自殺語り
2019年9月12日、第2章前半調整のため加筆・改稿。
食器洗いは羽田がやってくれた。海部はソファにあぐらをかいてテレビで夕方のニュースを見ている。ちっとも動かない。瞑想でもしているのかもしれない。羽田は最後に鍋を焜炉に干してリビングに出てくると、「氷枕はいらない?」とか、「汗をかいて服が冷たくなってない?」とか、いろいろ僕を気遣ってくれた。
それから海部は彼女を自分の膝の間に座らせて、テレビに顔を向けたままその腰の一番細い辺りに手を回した。羽田は海部の腕や肩のあたりに凭れよい位置を探して収まりをつけ、エウリピデスの文庫を自分の下腹部に乗せ、彼の膝をほとんど無意識に撫でながら僕に風邪の症状の詳細を尋ねた。熱の高さ、食欲、いつ発症したのか、そんなこと。僕はもう一方のソファに横になってがらがらした声でそれに答えた。
「ここのところ自殺が多くないか」海部が僕らの話を無視して言った。相変わらずテレビに目を向けたままだった。千葉で中学生が自殺したというニュースをやっていた。羽田も話をやめてしばらくテレビを見る。
「二学期が始まるからだよ」と彼女。
「確かに、この前もあったね。どこか……」と僕。ニュースでやっていたのは覚えているけど場所が思い出せない。
「学校が嫌で自殺するのか」と海部。
「だろうね」と僕。
「へえ。夏休みは嫌じゃないのかね」
「学校へ行って、そこで周りの人間たちと関わりにならなきゃいけないのが嫌なんでしょ。仲が悪いだけならいいかもしれない。でも向こうから突っかかってきたり、先生だったら縁を切りようもないし。一人との仲の悪さが周りの大勢とのやりづらさに直結している世界だからね。夏休みならそれを遠ざけておけるから、いいんだよ」僕はがらがら言い返した。
「嫌な時が続いている間じゃなくて、嫌じゃないものが終わろうとする時に死ぬのか」
「夏休みが希望なら、一学期は乗り切れても二学期は地獄かもしれない」
「冬休みは違うのか。希望にならないんだな」
「二学期は長くて、冬休みは短い。それに冬だ」
「バイクで事故って死んだ奴、憶えてるか」
「六組の?」
僕はそれからしばらく死んだ上川のことを考える。
上川とは一度だけ話をしたことがあった。相談じみたことじゃない。彼の中学の同級生が僕のクラスにいて、その彼を媒体にした話の中にちょっと加わっていただけのものだ。調子が良くて自虐的なことばかり言っていてあまり頭のよさそうなやつじゃなかった。白と黒のバスケットシューズを履いていたのを妙に鮮明に憶えている。学校が始まってすぐ校内で煙草を吸っているところを見つかって停学になり、停学を食らっている間にバイクを乗り回してとうとう夜の道でトラックに轢かれて死んでしまった。バイクは魚の干物のようにぺたんこになってガードレールに引っかかり、道には三百メートルにわたって彼の這い進んだ跡が血液の筋になって残っていたという噂だった。それが事実だとして、彼が何を目指して瀕死の状態でそんな距離を這っていったのかは謎のままだった。
僕が思い出している間にカップルは話を続けていた。
「あいつ自殺したんじゃないかな」
「朝の授業の前にみんなで千羽鶴折ってあげたね」
「周りの気づきとか、助けとかが足りなかったって、言うよな。識者って連中はだいたいそう言うんだ。でもそれは違うよな。自分がそれを求めていたら違ってたじゃないか。求めなかったのは自分だろ」
「ニュースに文句言っても仕方ないでしょう」
「何で逃げ出さないんだろう。そこんとこが俺には理解できない」
「逃げられないんでしょう」
「なあ、ミシロちゃん、聞いてるかい、俺の話」海部は僕に向かって言った。
「うん、聞いてるよ」横になって毛布にくるまったまま首も動かさずに答える。ちょっと唸ったくらいの発音。
「逃げれば助かるじゃないか。でも逃げないんだな」海部は自分で話を続けた。「たぶん逃げた先の生活を肯定的に想像できないんだろう。それより現状の過酷な環境に耐えながらそれが正常に戻るのを期待している方が楽なんだよ。楽な方向を選んでいるうちに、なんつうか、馬鹿高い壁のぶつかる隅のところまで来ちまうんだろうな」
「死んだ子に同情してるの?」羽田が訊いた。
「逃げないっていうのは、生きる能力の欠如だよな」
「同情でしょ?」
「自殺ってのはある面では死刑と同じなんだ。死刑の名目っていうのはいくらやっても後世の見込みのない人間を社会に再び放さないように殺してやるってことだろ。単に生きていく能力のない人間の場合は、大人の責任とか義務とか、そういうものを背負う気にもなれないし、将来に希望も見えないし、そういう自覚のある連中が自殺をするんじゃないのか。自分が生きていても何の意味もない、ただ世界の負担になるだけだってさ。だから、仕方がないんだよ。生きる能力を備えていない奴の中には、生きる能力のある人間の思考を借りて自分自身を処分できるやつもいる。それが自殺なんだ。利口な人間ほどきっとそう思うだろう」
「バカなら死なない?」
「さあ。世渡りがあまりに不器用で進退極まるってことも、あるんじゃないか」
「じゃあ、物事上手く行ってれば死ななくていいんだ?」
「そう感じて、他のことを考えずにいられる人間なら、そうなんじゃないか。過酷な環境でも生きていける。仕事も金もなくたってしぶとく生きている人間なんていくらでもいるじゃないか。彼らにはちゃんと生きていく能力があるんだよ」
「それはそれで利口じゃないの?」
「この世で生きていく能力の高い方が利口だ、賢明だなんて誰が決めたんだ。俺はむしろ利口なやつほど世の中の理不尽に早く、多く気づくものだと思うんだよ」
「自殺する方が賢明だって言いたいみたいね?」
「そこまで言ってない。ただ、生のモチベーションを維持するのにその分多くのエネルギーを要するのさ。エネルギーか、あるいは救いが」
「救い?」
「本当に死を決意した人間に向かって、死ぬな、生きていればきっといいことがあるなんて言う奴がいるけどさ、ありゃあ相当無責任だよな。自分でサンタクロースの存在を信じている親くらい無責任だろ。いいことがなかったから死のうとしている。もっとも、私がいいことを与えてやるから死ぬなというのなら実行すべきだろうけどな。たとえば、失恋して橋から飛び降りようとしている男がいる。見物人がやめろやめろと叫んでいるが男は聞かない。ところがそこに一人の女がそっと近づいていって頬にキスをする。こういうのがあったら感心するが、女の行動は自分に男の存在意義を負わせることなんだよ」
「自分が男の存在意義を負った、じゃない?」と羽田。
「いや合ってるよ。男の存在意義を負ったのは男の中の彼女であって、現実の彼女じゃないからな。自殺への決意は男の精神の中で起こっていることなんだから、止めるものもやっぱり男の精神に入っていくものなんだよ」
「でもだからって現実の彼女がキスに責任を持たなくていいわけではないでしょ」
「そう。もし男をそのまま生かしておきたいなら、彼女は男の中の自分も生かし続けなきゃならない。そして多くの人間は赤の他人のためにそこまで大きな義務を負おうとはしない」
「そこまで自分の人生を犠牲にできない」僕は言った。
「その罪だか、やるせなさだかを、だから、周りの気づきや助けが足りなかっただとか、別のもの、別の人間になすりつけることでしか、自分を正当化できないのさ。いや、正当化する必要なんてない。別に黙殺しておけばいい。でも正当化した方が、何か言った方が、体面がいいんだ。少なくとも、いいと思い込んでいる」
「自殺をなくすことはできないし、なくす必要もない、ということなんだろうか」
「わからない。それは根本的には、人間は生まれてくるべきなのか、という問題と対になっている。生まれることに目的を与えるべきでないなら、やはり死ぬことにも目的を与えるべきではないんだろうな。ただ現実に起こってる自殺の多くにはどうやら原因があるわけだろう。それは誰か個人のせいかもしれないし、複雑な事情によって生起した状況のせいかもしれない。それは結局のところ、家族とか、学校とか、仕事とか、人間と人間の接触を強要する社会のシステムに起因する。そしてそのシステムを醸成しているのは人間と人間の接触を当然視する人間たちの思い込みなんだ。そのシステムを解体するためには、接触したければすればいい、接触したくなければしなければいい。あるいは接触したがる方が特異なのかもしれない、というくらいの考え方が必要だよ。でも多くの人間はそこまで利口じゃないし、それゆえに死に近づいたこともない」
「あんたは利口なのね。でも死に近づいているようには見えない」羽田は海部の膝を撫でながら言った。
「さあ、どうだろうか」と海部。リモコンを持ってチャンネルを変える。野球のナイターが始まろうとしていた。
僕は頭まで毛布を被る。
「羽田は自殺の話になんてよく付き合ってられるね」僕は言った。
「私は別にいいけど、付き合っていられない?」羽田はけろっとした声で答える。
「今この列島に数百数万のルサンチマンが渦巻いているのかと思うと僕はいささか暗澹たる気持ちになるよ」
「ふうん」
「面白い?」
「何?」
「海部とそういう話をするのって君は面白いのかな」
「うん。まあ、そこそこ面白いと思う。そうじゃなかったら彼女やってないでしょ」
「それもそうか」
対等な誰かを。
例えば海部はどうだろう。彼は僕にとって対等に心を開くことのできる相棒だろうか。僕らは確かに時々議論する。でも僕と海部の議論が占める割合というのは残念ながらそれぞれの中で違っている。僕はほとんど海部としか議論をしないけど、海部は僕ではない大勢とも議論をする。海部は僕に面白い意見を期待しているけど、僕はそれに応じているに過ぎない。お互いの価値が違っている。だからそう感じるのだろう。対等ではない、と。
「しかしまあ、ミシロちゃんがただの風邪でよかったよ」海部が言った。
「よくない。喉はじんじんするし、世界はぐるぐる回ってるんだ」僕は毛布の中から言い返した。
「そういう意味じゃないよ。学校に来たくないんじゃないかって思ってたんだ」
「僕が?」
「ああ」
「どうして」
どうして、とは言ったものの、なぜ海部が自殺について熱く語ったのか、そこにきちんとした理由があったことに僕は気がついた。彼は僕が何かしら学校絡みのことで思い悩んでいるんじゃないかと心配していたのだ。
「初日から二日も来なかったらちょっと気になるだろ。それにミシロちゃんは時々、休み時間とか、朝とか、心ここにあらずって感じで考え事をしているからな。それはなんだか、ここではないどこかに行こうとしているみたいな、そんな感じがするんだよ」
「でも僕には、実際のところ、学校に行きたくない理由も、それと同じくらい、どうしても行かなければならないって理由も、特にはないんだ」
「それなら結構」
「海部ね、自分じゃ言わないけど、憂鬱になるくらい心配してたのよ」と羽田が補足した。
「羽田の目にはそう見えたみたいだな」と海部。「いてて……」
僕は毛布の裾を御簾のように少し開けてカップルの様子を窺った。羽田が海部の脇腹に肘を突き立てているところだった。でも羽田もさほど力を入れているわけじゃないし、海部も本気で痛がっているわけでもなかった。海部はソファに沈んで野球中継を眺め、羽田はその股の間に座ってエウリピデスの戯曲を読んでいた。細身の羽田は大柄な海部の体の上にとてもよく収まっていた。
二人の体はそれ以上近づきようもないほどぴったりと接していて、それでいて各人が別々のものに意識を向けていて、声や言葉が二人の精神をつないでいるようだった。
付き合うというのはそういうことなのだろうか。付き合うというのは対等な関係なのだろうか。海部と羽田は確かに対等なようにも見える。
僕も誰かを交際相手として好きになるべきなのかもしれない。僕は狭霧のことが好きなのだと思う。でも一人の少女として、交際相手として捉えられるか、というと、そこには少しずれがあるような気がした。狭霧の存在をそういう関係に当てはめるべきではないような気がした。そしてもっと明確に、これが恋なのだ、という疑いようのない感情をいつか他の誰かに対して抱くようになる予感があった。それはおそらく僕の中のアイデンティティを根元から解体し、否応なく変えていってしまうものだった。




