていたことになる。絵を渡しに行って、そのついでに場所と模型を借りていたのだ。その成り行きで店の手伝いも少しした。といっても、電話を取る、帳簿をつけるといった本式の業務ではなくて、棚の下のゴキブリホイホイを取り替えたり、例の三菱重工の空調を整備するために脚立を立ててフィルターを外して洗ったり、そういったことだ。おやじさんは肩が上がらないし、深理さんは全体的に体が重いので二人とも高所作業には向かない。僕は力はないけど身軽なのでそのあたりは重宝だった。

 僕が手島模型に行く時は必ず僕一人だった。知り合いを店に連れて行ったことはない。

「なあ、ひとつプラモデルを作ってみようと思うんだが、何かオススメはないかね、ミシロちゃん」

 ある時、海部が僕の部屋のテレビでゲームをしながら訊いたことがあった。

「僕はジェット機には詳しくないんだ。そんなことを訊かれても困る」僕がそう答えたのは海部がジェット機のゲームをやっていたからだった。

「なあ、品揃えのいい店くらい知らないもんか?」

 そう訊かれた時、手島模型のことが真っ先に僕の頭に浮かんた。でも言わなかった。僕は絵を描く仕事のことも彼には言ってなかった。海部を深理さんに会わせたくなかったのだ。彼女は模型に詳しいだけで、必ずしも飛行機が好きというわけではない。海部のような飛行機好きの人間と話していたって疲れるだけたろう。

「秋葉原のヨドバシカメラに行けばいいよ。大抵のメーカーのものは揃ってるし、割引きもいいから」僕はそう答えた。決して欺瞞ではなかった。

 実際、手島模型に置いてある模型のほとんどは定価だったから、比較的作りやすい、流通量の多い模型を探すなら量販店のほうがよほどメリットがあるはずだ


 遅い時間に行くと深理さんが夕食の支度をしていて、といっても大抵が学校帰りだから夕方到着がどうしても多くなってしまうのだけど、断る理由もないのでだいたい月に一度くらい一緒に食べさせてもらった。深理さんは洋食が得意だ。カツレツやオムライス、ナポリタン、洋食屋で注文できそうなものは一通り美味しかった。支度をしている間に冷蔵庫や戸棚の中が見えるのだけど、出汁の素や料理酒の買い置きを見たところでは和食もかなりやるんじゃないだろうか。僕はいつも配達の前日に電話を入れておくので、もてなしといえば洋食、という信念なのかもしれない。

 絵の取引だけならまだしも、一緒にご飯を食べていると、自分がただの部外者ではなくて、手島模型という輪に少なくとも食い込んでいるのを感じた。けれどそれはおそらく「所属する」という意味合いのものではなかった。僕は僕で、どうあがいても手島の名字ではなかった。僕の仕事は店番ですらなかった。強いて言えば取引相手だ。そうした輪の大きさや緩さが僕にはちょうどよかったのかもしれない。

 そして何より心地よかったのはたぶん深理さんの強引さだ。彼女はまるで手首を握って引っ張るみたいに僕のことを手島模型に引き摺り込んだのだ。僕には時々迷いもあったけれど、そんなものは簡単に蹴飛ばされてしまった。深理さんの僕に対する態度は、例えば美術部の例に照らして、やはり尾上先生の入部に対する中立姿勢とは明確に異なっていた。「あなたが来たいなら来ればいいし、誰もそれを拒まない」というのが尾上先生、対して深理さんは「きっと来て、あなたが必要だから」だった。つまりそこに僕の存在の意味や必要性があるのだと感じられる、という点で異なっていた。

 そう、確かにそうだったのだ。僕はここに居ていいし、いることを求められているのだ。それはとても心地のいいことだった。

 僕は絵を描き、手島模型に通い、深理さんと他愛のない話をした。

「あ、いらっしゃい。また来たわね」

「これが今日の分です」僕はショルダーバッグの他にブリーフケースを持ち歩くようになっていた。

「今回もたくさん描いたわね」深理さんはカウンターに絵の束を置いて一枚一枚確認していく。

「これでも厳選してますよ。五枚から一枚くらいかな」

「全部持ってきてくれればいいのに」

「だめですよ。それは僕の気が済まない。ああ、でも深理さんに出来のいいやつを選んでもらえばいいのかな」

「これはよし、これはちょっと売れない、なんて私がやるの?」

「はい」

「それはやだなあ。気が引けるわ」

「じゃあやっぱり僕が選びます」

 その間に季節は夏から冬へゆっくりと移り変わり、次第に日差しは柔らかく、大気の色は薄れていった。

 僕は充実していた。

 でもその満ち足りた気分は決して永遠のものではなかった。

積極性にみる深理さんと尾上先生の対照性は明確に表れています。

ただ深理さんが「ミシロくん」と呼んでいることにも注目していただきたい。

これは海部が「ミシロちゃん」と呼ぶのと対になっているのです。


ところで「ミシロ」ってファミリーネーム? ファーストネーム?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ