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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第2章 踊り――あるいは居場所について
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手島模型へおいで1

 一週間と数日経ってから、僕はもう一度手島模型を訪問した。前の晩には心に決めて、なかなか着ない薄手のセーターを引き出しの奥から引っ張り出して皺を延ばしておいた。下は普段のジーンズとスニーカーだけど、それでも少しだけ気分がしゃんとした。

 店に入ると低いベースの音が聞こえた。奥のオーディオでジャズを聴いているらしい。

「あ、いらっしゃいませ」と奥から声がする。店番は深理さんである。青いレースのシャツ。裏に当て布のついているのが襟と肩だけで、他の部分は中の黒いキャミソールと肌が露出していた。ただし腕には香色のショールをかけている。英語のプリントを見ながらルーズリーフにシャーペンで訳を取っていた。ペンの持ち方は――。

「本当のところ、カポーティって私全然好きじゃないのよ」深理さんは書きながら呟いた。「読んだことある? いつどこに居ても誰かしら一人は必ずヒステリー起こしているの。聞くものなければ説く者なし、とでも言ったらいいのかな、それでいてお互い離れようとしない。まるで引力と斥力が捻じれて逆に働いているみたいに。もちろん、そういうしっちゃかめっちゃかなシーンを描写できるというのはすごいことかもしれないし、世界的な文豪に対してあまりに私的な感想かもしれない」

「宿題?」僕はカウンターの前に立って訊いた。

「宿題。そうね。英文の課題。嫌とは言ってられないわ」と彼女は答えながら切りのいいところで手を止め、見ていたページを一番上にしてルーズリーフと一緒にクリップで留める。それから顔を上げて僕の変化に気付く。「あら、髪染めたの?」

 僕は俯いて前髪を指で梳く。「変かな」

「いいえ、似合ってるわよ」

「ありがとう」

 深理さんは僕を見つめたまま薄く唇を開いて、使っていたシャーペンの両端をそれぞれの手に――消しゴムの方を右手に、ペン先を左手に抓んで、バウムクーヘンの芯のようにくるくる回転させる。何かを言いかけている。前兆のような妙な緊張が僕をびくびくさせる。

「このあいだ会った時に少し思い当たったんだけど」と深理さんは切り出した。「もしかしてあなたは絵が描けるんじゃないの?」

「うん」僕は声に出しながらゆっくり肯く。「絵くらい誰だって描けると思うけどな。バイリンガルくらい珍しい能力でもない」

「そうじゃなくて、絵を描く人の中でも上手に描ける人よ。バイリンガルと同じくらい珍重される絵描きさん」

「僕なんか1・5リンガルくらいがせいぜいですよ」

「どうかしら。試してみてよ」

 僕は「うーん」と唸った。

 渋っている間に電話が鳴る。深理さんは「決心をつけておくのよ?」と僕に釘を指してから受話器を取る。「はい、手島模型です」裏紙を上から一枚、山の横に滑らせてシャーペンの先を立てる。

 僕には音漏れ程度にしか聞こえないけれど、注文の前にどれだけ選択肢があるのか確認したい、というようなことを相手は言っていた。

「ええ、全然構いませんよ。……48の飛燕と。型は何を? …ああ、とりあえず飛燕全体で。そうすると、ええと、ハセガワ、アリイ、オオタキ、RS、この辺ですね。50分の1にするとタミヤのもあります。……作りやすさで言ったらハセガワかオオタキですね。アリイのは中身はオオタキです。造形はオオタキの方がいいし、ハセガワならうちより安く売ってるとこも多いので、お薦めはオオタキですね。というかアリイ。……新しい分デカールの状態がいいんです。……ブランドは違いますけど、箱絵もそのままですし、ぱっと見はほとんど同じものですね」

 深理さんはほとんど淀みなくすらすら応答する。手元に何かしら表や目録があるわけではない。縮尺、値段、在庫、模型の特徴まで全部記憶しているのだ。とはいえ調子は淡々として、品物に愛着がある感じでもない。

「在庫はですね、タミヤのが二つ、アリイが四つとオオタキが一つ、だったかな。ハセガワとRSは各二つくらいありますけど、この二種類は入荷があるので心配いらないですよ。……ああ、RSですか? チェコのメーカーなんですよ。他のは全部Ⅰ型なんだけど、これだけはⅡ型のバブルがあって、ただね、パーツは少ないんですけどね、咬み合わせが悪いのでこれはパテで直さないとだめなキットですよ。……あ、バブルがいいですか。そう、でもね、これ、高いんですよ。五千円って、がっかりしません? やっぱり輸入物なので。国内メーカなら二千円しないんですけど……、あ、本当? じゃあ、一応確認ですけど、RSのでⅡ型の無印とⅡ型改というのがあって、ファストバックとバブルなんです。……改の方でいいですか? じゃあご住所お願いします。……」

 深理さんはやはりすらすらと説明して注文を取った。メーカーごとの出来の違いなんて僕にもチンプンカンプンなレベルだった。

 電話が切れてから、端のレターケースに出納帳と一緒にしてあるノートを一冊開いてメモした住所を写し、日付、電話番号、客の名前、商品名を書き入れる。書きながら「輸入物ってね、ラインナップは魅力的なんだけど、総じて出来が悪いのと、高いのと、すごく気に入って見てるのになかなか手を出せないってお客さんが多いのよね」と呟く。

 店の陳列棚から注文の箱を取ってきて電話の時のメモをマスキングテープで貼り付けてカウンターの下に入れ、そうして屈んだまま僕の顔を上げる。

 僕は長らく彼女の身のこなしに見蕩れていた。

「決まった? ほら、いいから描いて」

 深理さんはショウウィンドウからお気に入りの零式観測機を出して、フィレット、いわば機体の脇の下ところを指で支えて持ってくる。まず壁のレターケースの上に退避させて、カウンターの上に散らかっている筆入れやファイルといった勉強道具を横へ押しやる。松材の天板が露わになって、その空いた土地の真ん中あたりにゼロ観を移動する。まずドリー(台車)を置いてその上にフロートを乗せる。鳩舎の主人が雛を巣に戻してやるみたいな、繊細だけど慣れた手つきだった。

 一方の僕はまんざらでもなくて、その間にクロッキーと鉛筆を用意している。カウンターの中に入って「がっかりしないでくださいね」と言いつつ椅子を少し後ろへ押して浅く座り直す。両方の親指と人差指とで視点と画角を決めて、まず腕馴らしを兼ねてパースが歪まないようにしっかり軸線を描き込んでいく。胴体の軸、主翼の軸、尾翼の軸、プロペラの軸。その線の歪み方で今日の自分の手の癖を覚える。あるいは矯正する。

 深理さんは僕の横にそっと丸椅子を置いてこっそり腰を下ろす。ところが努力虚しくというか、荷重のせいで椅子の脚のゴムと床のリノリウムが「ぎっ」と呻き声を上げる。「喋ったらまずいかしら」彼女は体を僕の方へ傾けて独り言みたいなトーンで訊いた。

「いいえ」

「いろいろ訊いても問題ない?」

「絵をやっている時は平気です。なんでかなあ……。作文を書く時って周りに誰かいると追い出したくなるけど」僕は一時手を止めてクロッキーを遠目に持ってみる。歪みがないかどうか。

「あなた歳は?」

「十五」

「……高校一年生?」

「はい」

「じゃユミの一回り下だ」

「妹さんですか」

「うん。今年大学生になったとこ。私みたいに太っていないし、暗いところもないし、すっごく器量がいいのよ。でも、なんというか、可愛いのは見た目だけというか、草食動物的なのよね」ゆっくり、言葉の内容をひとつひとつ吟味していくみたいに深理さんは言った。

「草食系女子ですか」

「つまり、インパラみたいってことよ。見ているだけなら可愛いけど、外敵には容赦しない。警戒心が強くて、初見の人間に対して一番口が悪いのよ。だからそれで取り返しがつかないくらい印象を悪くしちゃう人が多くて、本人にとってそれはプライドに他ならないんだけど、でもちょっとかわいそうな気もするわよね」

「妹さんも店番を?」

「ううん、一緒には住んでなくてね、学生寮に入ってる。別に遠いとこじゃなくて東京なんだけど、それがどうしてかっていうと、この店が嫌いだからって。高校出たら絶対出てやるって宣言してたもの。匂いがだめだとか言ってね、でも嘘じゃないみたいなのよ。この間なんか帰ってきてしばらくここで話をしてたんだけど、そのうちティッシュティッシュって、鼻水がずるずるして止まらなくなっちゃったの」深理さんはそこで言葉を切ってくすっとした。「埃のせいなのか、それとも厚紙の匂いとか離型剤のせいなのか、とにかく何かしらのアレルギーみたいなんだけど」

 僕はそれからカウリング、尾翼、主翼、コクピット、後部胴体の順で描いていく。でも零式観測機は複葉機、つまり主翼が上下に二枚組だからこの角度だとコクピットは上の翼に隠れる。水上機だからフロートもある。描き慣れないフロートは合間合間にちょこちょこおそるおそる描いていく。ベースの曲が低く響いている。

 深理さんは僕の方へ椅子を少し、カウンターの内側がもともと広い空間ではないので実にほんの少しだが、腰を浮かせるところに両手で引きつけて一緒に動かして近づけ、「学校は楽しい?」と訊く。

「うん。楽しいですよ」

「美術部なんてあるの?」

「そこで絵の練習を」

「あら、それで上手なんだ。みんなでデッサンをしたり、テーマを決めて描いたり?」

「うーん、いや、揃って活動することはほとんどないですよ。活動日も決まっていないし、好きな時に一人で来て、一人で描いたり作ったりする。いわば、すごく個人競技なんです。今のところみんなでやったのは展覧会の設営くらい」

「大学も美術系を狙うの?」

「いいえ、それは考えてない」

「でも練習なのよね?」

「僕の中では」

「というと?」

「僕にとって絵というのは表現の一端というよりはあるひとつの伝達形式なんです。言葉と絵と合わせて説明力や意味が強化されるんじゃなく、言葉では伝わらないことも絵だけで十分という説明力を与えたいと思うんです」僕はそこで鉛筆を持ちかえてクロッキーを前方に翳してみる。片目を瞑ると、絵の中のゼロ観とカウンターの上のゼロ観のモデルが並んで同じくらいの大きさに見える。「深理さんは美術館へ行きますか」

「ええ、好きよ」

「例えば展覧会へ行って絵を見る。それからキャプションを見る。解説はなくても、ほとんどの場合題名はついている。題名を知ってからもう一度絵を見てみる。すると新しい発見がある」

「わかるわ」

「その発見というのは、単に一度目を離してみたから得られたものではなくて、題名を知ったからこそ得られたものです」クロッキーを手元に戻してカウリングの縁の形をいくらか描き直しにかかる。「題名によって意味の深まる絵は題名に説明力を依存しているとも言える。描き手の伝えたいことを絵だけでは伝えられない。説明力の不足。もちろん説明のためだけに絵があるわけじゃない。題名と合わせて深みの生じる絵があっても一向に構わないし、本当に美しい絵というのは全く説明力のない絵かもしれない。ただ、絵というジャンルの片隅にはすさまじい説明力を持った一団があってもいいと思う。そういうことです」

 深理さんは僕の絵に見入ったままゆっくりとした動作で首を傾けてみる。「今あなたが描いているのは、あなた的に言って説明的な絵なのかしら」

 僕はまた手を止めて、鉛筆を回しつつ答えを模索する。僕はペン回しは下手なので一度に百八十度しか回さない。

「ああ、邪魔してるわね、私」

「いえ……。この絵は、なんというか、模写です。僕はこの絵で僕の考えとか感動とかを伝えたいわけじゃない。伝えることがあるとすれば、それは僕の絵の技術についてだから、上等に見えるように書かなければならないのは確かだけど」

「技巧的に描くということは別に説明とは関係がないわけね?」

 僕は肯く。

「ねえ、考えるのが好きでしょう」

「好き……なのかな。そうなのかもしれません」

「でしょう?」

「僕の伝えたいこと、わかりますか」

「ええ、なんとなく。あなたがもう何周か丁寧に説明してくれて、私の方でも丁寧に聞いていれば、もう少しはっきりわかると思うけれど」

 それはどことなく甘美な響きを持った言葉だった。

「ん?」と深理さんは喉を鳴らす。手が止まっていた。

 僕の背後にもう一つ気配が加わる。おやじさんが奥から店の方へ出てきて、店舗と住居の境目、床が高くなっているところで右の壁に手を突いた。その目はきっと僕の絵に注がれている。強い意識を感じた。僕は感情を一度封印して手を動かした。面接のような緊張があった。実際そうなのかもしれない。背後の親子は僕の資質を見極めようとしているのだ。

「上等だなあ」とおやじさんが腕を組んで言った。僕は胴体の曲面に合わせて日の丸を描き入れたところだった。

 僕はひとつ安堵して息をつく。もう一度全体のバランスを見てコントラストの弱いところに鉛筆を当て、調整終わり。

「これでどうですか」

 僕が持ち上げた絵を受け取って、深理さんはとても嬉しそうな顔をする。

「ねえ、着色はできるの?」

「この絵にですか?」

「そうね。あなたに彩色の腕があるのか、ということ」

「ええ。水彩かアクリル、それにクレヨン、色鉛筆でも」

「うん」深理さんはしっかり頷く。「絵の才能を売ることに関してはやぶさかではない?」

「どういうことですか」

「もしあなたが描いてくれるなら、私はその絵を妥当な値段で買い取る。絵のサイズと題材はこちらで指定する。早い話、あなたの絵をうちで売ってみましょうかってことよ」深理さんは嬉しそうに、でもあくまで慎重に訊いた。

「売る?」僕はその言葉にいささか過剰反応してカウンターの角に膝をぶつける。

「それは快諾と取っていいのかしら、それとも拒絶?」

 深理さんはまっすぐな視線を僕に注いでいる。僕は彼女の顔をちょっと確認して、また絵に目を落とす。

「僕は自分の絵に自信があるわけじゃありません」

「だったら売れるような絵を描いて自信をつければいいのよ。私はまだ出来かけの素描しか見ていないけど、モノクロームのイラストでも構わないし、十分上手よ」深理さんはとても優しく語りかける。「塗りができるか、と訊いたのは、彩色されている絵の方が一般に完成度が高いとされるからに過ぎない。カラーイラストの方がお客さんの思う価値、いわば評価額は高くなるけれど、場合によっては、難儀して彩色するよりも、モノクロをたくさん描いた方が利益になるのかもしれない。それは私にはわからない」

 深理さんが言い終わるか終わらないかのうちにカウンターの上の電話が鳴り始める。ベースの音はほとんど掻き消される。彼女は背後を仰いでおやじさんと目を合わせると、出てくれるようにその所作だけで頼む。おやじさんは体を起してソールにつぶつぶの付いた健康サンダルをつっかけ、カウンターの外側に回って電話を取る。僕は顔を上げてしばらく電話に目をやっている。深理さんは猫が飼い主にするみたいに手を伸ばして僕の右肩に手をかける。乗せる、あるいは触れる、の中間を取ったような具合。

「実感が湧かないかもしれないけど、ただの趣味や特技か、それとも仕事や責務か、その二つは遠くかけ離れているように思えて、実は区切りは曖昧なものだし、それはね、簡単に飛躍できてしまう、跳び越えられてしまうものなの。だから、それがお金や権利に関わることなのかどうか、それが自分の利か不利かはきちんと考えなければいけない。特に、人間として自分が貶められることはないかどうか」深理さんはそこまでを少し自信なげに目を伏せて言う。そこから椅子を離して僕に正面を向け、続ける。「でも私の提案であなたが不利益を被ることはないと思うの。もちろん仕事のために時間や心の要領は割かなければいけないけれど、これは純粋にチャンスではなくて? 私はまだあなたの実力を垣間見ただけだし、まずはそういうつもりで描いてみてほしいのよ。気長に待つから、あなたの不安にならない速さで、ゆっくりやってみればいい。そうやって描いたものをここへ持ってきて、私が見てもう一度判断する。それなら構わないでしょう?」

「採算はあるんですか」

「あるわ」彼女はまた自信に満ちた目を僕に向けた。


深理さんは潮の渦のように力強く「僕」を手島模型に引き込んでいく。

まるでかつて狭霧がアイデンティティの議論に誘い込んだのと同じように。


この作品の「対称性」あるいは「聖数2」が発露していくのがこの辺りなのかもしれない。

対称性不在の第二章ここまでが若干だれているのはそのせいなのかもしれない。

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