晴れの狭霧、葬式に対する懐疑、死の所在
翌日、まだ梅雨の最中とはいえ、ちょうど雨雲の親玉が一息入れた瞬間に当たったらしく完璧な晴天になった。家々のベランダや庭には溜めすぎた洗濯物がどっさり干してあって、家事を済ませて外出する人々には特に駆り立てられる様子もなく、町中に穏やかで祝日的な、ただしべったりと湿度の高い空気が充満していた。日差しも高く、僕の家から狭霧の家まで一駅分も自転車を漕いで行くと全身にじっとり汗を掻いてしまった。ずっと立ち漕ぎだったせいだ。サドルが雨を吸っていて座り漕ぎをするわけにいかなかった。
門の前に自転車を立てて日陰で額の汗を拭い、肌着とシャツの裾を一緒に持って中に風を送り込む。呼び鈴を押すのは汗が引いてからにしよう。
生垣のクチナシの周りに黒いアシナガバチがぶんぶん偵察しにくる。ちょうど花の時期。白くしっとりした八重の花弁が開きかけている。花を近づけると照葉樹らしい重たい匂いがする。蕾は白と黄緑の綺麗な螺旋。一方、古い花は小さな黒い虫にたかられて萎れている。
「ミシロ」
僕は呼ばれた。
狭霧が塀の格子の向こうから僕を見ていた。彼女は門の方へ一度姿を消して木戸を内側から開けてくれた。ホースのシャワーヘッドを握っている。庭に水を撒いていたらしい。カンガルーポケットの付いた半袖の青いパーカーに短いベージュのパンツ、裸足にサンダルだった。昨日のサンダルとは違う。昨日のは緑の革の。今日はオレンジのゴムの。露出した腕や脚が真っ白に光っていて、血色もいいし、口調も明るいし、何より元気だ。昨日の狭霧とは別人だった。こっちがいつもの狭霧だ。
僕は自転車の籠から荷物を取って門をくぐった。
「元気?」
「うん、元気元気。もうすっかり治しちゃったから」と狭霧はシャワーヘッドをダンベルに見立てて肩に引きつける。
僕らは玄関の庇の下に避難した。雨なんか降っていない。でも日差しが強いから結局何かの下に居ないと堪らないのだ。狭霧はホースを連れてきてシャワーヘッドを足元に下ろす。漏れた水がポーチのわずかな傾斜とタイルの目に沿って走っていく。
「今日は暑いや」狭霧は日差しを眺めながらちょっと大げさに微笑する。
「水撒き? 昨日あんなに降ったのに」
狭霧はそのままの表情で言い訳を考えた。「だってほら、梅雨なら梅雨らしく雨が降らないと植物も物足りない感じがするかもしれないし、もしかしたら今日から夏で、つまり梅雨明けかもしれないし」
僕は庭を見渡してみた。柴谷邸の庭は玄関から見て左手、北側にはあまり空間がなかったが、南側は広く開けていろんな植物が植わっている。花はクチナシの他にクリも咲いている。そして雨樋の下、小さなアジサイの株に紫の花が一房。
「駄目かな? だって土が乾いていたしさ。雨に比べたらこんなの湿り気程度だよ」狭霧は言い訳を続けながら玄関の引き戸に手をかけた。でも扉は鍵がかかっていて開かなかった。「中から開けるから少し待ってて」
「庭から入ろうか」僕は訊いた。
「ああ、それでもいいなら」
「うん、全然。ところで今日もお母さんいないの?」
「出かけてる」
僕は鞄を掛け直して庭の正面に回った。柴谷邸の縁側は居間とその奥の和室の横を幹線道路みたいに通っていて、雑巾がけレースを開催できそうなくらい長い。沓脱ぎ石が部屋の前に一つずつ。ホースの巻き取りを手伝ってから石に上がって縁側に腰掛ける。
僕はそこでノートを渡すつもりだった。ところが彼女は片足で縁側に上がってもう一方のサンダルを脱ぎ捨てながら「どうぞ、上がって」と言った。それはすごく自然な言い方だった。空には雲が浮かんでいるでしょ、っていうくらい当然みたいな言い方だった。だから僕はそこに靴を脱いで縁側に上がった。そうしないと不自然な気がした。
外が明るいせいで屋内に入るとそこらじゅう真っ暗に見えた。まるで映画館の中に居るみたいだ。日光に焼かれたせいで腕や首筋がじんじん火照っていた。
「涼しいでしょ」と狭霧。
「うん。風が通るね」
「屋根が広いから日向が中に入ってこないの。その代わり冬は寒いし、時々畳を干さないといけないんだけど」
屋根の庇は縁側の幅を二倍にしたくらい長く、沓脱ぎ石の少し先までしっかりと陰に収めていた。上がってしまえば爪先も日に当たらない。空気が冷えているわけだ。
狭霧は隣の部屋に入って仏壇の前に正座をした。その部屋には他に壁に寄せて大きな衣装箪笥と化粧箪笥があり、縁側の近くに布団が半分に畳まれていた。狭霧のものらしい。シーツは細かなノイバラの模様で統一されている。敷布団の間にタオルケットと夏用の掛け布団と枕とが簡単なサンドイッチのように挟み込まれていた。
狭霧は燭台に蝋燭を立て、マッチを擦って片方に火をつけ、蝋燭から蝋燭に火を移す。
「おばあさん?」僕は訊いた。その仏壇に祭ってあるのが誰なのかという話だ。
「そう。挨拶して」
狭霧は仏壇の正面を僕に譲る。
僕は線香を取って四つに折り、蝋燭から火を取って香炉に伏せる。複雑な波の模様を描きながら白い煙が昇っていく。古い匂い。昨日の玄関もこの匂いがした。
仏壇の下の段に背景をカットした合成の遺影が立てられている。四角い輪郭、七三で後ろに引きつめた白い髪、色つきの眼鏡、着物の襟。
この年の始めに狭霧は忌引きで三日ほど学校を休んだ。その頃の彼女は努めて明るく振舞っていたと思う。優等生らしく謙遜と微笑を重んじ、余計な心配を食らって自分の地位が揺らぐのを拒んでいた。
遺影は二つあって、もう一葉は船の露天甲板に立つ中年男の古い写真だった。夕方にフラッシュでも焚いたのか光が多すぎて白く抜けている。
狭霧は先に立ち上がって台所でグラス二つに氷と麦茶を注いだ。底の厚い切子のガラスで、それぞれ切り込んだ部分が紅色と藍色に着色されていた。彼女は飾り棚の横に積んである座布団を上から二枚取って居間の四角い大きな卓の両側に置く。僕らは向かい合って座る。座布団はいい柔らかさだ。布地は硬く、撫でると唐草文の刺繍が指に当たる。僕の方から仏壇の蝋燭の火が見えた。
「ミシロも仏教なの?」と僕の視線を遮るところに首を伸ばして訊く。
「僕は違う。でも家系としてはね」
「ふうん。慣れてるみたいだったから」
「母方の従兄の家に仏壇があるんだ。そこへ行くとまずお参りをして、三食の前にお供えがあって、帰る時にもお参りをする」
「家ではしないの?」
「そうだね。しない」
「なぜ?」
なぜ?
彼女がそんなふうに自分から話を掘り下げるのは意外だった。まだ半年だ。身内が死んで半年。人の死の話は控えた方がいいだろうと思っていたけれど、違うのだろうか。
「家に仏壇がないからじゃないかな。つまり、従兄の家には死んだ人があって、うちにはまだない」どちらにしろ僕は言葉を選ぶ。麦茶を一口。
「従兄の家に祭られている人とは面識があったの?」
「ないよ。ほとんど」
「どうして面識がなくてもお参りするんだろう」狭霧は僕の目を捉えたまま言った。彼女は自分のグラスや僕の手元や縁側の方、視線を方々に移しながら話していた。でもこの時は僕の目だった。
「面識がある人の家族だったから……かな」僕は言った。
「じゃあ、その時は、自分の作法じゃなくて、知っている人に倣ってお参りする?」
「だろうね」
狭霧はハトが餌箱を覗き込む時のようにちょっと首を寝かせた。
「やっぱり儀礼だと思うな」と彼女。
「儀礼。習慣やしきたり?」
僕が訊くと狭霧は足を崩してグラスに手をやった。でも持ち上げるでもなく、動かすでもなく、ただ触れただけだった。
「もし慣習やしきたりがなかったら、それでもお参りする?」
僕はしばらく考え込んだ。「拝むべき仏を知らないだろうし、理解もできないだろうね」
「そうだよね。もしもそれを教えてくれる親戚関係がなかったら、仏壇や墓石や葬祭なんてものは成り立たないと思うんだよ」
僕はわずかに頷く。
「それって、生きている人間にとって死者との関係を正しいものにするために不可欠なものというわけでもない。だって、思い出そうと思えば仏壇の前でなくたって思い出せるよね」
「柴谷は儀礼なんかいらないと思う?」
「そういうわけでもないんだ」と狭霧はグラスに触れていた手を指先だけ持ち上げる。「だけど、懐疑的な立場というか」
「懐疑的」
「うん。嫌な思いをしたんだ。おばあちゃんの葬式ね、まるで近親者の同窓会みたいだったな。主役は確かにおばあちゃんだし、みんなその人のために集まる。だけど集まった親戚同士話すのはお互いの息災ばっかり。食べて、酔っぱらって、馬鹿みたいに大笑いして。献杯だけしておけば、あとは死人のことなんか忘れてもいいみたいに。昔は気づかなかったけどさ、お葬式ってそういう場所なの?」狭霧は至って落ち着いた口調で言った。胸の中から取り出した憤りをひとつずつ自分の前に並べるみたいだった。それも等間隔に、僕の方へ向きを揃えて。
「一種のパーティだよね」僕は答える。「だけど、お寿司とか、美味しいものが食べられるのは死んだ人から集まった人へのもてなしって意味合いもあるんだから、遺族が楽しんで普段話せないことで盛り上がるのは必ずしも悪いことじゃないんじゃないかな」
「それなら楽しむ方は死んだ人にもっと敬意を払ってもいいはずだよ。死んだ人を惜しむような話がもう少し長くてもいいと思うんだ。それか、遠くの灯台の光が巡ってくるみたいに、時々、いやあ、そうか、この人もとうとう死んだかって、それくらいの感嘆はあってもいいと思うんだ。いくら形だけ手を合わせても、それで冒涜が許されるわけじゃないよ」
「まあね。僕らより長生きしている人間がそれだけ多くの人間の死を見てきたというのは考慮すべきだろうけど」
「そう。慣れているのかもしれない。それに、私にとってのおばあちゃんと、彼らにとってのその人と、その存在の重さはやっぱり全然違う。実際ちっとも惜しくなくて、ちっとも惜しくない人の死なんかパーティの口実にしかならない。もしそういうもののために儀礼があるなら、それを引き継いでいくのは私は嫌だな」狭霧は一言一言の正当性をよく確かめながらゆっくりと言った。
「僕はその親戚たちがどんな人間なのか知らないけど、自分にとっての重さを置いても、本当に惜しんでいる人がいる横で傍若無人に騒ぐのは、確かに、大人じゃない。人の気持ちがわからないんだ」
僕がそうフォローすると狭霧は急ににやにやした。「私ね、それでお通夜の時嫌になって、ほら、だいたい会場とお座敷と部屋が別でしょ、みんながお座敷で固まっている間にお棺の前にビールを持ってって飲んでやったの」
「あ、どんな味だった?」
「ぬるかった」
いいオチだ。すごく可笑しかった。僕も笑ったし、狭霧も笑った。
笑いが収まったところで狭霧はグラスの麦茶を一口飲んだ。彼女の顎の下がきゅっと動いた。
「ねえ、こんな話やめようか」彼女は提案した。パーカーのカンガルーポケットに両手を入れて自分のお腹をまさぐるように撫で回した。
「人が死んだりする話?」
「それも含めて、例えば人の死についてでも、何か深く考えなければ語ることのできないテーマの話だよ」狭霧は眉間に皺を寄せて適当な言葉を選びながら言った。
「柴谷は、嫌になった?」
「私はいいよ。自分から始めたんだし」首を振る。
「続けてもいいんじゃないかな」
「そう?」
「うん」僕は肯く。
狭霧はまたしばらく言葉を選んだ。それから言った。
「こういう話って他の人は授業の課題だとかで強制されなきゃ考えないことだと思うんだ。もし課題として、例えば授業の中で語ることを強いられるのなら、始業のチャイムと終業のチャイムの間にどれだけ自分を曝け出したとしても、授業という状況が妥当な言い訳になるから、別にいいよねって思える。でも休み時間は違う。こんな曝け出した話を本来の自分として話すのはやめておこうって思う。そう、曝け出すことなんだよ。自分が何を考えているのか、深く考えたことを話すというのは、精神的に裸になることだから。だからみんな恥ずかしがるんだ。尋常な人間なら考えなくてもいいことやなんかを考えてるんじゃないかって引かれたり、人によっては考えすぎだよって慰めてくれたりするけどさ。話している方はきっと真剣なのに、言い訳の利かない環境じゃみんな茶化そうとする」
僕は頷いた。テーブルの下で手を組み直すとじっとり汗の感触があった。
「やっぱり嫌でしょう?」狭霧は微笑した。
「いや、真剣に話そうとしたらさ、適当な言葉で間を持たせるのはよくない気がして。少し時間をくれればきちんと考えてから答えを言えると思うけど」
狭霧は僕の方をちょっと見上げる具合にして黙っていた。きっと狭霧も恥ずかしいのだと思う。躊躇しているのだと思う。でもそれは僕の受け答え次第、心構え次第で消してしまえるものなのだ。
「僕は曽祖父が死んだ時のことをよく憶えてる。自殺だったんだ」
「作り話だ」狭霧は疑った。僕がどうにかして自分に話を合わせようとしているみたいに思えたのだろう。
「違う。事実さ。自分で拳銃をつくって、部品をトランクに詰めてアメリカへ行ってから組み立てた。綺麗な死に方だったよ。タオルをどっさり持ってって、一つを頭に巻いて、残りを枕にしてさ。シーツの上に十二個シミをつけただけだった。それもちっちゃなシミさ。遺体は好きにしてくれって遺言だったけど、条件付きで、特別自分の墓になるような場所には埋めないこと。つまり水葬か散骨にしてくれということだったんだ」
「それでどうしたの?」
「結局代々の墓石の下に埋められちゃった」
「いつ亡くなったの?」
「十年くらい前だね」
「悲しかった?」
「僕は悲しくなかった。澪は落ち込んでたけど、僕はね。まだ小さかったし、長い間一緒に居たってわけでもない。僕の中で彼の存在がそんなに大きくなかったからだよ。それでどんな感じがしたかっていうと、ただ、一つの時代が終わって新しい時代が始まる、その切れ目のような、そんな感じがした。西暦が二千番台に乗ったってくらいに」
「お姉さん、ひいおじいさんと仲良しだったのね」
「パイロットだったからね」
狭霧は両手でグラスを包んで、机に乗せたまま右でもなく左でもなく少しずつ回転させた。
「ねえ、人の死はどこにあるのだと思う?」狭霧は訊いた。たぶんそれが狭霧の一番話したいことだった。
「どこ?」
「それは単に肉体的なものなのか、それとも精神は違うのか」
「肉体と、精神」僕は呟いた。
「若山牧水の短歌にあるでしょう。白鳥は悲しからずや、空の青、海の青にも染まず漂う。ここに――」
「海が先だよ」
「そう、海が先だね。海の青、空の青にも染まず漂う。下から上だ。青く染まってしまえば楽なのに、でも、染まってしまえば白鳥は白鳥ではなくなる、それは白鳥として死ぬということだから、白鳥は孤独を受け入れて生きているの」
「精神的に死ぬ、ということ」
「肉体が死ねば精神も死ぬ。それは医学的な事実だよ。じゃあ、逆はどうなんだろう。先に精神が死んでしまったら、肉体も死ぬのかな。それとも、違うのかな」
麦茶を飲む。グラスが汗を掻いて机に水溜りができている。手についた水を腕に塗り込むと少し涼しい。外は相変わらずものすごい日照りの中にあって、涼しい風の通る家の中から見るとまるで電子レンジの中を覗き込んでいるみたいだった。時々ヒヨドリの鳴き声が聞こえた。耳を澄ましていると地面の土が煮えくりかえる音まで聞こえてきそうだった。
「僕」の姉・澪はこの物語の外側にいる人物です。「僕」の語りの中で何度か言及されることはあるけれども、本人が登場することはない。外側、とはそういう意味です。この作品はなんだか登場人物が(無駄に)多いな、と評されたことがあって、限られた人数の中の複雑な人間関係によって完結する物語の方が完成度が高くなるのは承知なのですが、いわばそういった「箱庭」の中で始終してしまうと物語世界がなんだか窮屈で広がりのないものに感じられてしまって僕は嫌だったのです。外側に広がった世界の一部分を切り取ったような感じに仕上げようという気持ちでやっていました。