深理さんとの出会い
その年の秋から僕はある模型店のために絵を描く仕事を始めた。少し風変わりな仕事だ。千住大橋駅の近く、閑散とした商店街から一つ裏手に入った通りの、昭和後期のひしめき合うような長屋の並びに小さな模型店があって、飛行機のキット模型だけを専門に扱っていた。緑の深い公園に面していて、終日人通りは多くない。時間帯によって子供が集まったり犬の散歩が通りかかったりするくらいのもの。来客も日に二桁に乗れば繁盛。親子二人、ジャン・レノみたいな捉えどころのないおやじさんと、その娘の深理さんが細々と経営をやっていた。
初めにこの町へ来て散々探検をした時から店の存在は知っていた。表のガラスに手の込んだ模型を並べていて、それがどれも素晴らしい出来だった。とてもいい模型を作るのだ。店は北千住の中央からやや南西にあって、僕の最寄り駅の関屋より一駅前、千住大橋で降りると寄っていくのに好都合だった。それから近くを通りかかる時は妙に寄り道をしていきたくなって、でもその度ショウウィンドウを見るだけで満足してしまうというか、ガラスの向こうの店内は眠ったように人気がなくて、暗くて、そのせいで中へ入るのはどうも尻込みしてだめだった。僕が北千住の生活を始めてから、いつの間にか半年もそんなことを繰り返していたのだ。
九月のある午後、半日で学校の終わった僕は千住大橋で降りて、駅前の薬局で安売りになっているツナ缶の四個パックを買い込んだ。ツナ缶のブランドにはこだわりがあって、北千住一帯では定期的に底値にしてくれるのがそこしかなかった。買い溜めをしておいて、次いつ安くなるかわからないので細々と計画的に開け、特売日が来ると買いに行って前回の残りを気前よく使う。それが僕のツナ事情だ。
ついでにパスタソースの素や総菜パンを買って、パンは手提げ袋に、それ以外は鞄に入れて炎天の下に出る。どうする、今日も寄っていくか。
手島模型は営業時間がネックだった。火曜、水曜、金曜の十六時頃から二十時頃までしか営業しないというとても偏屈な店なのだ。普段の放課後なら夕方に通るからきちんとやっているけど、まだ十四時だ。どうだろう。閉まっているかもしれないけれど、いつものルートだから、まあ、寄ってみて開いてなかったら諦めてそのまま通り過ぎよう。確認がてら行ってみればいい。
それにしても過酷な残暑だった。日差しは天上から、またアスファルトに反射して下方から、まんべんなくオーブンの火のように肌全体に焼きつける。風も弱い。まるで街が丸々サハラ砂漠に転送されてしまったみたいだった。顔がつばの影に入るようにキャスケットを目深に被り、首筋が焼けないようにシャツの襟を立てておく。しばらく歩くと背中と肩にぐっしょり水たまりができてきた。
手島模型の前に着く。庇が短いので日陰の中に入ってもじりじりした照り返しは避けられない。キャスケットを脱いで頭とシャツの裾を煽ぐ。髪の間に溜まっていた湿気が少しばかり追い出される。その姿が暗いガラスに映る。
どういうわけかシャッターは開いていた。きちんと端から端まで上げてある。やっているらしい。
とはいえ店内は別段活気があるというふうでもなくて、相変わらず濁った淡水の水槽のように静まり返っていた。淡水魚を飼っておく水槽というのは、十五センチ辺の可愛いものでも六十センチ辺の立派なものでも、とにかくフィルタを動かしておくだけでガラス面を掃除しないでおくと、そのうち緑色の藻が繁殖してきて恐ろしく鬱蒼とした雰囲気になる。大抵の場合中の魚たちはそれでも元気いっぱいに泳ぎまわっているのだけれど、中で何が起こっているのか窺えないのがなんだか怖ろしいのである。手島模型の場合にはショウウィンドウは綺麗に磨き上げられているのだけれど、そこに偏光シートが貼られているのと店内の照明が暗いせいで、特に日差しの強い日は中の様子が窺いにくかった。
僕はひとまずショウウィンドウを一覧する。ここに飾られている模型はかなり頻繁に展示替えされる。僕は1/48スケールのF‐15に目をつける。宝飾店式の値札が手前に立ててあって、キットで買うより一桁高い。しかし素晴らしい出来栄えだ。おやじさんが作ったものだということを僕はすでに知っている。ある期間でこれだけの質のものをつくる、それに感心しているのだ。
僕は窓に何か動くものを見つける。でもそれは店の中のものではない。映り込んだ背後の景色の中で動いたものだ。焦点を合わせる。黒い。黒いネコだ。僕は体の向きを変えてネコを見る。ネコは公園の入り口にある柵の下から緑色の目をちょっと僕に向け、すぐにそっぽを向いて植え込みの裏に見えなくなった。
キャスケットを被り直し、シャツの襟がちゃんと立っているか確かめる。道を渡って公園の敷地へ入る。ネコの行った方には木陰になったベンチがあって、太った女の人が座って足元に居るブルーグレイのネコを撫でていた。彼女は紺の長いスカートに襟とカフスだけ黒い薄く軟らかい布地のブラウスを着て、上体を屈めて右手でネコの顎を撫でていた。左手は肘を膝に突いて支えにするついでに耳の下で髪を押さえている。髪は肩ほどの長さで緩くウェーブがかかり、色は赤味のない灰色に近いブラウンだった。僕の方からは彼女の左の横顔が見えた。鼻の高い綺麗な横顔だった。特に額から鼻梁にかけて窪みのない滑らかなライン、鼻の下部から唇までわずかに後退したラインは素晴らしかった。「黄道十二宮」や対作の「蔦と月桂樹」など、ミュシャはよく横顔を描いたけれど、どうも通じるものがあった。
彼女はまず向かってくる黒猫に気付き、それから公園の入り口に立っている僕に気付いて顔を上げた。正面が見える。細面だが面長というほどでもなく、頬と顎の下の肉付きがよくて、唇は薄く、日本人離れした繊細な目鼻立ちだった。目頭が深く、細い鼻筋や眉との間は狭く、目は瞼いっぱいに開いている。それが僕の目を引きつけて離さない。人間の目がこんなにガラス玉のようにつやつやしたものだと今まで感じたことがなかった。
「お店に入ったら?」彼女は訊いた。
僕は答えずにいた。
すると彼女は立ち上がった。体の前後に随分厚みがあるから太っているのだと思ったけれど少し違っていた。背中をまっすぐにしてみると、胸が大きくてウエストの辺りまで落ちているだけだった。腰回りや脚には確かに肉が付いているが、肩は薄い。
「あなた、うちを見に来たんでしょ?」彼女はそう言って両方の腰骨の辺りに手を当てて近づいてくる。ネコたちは彼女を見上げる。でもついて行こうとはしない。彼女は公園の中央の方へ大回りに、だいたい一メートルくらいの間合いで僕を避け、少し横にこちらを見ながら、短く、ほんの小さな微笑を浮かべる。でもそれは心を許したものじゃない。むしろ警戒心から出た微笑だった。
公園の車止めを抜け、道を渡る。
「おいで」と彼女は手島模型の店先でこちらを振り返って呼んだ。半自動扉を引いて店の中に入る。つららチャイムがからんからんと鳴る。
僕はそこでようやく彼女が手島模型に入れと言っていたのだと理解して後を追った。店の中は冷房が効いていた。古い紙の匂いと冷媒の匂いが混ざっている。ぎっしり模型の箱の詰まった棚が二列に並び、その間がカウンター越しに奥の居間まで抜けていた。一段上がった奥から彼女が再び姿を現してカウンターの上にグラスを置く。
「お茶をどうぞ」
奥へ歩いていくとカウンタの手前にドーナツ椅子が用意されていた。彼女はカウンタの中で座ってこちらを見上げている。僕はその目や表情だけを見るように努めた。
「前にもここへ来たことがある?」
僕は肯く。
「何度か」
再び肯く。
「何回?」
首を捻る。
「ねえ、私はまるで命からがら強制収容所から逃げ出してきた人と話しているみたいよ? 私ばっかり質問してるの」僕の応答を見て彼女は苦笑いした。
僕は驚いて口を開く。「ごめんなさい。緊張するとなかなか言葉が出なくて」
「どうぞ座って。具合は悪くないのね」
「平気です。暑くてちょっと頭がぼーっとするけど」
「お飲みなさいな」
ドーナツ椅子に座ってグラスを取る。麦茶だった。ちゃんと麦の味がする。
「おいしい」
「それはよかった」彼女はカウンタの縁に肘を置いて右手で顎を支えて僕を見ていた。ぷっくりして爪の細い柔らかそうな手だった。




