表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第2章 踊り――あるいは居場所について
36/132

模型は作らない?

 カウンターには客との商品のやり取りをするための広場が真ん中にあって、その周縁であらゆる道具が一見無秩序ながら洗練された即応態勢を取っている。襞の中央部がすり減った水色の小銭受け、ボタンが茶色になったカシオの大判の電卓、ゼブラのポールペンとポールペン立て(ペンは刺さっていない、横に寝かされている)、領収書など各種伝票、メモ帳代わりの四つ切りA4裏紙、また一周り外側にネピアの箱入りティッシュ、鋏やカッターの刺さった緑のペン立て一体型セロテープ台座、店の銘が入った無漂白紙の十二連ブックマッチの箱。そして妙に新参者感を醸すパイオニアの黒いナンバーフォン。

「この辺りは猫が多いですか」僕は訊いた。

「多いわね。人慣れしているから二三度餌をやればすぐに懐くわ」

「餌をやってもいいですか」

「散らかさなければ、どうぞやって」

 僕は買ったばかりのツナ缶のことをちょっと考えた。

「あなたは大学生?」

「いいえ」

「じゃ高校生」

「ええ。こんな格好ですけど、今日は期末試験なので昼で終わりなんです」

「私服高?」

「そうです」

「それじゃあ頭のいいところじゃない?」

 僕はそれについては何も言わなかった。頭はだんだんと思考能力を回復していた。目も暗い店内に慣れてきた。左手のカウンターにアイロン台が置かれている。

「今は営業時間外ですね」

「今日は大学が早く終わったから。あなたと同じ。でもお客さんは来ないわね。今日はあなたが一人目」彼女はアイロン台を見やる。「だって、シャッターを閉めているよりは開けている方が近所に面目が立つでしょう? その程度の気合だから、こうして接客業に似合わないこともしている。ごめんなさいね」

「いいえ」僕は立ち上がって椅子の脚に鞄を立てかけておく。麦茶を飲み干す。「ごちそうさま。少し店の中を見せてください」

「ええ」と肯いてすぐ、彼女は丸めた左手で口を押さえた。

 笑いを堪えていた。

「今までなぜ入ってこなかったの?」と続ける。

 僕はすぐに答えなかった。咄嗟に言い訳を考えようとしたせいだ。

 すると彼女は手を下ろして指先を小銭受けの縁にかけ、頬のひきつったまま「もしかして店の人の方から呼ばれるまで待ってたの?」と追加で訊いた。

 僕は相手の目と指先を交互に見る。指先から目に、目からまた指先に。右手と指先の形が違っていて、左の方が少し幅が広く丸かった。カエルの吸盤のような感じだ。

「そうかもしれない」と僕。

「やっぱり入りづらいのかな……」と彼女は溜息。

 店の中は小さな車庫くらいの広さで、間口方向に両面の棚が一列、それに壁付きの片面の棚が二列、そのほとんどがプラモデルの箱で埋まっていた。スケールごとに、入って左の通路の左右の棚に1/72、右側の通路の左手の棚に1/48、右手の棚に1/32と分かれていた。72は品数が多いので二面使っている。48の列に1/144、32の列に工作用具や塗料、それから資料書籍が並んでいた。書架とカウンターとの間の隅に折り畳みコンテナが二つ重ねてあって、その中に仕入れた品物がまだそのままになっていた。

 僕は主に72の棚を見た。だいたい模型メーカの製品順に並べられている。異なる大きさの箱もいっしょくたに積まれている。所々に隙間ができて、斜めになったり奥に引っ込んだり、いささか雑然としている。まるで老魔女が古今東西の魔術書を仕舞っておくために作った建てつけの悪い納屋みたいだ。そう感じるのには海外製の模型が多いせいもあるかもしれない。エアフィックス、レベル、ズベズダ、トランペッター。僕がわかるのはそれくらい。知らないメーカーのもある。天井には三菱重工製の空調機が昆虫の脚のような金具で設置されていて、自分の振動のせいでぶーんと小刻みに震えて輪郭がぶれている。吸い込み口に埃が溜まっていてあまり整備が行き届いているようには見えない。

 店の奥からはアイロンをカウンターに立てるからんという音やスチームのちょっと生き物的な鳴き声が聞こえていた。店の人は僕がカウンタを離れてからアイロンがけを再開してシャツを二枚ほど仕上げた。そのハンガーを二階へ掛けてきて、カウンターを出てこちらへ歩いてくる。結局僕は彼女の体つきを気にしていて、また意識してそれをやめる。目を合わせようとすると少し見上げる形になる。背は僕より高い。

「何を探しているの?」

 何かを探しているというわけじゃなくただ眺めていた。でもそれは言いづらい。「何かこれが欲しいってわけじゃ……」

「いいのよ、見ているだけでも。他では見られないようなのも多いでしょう」

「ええ、本当に。だけど迷惑じゃありませんか。買いもしないのにここに居るというのは」

「私がそんなに頑張って接客しているように見える?」

 僕は首を傾げた。

「うちは来客より電話注文で宅配というのが多いの。顔の見えない相手ばかりで時々気が滅入るわ」

 下を向くと彼女のつっかけの爪先が見えた。店の床は乳白色のリノリウムで棚の足の近くに黒いひっかき傷が多い。黒ずみの具合を見るとかなり歪んでいるようだ。

「お姉さん」と僕。

「ミコト。深い理と書いて深理。あまりシックな名前じゃないわね」

「深理さん」

「はい」

「店先の模型を作るのは店主のおじさんですよね」

「そう。私のお父さんね」

「あなたが手島さんですか」僕は驚いた。

「そうよ。あそこに飾ってあるのはお父さんのと、それから貰いものが少し」

「じゃ深理さんは模型を作りますか」

「いいえ」

「何か理由がありますか?」

「理由って、私が模型を作らない理由?」

「ええ」

「そう言われても、うーん……。作っている人のことは長いこと近くで見てきたけれど、やってみろと言われたら、嫌だっていうほどでもないのだろうけど、なんだろう、それが自分の仕事だって感じることがないからかな」

 僕は頷いて「僕も作りません。今は」と正直に言った。

「あら」

「飛行機も模型を見るのも好きですけど、最近は自分では作る気が起きないんです」

「なぜやめたの?」あまり興味がありそうな訊き方ではない。儀礼的な質問だった。

「それが――模型が本物の飛行機ではない、からでしょうか」僕はそこで言葉を切った。このままだとどんどん面倒くさい話に落ち込んでいってしまいそうな気がしたからだ。

「よくわかりません。ただ根を詰めて作ろうという気力がぱったり途絶えてしまって」

「それは困ったわね」彼女は棚の上を見上げた。それからショウウィンドウの方へ顔を向け、目を細めて外を見る。ネコに何か動きでもあったのだろか。「お父さんがこれを商売にしてから私も少しは飛行機や模型を理解するようになったけれど、全般的に肯定するというのはまだ駄目ね。だから商売気がないのかも」

 彼女は僕の前を抜けて表の方へ歩く。ショウウィンドウの裏は引き違いのガラス戸で、下に鍵が付いている。その少し奥まった桟の手前に手を置いて外を眺める。公園の木々の枝が心地よさそうに揺れていて、激しい日差しも偏光フィルムのおかげでさほどのものには見えない。

 彼女はそれとも手前の模型を見たのだろうか。

「だけど好きになれる部分もあるわ」

 ガラスの棚の下から二段目に、陸上用の台車を模した台座に零式観測機の48モデルが乗っている。フロート付きの水上機だから台座がないと自立しない。改めて視線を追うと彼女はそいつを見下ろしていた。

「素敵でしょうね。トラックの青い海で真っ黒に日焼けしながら飛行機を整備して、バラックの無線機にヘッドフォンを繋いで出撃の一報を待っている」

「水上機が好きなんですね」

「というより景色が好きなのよ。そこに飛行機だけあってもたぶんあまり感動しないわ」外に顔を向けたまま答える。辺りの反射光がその顔を白く染める。それから「ボックスアートの雰囲気は大切よね」と彼女は呟く。ボックスアートというのはそのまま箱絵のことだ。

「うん、イメージできます。白い砂浜にゼロ観が引き上げられている」

「日本のプラモデルは確かに出来がすごくいいんだけど、ことハセガワに関してはパッケージの力も計り知れない。小池繁夫のイラストは好きよ。どうして軍用機をあんなに静かに表現できるのかしら」

「彼のイラストは僕も好きです。あんな絵が描けたらすごいだろうな」

 彼女はガラス戸の桟を離れ、通路の手前の方で陳列架に指を向けて何かを探す。ハセガワの白い箱が固まっている辺りだ。

 僕は彼女のちょっとした動きにいちいちどきどきして、何をするつもりなのだろうといちいち考えている。

 彼女はハセガワの一画からA帯の箱を一つ引っこ抜いて僕に示す。72スケールの隼。細長い箱、白地にオレンジの帯。その箱絵もまた小池繁夫の筆によるものだった。「穴吹軍曹の吹雪号。バックにB‐25。会敵の緊張感、大気感。でもケレン味はない。凪いだ海面のような雰囲気」

 深理さんは体の前で箱を見せてちょっと肩を竦め、すぐに棚の中に箱を押し込んでしまった。額にかかった髪を手でよける。相変わらず三菱重工の空調機がぶんぶん唸っている。本来天井パネルに埋めて使うものだから裸だと調子が狂うのかもしれない。

 電話のベルが聞こえた。それはは最初隣の家から響いてくるみたいに無関係なものに感じられた。でも実際にはこの店の中で鳴っている。深理さんは胸の上を手で押さえて小走りにカウンターへ戻った。僕も椅子のところへ荷物を取りに行った。

「帰るの?」深理さんは受話器を取る前に訊いた。

「はい、そろそろ」

「また来てね」

 僕は肯いて鞄を背負う。

「あなたの名前をまだ訊いていなかったわね」とほとんど受話器を浮かせながら彼女は最後に言った。


 自分がとても強い魅力の前に釘付けにされているのがわかる。頭の中に痺れた雲が詰まっているような感覚が続いて、手島模型をあとにして家まで歩く間も、家に帰って買い物を奥の戸棚に仕舞う間も僕は深理さんのことを考えていた。彼女の目や体が頭から離れなかった。目に映った彼女の姿の映像を何度も反芻していた。ソファに座って目を瞑ってまた一から想像する。「どうぞ」とか「あら」とか言う声が再生された。それから妙に素気ない自分の言葉や表情や仕草がだんだん気になってきた。もう少し長居してもよかったんじゃないかという気もした。もしかしたら彼女もそれを少し期待していたんじゃないだろうか。

 でもそれは実際には遠すぎて探りようのないものだった。近くで探りたいという思いが逃げ場もなく蓄積していくだけ。きっと彼女の方では僕についてこんなに考えていないだろう。そんなことはもちろんわかっていた。当然じゃないか。

 彼女からこんなに強い印象を受けたのが自分でも不思議だった。普通、初対面の相手にそんな頓着をするものではないし、その後気がかりになる相手だからといって初対面の印象が他の人々と比べてとりわけ強いなんてことはないはずだった。人間の感情は、惑星の核に向かって沈んでいく地殻のように、その後の関係の中でゆっくりと変わっていくものではないのか。

 疲れ切ってどこか遠くぼんやりと明るい海を漂っているような感覚だった。頭の痺れはまだ続いていた。あらゆる異常から離脱するために僕はシャワーを浴びた。シャワーヘッドを高いラックにひっかけて額から水を浴び、口の中では離脱を唱えていた。水を止め、濡れたまま洗面台の鏡を覗き込んだ。自分の姿は自分で思っているより醜い。彼女の中に見た美の一片も含まれていない。一度下を向くと顔に髪がかかった。その一筋を狙って唇を閉じると口の中に入った毛先が舌に触った。

 髪を切ろう、と思う。


この辺りから「僕」の容姿に関する叙述がちょっとずつ増えていくような気がする。

精神に対する肉体というものへの意識の萌芽がきっと自分自身へも向いていくのです。


模型の話がわからない人はともかく二人の話が合っていることに注意を向けてくれればよいです。

深理さんは職務上模型に詳しいのであって、飛行機に詳しいわけではありません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ