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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第2章 踊り――あるいは居場所について
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狭霧のメール 2009年10月

 前のメールのことでひとつ付け足しておきたい出来事があったので、ちょっとしたお話にしてみました。

 ただこのお話を読んでもらうためには先にヒース・ミュアソロウのことを紹介しておかなければいけませんね。

 ミュアソロウ家は隣人です。つまり、私の北ワトフォードの家はニ戸建てで、1つの建物の中で仕切りの壁を共有しているのがミュアソロウ家です。建物そのものが離れている他のご近所とはちょっと距離感が違うってこと。ヒースはその一家の父かつ夫であり、近くの「ムーアハウス」という家具工房で働いています。

 その工房は本当にうんと市街地から離れていて、隣の民家まで1マイルもあるというようなところなので、大工たちはまるで打ち鳴らすかのように目一杯振り上げてトンカチを振り下ろしています。近くで聞くと鼓膜が破れそうだけど、そんな音だってどこへ届くこともなく空に消えていくのです。草原とサンザシの茂みだけが地平線まで続いています。工房の屋根に登るとそのさまがよくわかります。工房はとても古い煉瓦造りの重厚な建物で、中庭にほとんど朽ちかけた魚の骨みたいな螺旋階段があって、それをぐらぐら揺らしながら登ると屋根の上に出られるようになっているのです。階段があんまりぐらぐらするし、働いている人にとっては用もないので滅多に登る人はいないのだけど、屋上にはとてもいい風が吹きます。花の匂いのする風です。春になると一面に赤いポピーの花が咲いてそれはそれは壮観だそうです。私は楽しみにしています。ええと、そう、それがヒースの仕事場。そんな場所で働いているのがヒース・ミュアソロウ。

 一方の私は夏休みの間、小遣い稼ぎに近くのアルデンハムというゴルフ場で短期労働をしていて、ヒースが同僚と一緒にやってくることも何度かありました。

 では、本題。

 そのゴルフコースでのことです。

 雨の日に読んでもらうのがいいかな?


 以前にもムーアハウスの仲間や近所のおじさんたちと一緒にアルデンハムにやってくるのを見掛けたことはあったけれど、ヒース一人で現れた例はなくて、実際のところその日は例外だった。もともと3人の約束だったのが1人は急用、1人は肺の調子が悪くなったのでパス。妻と子供は出かけているし、家に居ても仕方がない。何しろもう車の荷室にクラブを載せてしまった。それでキャディに私を指名するんだから、話し相手になってほしいってことでしょう?

 外は雨が降っていて、1人の急用も、もう1人の肺病もそんな天気のせいかもしれない。雨降りがイギリス。でも普段の霧雨より少ししっかりした雨で、私が空いていたのも他のお客さんが少なかったから。

「やめておいたら?」

「いや。どういうわけか引き返す気分にならないんだ。これだけちゃんとした雨の中に出ていく機会もあまりないだろうし、どうせそのための1日だよ。ちょっとでも体調を崩しそうだと思うなら、無理はさせない。一人で行かせてくれればいい」

「いい、私も行きますとも」

 先行のパーティが詰まるわけもないので順当にアウトスタートして、ヒースは一人で黙々とボールを打ち、カートを動かし、クラブを選び、また打った。繰り返し。腕はまずまず、堅実型。ウッドで時々ゴロが出るくらいで、スイングはかなりゆったりしている。

 一人で打ってボールを追いかけているのがつまらなくなったのか、3番をやっとパーで沈めた後、パターを振り回しながら、君も打ってみないかと私に提案した。

「キャディなんだから打ったことくらいあるだろう?」

 確かにキャディの集まりで打ちっぱなしとコースを一度回ったことはあって、クラブの握り方やなんかはわかっていた。でもその程度だ。日常的に練習を嗜んでいる人間とは違う。

 4番のホワイト・ティまでカートを走らせて、まずヒースが打った。

 かなりいい当たり。230ヤードくらい飛んで右のラフに転がり込む。

 それからレッド・ティまで歩いて私にドライバーを握らせた。グローブはヒースの予備を借りる。指先がぶかぶかだ。何もかもびしょ濡れなので他人のものということはもうあまり気にならなかった。

 ヒースがティを左寄りに差す。

 黄色い雨合羽がごわごわして振りにくかった。

「ボールを失くしたらどうしよう?」私は実際に打つ前に訊いた。

「仕方ない。その時は一人で続ける」

 方角を決めて2回素振り、コントロールを意識したので距離は出ない。少しドロー気味、奇跡的にフェアウェイに残って、けれどコースの真ん中に木が立っていて、ちょうどその手前で止まってしまった。次が打ちにくいなあと思いながら飛んでいった青色のティを拾いに行く。

「巧いじゃないか」

 ヒースは本心で言ったようだけど、その感想にはちょっと納得が行かなかった。

「いや、もっとぎくしゃくしたフォームかと思ったんだ」

 カートに戻って荷台のバッグにドライバを差し、犬みたいに雨粒を飛ばして屋根の下に入る。

「前にブリッツの話をしたな」ヒースはカートを進めながら訊いた。

「ブリッツ?」

「1940年、9月、ロンドン空襲。人呼んでブリッツ。ドイツ語で稲妻」

「ああ」

「あそこにランカスターが加わるのは確かにおかしい。だが他の爆撃機の代役と考えれば、爆撃機そのものは場違いでもないんだな。8月にはイギリスもベルリンを爆撃していたから」

「当時の本人は登場できないのね」

「うん。飛行可能機がない。機種はいくつかあるんだが、どれも生産数が多くはないし、影も薄い。大した戦果を上げてないんだ」

「調べてくれたの?」私はグローブの手首にあるマジックテープを巻き直しながら訊いた。

「いや、聞いただけだよ。鳥を観る会の諸先生は時々そういう話をしている」ヒースは合羽の前を下げた。中は紳士らしくアーガイルのベストだった。パステルカラーのグレーとピンク。「君はどうなんだ、興味があるみたいだが」

「古い知り合いが詳しいの。半分はその子の影響」

 あなたのこと。

「ふうん」とヒースはハミングする。

 コースが緩く折れ曲がるところまで来て、私が先に2打目を打つ番だ。

「どっちに避ける?」とヒース。

「上を越えられないかな。そんなに近くないし」私は合羽の帽子を額の方へ伸ばして答えた。上を向くと顔が濡れるから。

「6番?」

「5番にする」

 カートに戻って5番アイアンを引っ張り出し、芝の深さを見る。あまり浮かせようとすると手前で盛大にダフりそうだった。

 そう思ったせいか芝生はほとんど捲れなかった。やっている間は都合よく忘れていたけど、お客ならまだしもキャディが相伴でやって(本当はタダでコースに出てはいけないのだ)コースを荒すのは全くいただけない。

 ボールは期待より低い軌道で、またドローっぽく木の先端の右側を回って右のラフに落ちた。ヒースの一打目よりいくらか奥だ。打ったところの芝生を叩いてクラブを戻す。

「空軍の話だけど、記念飛行隊っていうのがあるんだね」

 私の方でもちょっと調べてみたの。

「ああ、何かしら三桁の番号の飛行隊じゃなかったか」

「再現なんでしょう?」

「再現?」

「所属している飛行機の現役当時そのままの塗装じゃない」

「塗り直さなきゃ仕方ないよ。オリジナルの塗料が七十年も持たない」

「そうじゃなくてね、その飛行機の七十年前の姿じゃなくて、他の有名なパイロットが乗っていた機体とか、偉業を成し遂げた飛行機の塗装を真似ているんだって。要するに、演技してるんだね」

「ああ、そうだろうよ。有名になるってことは、飛行機に関しては、酷使されるってことだ。保存に当てるのは状態のいい飛行機だから、そこは折り合わない」

 ヒースの2打目に移動して、彼はユーティリティを持っていく。

「あと何ヤード?」ヒースはずぶ濡れになりながら振り返って訊いた。声の圧力で口元の雨粒がばっと飛んだ。

「190と少し」

「わかった」

 ヒースは手にしていたクラブでそのまま打った。

 スイング。ヘッドの軌道が雨混じりの空気を楕円形に切り取る。

 その一端から飛び出したボールは無数の雨粒とぶつかりながら突き抜け、グリーンの左横にぽとんと落ちたあと、傾斜に沿ってフェアウェイまで戻った。

 私の番。再び5番アイアンを振ってグリーンの手前に落とす。何よりクラブを振り抜いたあと顔が濡れるのでしっかり目を開けてボールの軌道を追うのが大変だった。

 ボールが離れたのでカートに戻る。クラブの頭を拭いながら。

「そうか、もともとは別の飛行機だったわけか」とヒースは呟く。「しかし、全く同じ塗料を使って全く同じように塗装したところで、その意味は今と七十年前で全然違っている。結局それは造られたものが何のために存在するのか、という問題そのものだ」

 造られたものが何のために存在するのか。

「例えば、ブリッツの記念日に君が見たランカスター、腹は何色だった?」

 カートを走らせる。大粒の雨がまるで陽気なカリブのドラマーのようにカートの屋根を叩きまくっていて、少し声を張らないと話が通じないほどだった。そんな屋根の裏にロンドンの青空を思い浮かべるのは骨が折れたけれど、晴天に浮かんだ長い翼、その下に吊り下がった4発の発動機のシルエットをどうにか記憶から引っ張り出した。

「黒だったと思う」

「なぜ黒いと思う? 青空に真っ黒が飛んでいたら目立って仕方がない。軍用機というのは、基本的には、周りの景色に溶け込むような塗装をするものだ」

「じゃ昼には飛ばなかったんだ」

「飛ばなかったわけじゃない。梟だって昼に飛ぶことがあるように。しかしそれは気晴らしか移動、練習のためであって狩りはしない。ランカスターがドイツへ爆撃に行ったのはほとんど夜間だよ。向こうの町に着くのが真夜中か深夜だった。上の迷彩は地上の色に馴染むため、ラウンデルは国籍を示すため、胴体に描いた文字は所属を示すため。思い浮かべて」

「うん」

「でも今そんな塗装に工夫したところでドイツ軍は撃ってこないし、サーチライトを灯すこともない。何の意味もない」

「何の意味も? 当時の姿を残すことに意味があるんでしょう」

「そう。敵の目から逃れるためでもないし、味方の誤射を防ぐためでもないし、所属を明らかにするためでもない。でも当時は確かにそういうきちんとした目的があって塗っていた。つまり、同一の塗装でも、昔と今では目的が異なっている。実用と展示だ。違いはそこにある」

「今はただ記憶を呼び起こし、維持し、あるいは人々の娯楽のために。確かに。でもいまこの時代に古い飛行機を見上げるのは彼女たちの戦力としての使用を想起する人ばかりではないかもしれない。ある人の目には自由の象徴に映るかもしれない。ある人にとっては単なる騒音に過ぎないかもしれない」

「そう、もちろん。それはつまり……」

「――つまり、展示に供されるということはある種の辱めでもありうる。当時の在り方や価値がそのまま守られるわけではないから。どれほど物理的に素晴らしい保存をしても、それは本当の意味での保存ではない。機能や意味の保存ではない」

 カートをバンカーの手前に止め、グリーン際まで歩いてきてカップの位置を確かめる。ここまで来ると繊細な力加減が必要だけど、まだ雨の日の勝手が掴めないのでアプローチウェッジで手前に落として転がすことにする。案外芝が速い。カップの横を通り過ぎて向こうのカラー近くまで転がっていった。

 ヒースは私と同じクラブを使ってカップの近くにボールを止め、次の1打で軽く沈めた。またパーが出た。私はもう2打使ってダブルボギーだった。

「まあ、構造的にだって完璧には戻らないさ。古いものだからな。今の技術で作られる機械とは違う。比べたらずっと粗雑で、洗練されてなくて、扱いにくい機械なんだ。それに素材そのものがボロになっている。ボロが過ぎて壊れる部品がある。交換しないと飛ばせない。でも何十年も前の規格で造り続けている部品なんてほぼない。新しく手製で作るか、それとも他の機体に使われていた部品のストックから引っ張ってくるか。古い部品に交換するとそいつももうボロだから、交換したそばから壊れるかもわからない。新しく造り直した部品は今までのものとは違う形になることもあるし、仕組みが変わることもある」

 ヒースはカートに向かって歩きながら喋った。私の反応は見ていないようだった。

「再生は難しく、完璧には至らない」私は雨の中に呟いた。

 それから5ホール付き合って、やっぱり徹頭徹尾順調とはいかないもの、1回だけボールを失くしそうになった。7番のティーショットを左の林に深く打ち込んだの。ピンボールみたいな音がして、どこへ行ったか全然見当がつかないから、探すのに10分くらいはかかったと思う。

 クラブハウスに戻る頃には雨の冷たさで全身が震えて爪の根元が紫色になっていた。さすがにヒースにも堪えたようで、後半をキャンセルして温かいシャワーを浴びることにした。幸い雨は強くなる一方で客足も戻らないのでさっさと仕事を切り上げても支障なさそうだった。 


 70年前の世界を思い浮かべる時、私が思うのは「全てのものごとは一定ではないのだ」ということです。物の形や意味が変化するように、人もまた姿や心を変化させていかなければならない。あなたの姿や心も、きっと変わっていくのでしょうけど。


(飛行機の専門的なところは検索しただけの翻訳だから、変だったら直して) 


この区間では深理さんとの出会いと狭霧の語りが対になっている。

一見、ユーラシア大陸を挟んでこちら側には飛行機の模型しかなく、あちら側には飛行機の実物があるように思われる。

しかしそれは本当に実物なのだろうか。記憶とその記号に過ぎないのではないか?

だとすれば「本当の飛行機」はどこにもないのだろうか? それは完全に失われてしまったのだろうか?

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