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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第2章 踊り――あるいは居場所について
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手島模型へおいで2

 深理さんはいくつか飛行機の名前を書いたメモ(電話の横にある四つ切りの裏紙ではなくて可愛いネコの便箋)と雑誌を何冊か持たせて僕を帰した。マンションのエントランスに入り、ポストのダイヤルを合わせて郵便物を取り、エレベーターに乗る。

 美術部と関わるようになってから僕は寝室の隣の部屋をよく使うようになった。細長く、奥に掃き出し窓があって、収納のない五畳の洋間で、集中するにはいい狭さだった。伯父さんも同じことを思ったらしく、デスクが一脚、部屋の右側の壁から少し浮かせて置いてあった。深い色の木目の化粧板を張った天板に黒いスチールの四角い足がついている。会議室に置いてある折り畳みの長机を少しまともにしたような具合だ。勉強道具もパソコンもリビングに置いているから宿題程度の短い仕事や検索ならテーブルで済ませてしまうのが常だったけれど、絵を描くとなると数日掛かりだ。作業部屋の机の上を散らかしたままにしておいて、リビングで食事や休憩をして、また戻ってきてすぐに再開する。これがリビングのテーブルひとつだとそう上手く行かない。片付けと復元に時間を取られるし、気持ちの切り替えを考えても生活と仕事の空間は少しでも分離しておいた方がいい。

 作業部屋に入ってデスクの上に出したままのスケッチブックと鉛筆を一度綺麗に仕舞い、何もなくなったところに借りてきた雑誌とメモを重ねて置く。

 椅子は固定脚のビニール張り、アームレストはない。座って足を上げ、胡坐にして股の上で掌を上に指を組む。描き始めはいつもこうやって気力を起こすのだ。なあなあで始めるとどこにも手をつけられずに時間を無駄にすることがある。

 でも駄目だ。珍しく空腹だった。先にご飯にしよう。ヤマイモを買ってきたから、まずは擂ってとろろ丼にしたい。

 その週末はたっぷりと時間を費やして家に籠って水彩画を描いた。A4の画用紙に借りた資料写真を参考に鉛筆でスケッチ、ペン入れをして絵具で淡く色づけ。水彩が精密に描くには向かないのはわかっていたけれど、生憎アクリルの道具が家に揃っていなかったし、買いに行く暇もなかった。美術部への所属も保留にしたままなので借りるという手も使いたくなかった。

 深理さんが指定したのは零式艦上戦闘機やFA−18といった大御所の飛行機ばかりだった。彼女の提案はいわゆる特典商法で、僕の原画を信用できる筋に預けて葉書に刷ってもらい、持帰りであれ注文であれ、売れた模型にサービスで同封する、というものだ。有名な飛行機なら模型の数も売れる数も多い。原画は店の壁に貼ってお客の目につくようにしておいて、原画そのものも売る。フィルムに写しておけばあとで増刷もできる。

 火曜日の学校帰りに手島模型に寄った。文化祭に向けた委員会の集まりがあったので遅くなって、外はもう暗くなっていた。家々の屋根は藍色の空の手前で影になり、窓は黄色。焼き魚の匂い。犬の吠える声。

 ショウウィンドウの前で襟を直す。僕はこの日ストライプの水色シャツを着ていた。チュニックといってもいいくらい裾の長いやつだった。

 店内にはイーグルスの「ハリウッド・ワルツ」が流れている。素朴なギターと四人のコーラス。夕暮れとの別れにこれ以上のものはない一曲だ。台所で鍋を叩く音がそこに割って入る。ブイヨンのいい香りが店の入り口まで満ちていた。

 深理さんが扉のつららチャイムに気付いて店に下りてくる。丸首の開いた鼠色のヘリンボーン模様のワンピースを着ていた。胸の上に切り返しがある。

「こんにちは。絵を持ってきました」僕はカウンターの前で荷物を開ける。

「あら、もう出来上がったの?」

「ええ。遅くなってすみません」

「早すぎるくらいじゃなくて?」

「いや、夕方の忙しい時間だから」

「ああ」深理さんは把握してちょっと赤面した。「ちょっと待ってて」

 彼女は一度台所に戻って切りのいいところまで片付けてくる。僕はそれをカウンターの外の椅子に座って待っていた。おやじさんはカウンターの内側で片耳にイヤホンをしたまま居眠りをしていた。つららチャイムや二人の会話では全く起きる気配がない。「イーグルスが好きですか」と訊いてみても返事がない。天井を見上げると三菱重工の空調は珍しく大人しくしていた。運転中のランプを灯しながら吸気も排気もしていない。この部屋の温湿度は適当である、という判断だろう。

 深理さんが出てくる。僕はカウンターの上に置いたB4のブリーフケースから絵の入った封筒を取り出す。彼女はそれを開けて中身を見る。次いで微笑が表れたので僕は報われた。

「上手く描けているじゃないの」

「ありがとう」

「今少し暗いけど、彩色もいいと思うわ」

「次は何を描いてきますか」

「少し気が早くない?」深理さんは目を大きくした。「とりあえず今あるものをきちんと扱いましょうよ。いくらで売るのか、何部刷るのか」

「はい」僕は反省して背中を丸める。

「原画は一枚千円で出す。どう?」

「そんなに?」

「と思う? 大丈夫よ。信じて。もしだめだったら、つまり売れなかったら、その時は少し安くしましょう。下がった分はこちらで負うとして、印刷した分は模型の付加価値になるから、それが損になるかどうかはまだ決まったことじゃないわね。いい?」

「任せます」

「わかった。悪いようにはしないわ」深理さんはそれからカウンターの下に手を入れて金庫を取り出し、鍵を開けて中から一万円札を一枚抜き取った。両手で僕に差し出す。「これがお代です」

 僕は十機種十枚描いてきた。一枚千円なら合わせて一万円になる。

「まだ早くないですか?」

「私はあなたの絵を買うから描いてきてと依頼して、あなたはそのとおり応えてくれた。この絵が売れても売れなくても、あなたがこの絵に費やしてくれた時間の対価を支払う責任が私たちにはある」

「いいんでしょうか」

「いいのよ」

 僕は迷いながら財布を出し、深理さんの手からお札を受け取った。

「じゃあ、結果が――」

 彼女は右手を少し前に示して僕の言葉を制する。「せっかくだから夕ご飯食べて行ったら? ビーフシチューと、それからマッシュポテトを今作っているの」

 僕は意味もなく答えに迷った。

「いいでしょ? 待っている間もし手隙だったら、そこの壁の写真を少し移動させてあなたの絵を貼る用地を捻出してくれないかな」彼女はどんどん話を進める。

「はい」

 手島模型は空いた壁のあちこちにお客さんから貰った完成品の写真をモザイクアート的にぺたぺたと貼っている。深理さんが指示したのは書籍コーナの横にある一区画で、フィルムカメラで撮ってL版光沢紙にプリントされた写真が無造作にピンで打たれていた。店の奥側は客間にある南向きの窓からの光が全く届かないので退色はほとんどないが、露光が乱暴だったり焦点がずれていたりして綺麗に写っているものは少ない。僕は写真の縁を押さえてピンを抜き、カウンターの背中の壁の空いているとこを探して打ち直した。なんだか祝日の駐車場を車でぐるぐる走り回っているみたいな気分になった。大きなモールへ行くと空きはないし前は詰まっているからすごくじれったいのだ。

 おやじさんはまだ眠っている。イーグルスはボーカルのない「魔術師の旅」を演奏している。

 その曲の半ばでつららチャイムの音がして、白いワイシャツを着てブリーフバッグを持った四十くらいの気の弱そうな男が入ってきた。こういう店は常連が多いのだろうけど、目当ての所へまっすぐ行かないところを見ると一見さんかもしれない。僕はおやじさんを起してやろうか迷い、うっすら目を開けたのが見えたので大丈夫だろうと放っておく。

 男はしばらく72の棚を眺めたあと僕の方へやってきて声をかけた。イーグルスは「いつわりの瞳」を終え、「テイク・イット・トゥ・ザ・リミット」に入ったところだ。

「あの、ミグをつくりたいんですが」と男は訊いた。やっぱり一見さんだったのだ。

「ミグの何ですか」と僕は答えつつカウンターの方を見やる。おやじさんは寝ている。奥の台所では換気扇が唸りを上げていて深理さんは現れない。

 お客さんは「29ですか、ミグ29、ファルクラム」と答える。

「ファルクラム。スケールは?」

「七十二分の一で作ろうかなあと。やっぱりハセガワのが良いんですかね」

「あ、いや、72ならタミヤですね」

「そんなに違いますか」

「ハセガワのは寸法も小さいし、首とか翼が、なんというか、短いんですよ。デフォルメがかかっているというか。たぶん作るのを焦りすぎたんでしょう」僕は72スケールの棚の前に歩いていく。

「他のメーカーは?」

「出してることには出してるんですけど、結構金型の流用が多いみたいで、タミヤのも中身はイタレリです。値段が違うだけ」僕はタミヤの箱を引っこ抜いてお客さんに見せる。天面いっぱいに模型の完成品写真があり、その上にゴシック体のローマ字で「ミコヤンMiG‐29ファルクラム」と印字されている。彼は箱を受け取って中を開けてみる。僕はその間にカウンターの方を見やる。僕は深理さんほど模型に詳しくない。それがたまたま昔作ったことのあるキットだっただけだ。

 いつの間にか深理さんが出てきて、カウンターに頬杖を突いて僕を観察している。ふと見憶えがあると感じたのは、たぶんミュシャの『エメラルド』の女神がちょうどこんなふうだからだ。迷いのない、強いまなざし。目が合うと微笑する。綺麗だ。寒気がするくらい。足元が崩れていくような気がするくらい。

「すごい分割だな」お客さんはそう言って苦笑いする。

「機首ですか?」

「ええ」

「たぶんそこがやりにくいところですね。段になっているところをしっかりくっつけるのが至難の業。でもそこに目を瞑ればいいキットですよ」

 お客さんは頷いて、ファルクラムの箱をそのままカウンターへ持っていく。深理さんは品物を受け取って電卓を叩いてから、お客さんが財布を取り出すのを見計らって僕にすごく見事なウインクをする。

 眩暈がした。

 それから二人はいくらか世間的なやり取りを始める。

「イーグルスの随分古いアルバムじゃないですか」お客さんが訊く。

「イーグルスの新しいアルバムってあります?」と深理さんは笑う。

「入ってきた時に流れてたインスツルメンタルの、聞いたことがあるんだけど」

「あー、ジャーニィ・オブ・ザ・ソーサラ?」

「そういう題なんだ」お客さんはふーんと頷く。「確か『銀河ヒッチハイクガイド』のテーマだよね。ラジオドラマの」

「ご存じです?」

「そりゃもう。傑作だからね。懐かしいものだ」お客さんはうんうん首を振る。深理さんとのおしゃべりを楽しんでいるようだった。

「私も映画版とテレビ版は見ました」深理さんはそう言ってちょっとだけ僕に視線を投げた。

「なかなか傑作だったでしょう?」

「なかなかね。さようなら、今まで魚をありがとう」

「そうそう」

 下の方に店のマーキングのついた茶色の紙袋を広げて箱を入れ、袋の口をテープで留める。

 結局会計が終わってもおやじさんは目を覚まさなくて、端の戸棚に寄りかかったまま空也上人みたいに口をかっぴらいていた。僕は棚の前に立ってお客さんを見送る。

 扉が閉まってカウンターの方を見ると深理さんはさっきとほとんど同じ姿勢で頬杖を突いて僕を見ていた。レコードは「ヴィジョンズ」を過ぎて「アフター・ザ・スリル・イズ・ゴーン」に入る。

 僕は何かを言おうと思って、けれど結局全てを取り下げて、代わりに力を抜いた時の溜息をひとつついた。


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