例外的海部のお見舞い
海部は僕と会う時に基本的には他人を連れてこなかったし、誘うこともしなかった、というような説明を前にしたと思うけど、基本的に、といったのはひとつはっきりした例外があって、それは彼のガールフレンドだった。彼は時折僕との間に女の子を交えた、あるいは女の子との間に僕を交えた会合を持ちかけた。ただそれもあくまで例外であって、ケースとしては稀だった。
僕が高校一年の夏休みに何をしていたのか、という話はちょっと後に回すことにするけれど、そのあと二学期の始めに酷い風邪をひいて、始業式から続けて四日ほど学校を休んだことがあった。二日目の朝、目を覚ましてトイレで小便して、洗面所でうがいをして、そこまでは起き出しの勢いで行ったものの、よく確かめてみると鼻や喉の調子が昨日より悪くなっているし、まだまだ目眩もして平衡感覚が鈍っている。そんな体の状態に気づいた時の重たい気分といったら他にない。
どうする、学校に行くのか僕。自分に訊いて、答えが帰ってくるより先に、そんなの無理に決まっていると自覚する。よし休もう、学校に電話しようと決意を固めたところでちょっとした解放感とともに暗黒の罪悪感が襲ってくる。電話を切ってからも悪人になったような余韻はしばらく続いていた。
ベランダの外は素晴らしい晴天だった。窓を開けて深呼吸をしていると、まるで僕一人の体の中に東京東側一帯の悪天候を引き受けてしまったみたいな気分だった。世界は僕を置いて活動を始めている。どこかでカラスは鳴いているし、隅田川を漁場にするウも一羽二羽旋回しながら高度を下げていた。
食欲はあった。ラップに包んで冷蔵庫に入れておいたスパムの残りをフライパンで焼いて上に卵を落とし、硬めにトーストした食パンに挟む。キャベツとニンジンのコールスローも残っていたのでそれも食べた。飲み物はコーヒーはやめて牛乳にしておく。食後に内科で出してもらった薬を飲んで、それからテレビをつけて毛布にくるまってソファに横になった。首が痛くなって天井を見ているとテレビのブラウン管が発しているちりちりした高周波音が耳鳴りみたいに妙に大きく聞こえた。風邪を引いた時のBGMみたいなもので、喉にしろ鼻にしろ腫れている部品だけ交換してすっきりさせられたらいいのに、なんて考えながら体を休めて呼吸に徹している間はだいたいこの音が頭の中にある。そして時折遠くに内容の聞き取れない駅のアナウンスが聞こえた。
地上には会社に行く人々や学校に行く人々が歩いているのだろう。それも僕の脱落した世界の活動のひとつだ。そうした人間の習慣がエネルギーや鉄道といった世界の血管と血液を生かしている。世界の流れや回転から一時的に離脱して僕だけがここで静止している。
そのうち普段とは異なった立体的な時空の広がりを体の周りに感じた。体重を支えていたソファの反発が背中から消え、重力もなくなる。それは圧倒的な孤独だった。それは寂しさとは別物だった。一週間学校を休んだ狭霧もこれと同じものを感じていたんだろうか。
昼に電話があった。無視しようと思っていたけれど、セールスにしてはコールが長かったので取ってみると海部からだった。
「もしもし」僕は電話機ごと持って玄関の床に寝転がった。古い電話なので受話器はバネ型のコードで本体とくっついていた。玄関にあるのはもとからそこに置いてあったからで、さほど使う機会もないのでそのままにしていた。さらにいえば埃よけに白いレースの布が被せてあった。床板はほんのり冷たく、そして硬かった。
「病欠か、ミシロちゃん」
「どうやらそうみたいだ」
「昨日の今日の風邪なのか? それとももっと長いのか」
「おとといくらいからだよ」
「ひとつ見舞いに行ってやろうと思うんだが、どうだ?」
「構わないよ。見舞いというのは行く方が決めるものだ。僕に決定権はない」
「わかった。それじゃあ放課後。お大事に」
僕は受話器を置いて起き上がり、昼食に冷麦を茹でた。つゆに梅干しを混ぜて食べた。歯磨きをして髪を整え、家の中の掃除をした。そしてレコードを磨いた。
僕がソファに戻って毛布にくるまっているところに海部はガールフレンドの羽田を連れてやってきた。時計を見ると十七時前だった。インターホンのカメラには彼の顎が大写しになっていたけれど、声でわかったので開けてやった。さっき掃除をしている間は大したことなかったのに、立っていると地球がスケボー場をごろごろ転がり回っているみたいに気持ちが悪かった。毛布を被ったまま玄関へ行って扉の鍵を開け、右手の壁に斜めに寄りかかった。体の右側に毛布が押し付けられていて、まるで布団の上にいるみたいな感じがした。
扉の向こうに海部の話し声が聞こえたので「開いてるー」と喉も唇もほとんど動かさずに言った。ほとんど呻き声であった。
海部は扉を開けて僕の様子を見ると敷居を跨ぐのをちょっと躊躇した。それからタイルの上を入ってきて「熱か、吐き気か?」と玄関で靴を脱ぎながら訊いた。立ったまま足だけで器用に靴を脱ぐのだ。
「どちらかというと熱」僕は壁に頭をくっつけたままあまり考えずに答えた。
「食べなきゃ治らないからな、肉を買って来た」海部はスーパーの袋を握っていて、中には牛ロース【アメリカ産】三五〇グラム前後のトレイが二つ重ねてあった。肉しか入っていないレジ袋というのも希有なものだと思う。彼はずんずん廊下を進んでいってリビングの扉に消えた。彼の通ったあとには結露の足跡がしばらく残っていた。
「鍵を閉めてもらえる?」僕は羽田に訊いた。「羽田が一緒なんて聞いてなかったな」
「あの電話のあとで私もついていくことにしたの。海部一人でお見舞いなんて、ちょっと嫌な予感がするでしょ?」
「まあ、少し」
彼女は扉のロックを二つ回して「これでいい?」と訊いた。肉の入れ物とは違った深いビニルを手首にかけていて、それが床につかないように腕を浮かせつつ屈んでパンプスを脱いだ。
「ホンアマリリス」と彼女は言った。黒いストッキングでフローリングに上がったところだった。
その言い方がとても鋭いので僕は何か合言葉の下の句を返さなければならないような気分になった。もちろんわからない。考える気力もない。
「花を買っていこうって、彼が」と羽田。
「それが花で、今のが花の名前なんだ。何? ホンアマリリス?」
「そう。買った時に教えてもらってから、忘れないように今までずっと心の中で繰り返していたの。ホンアマリリス、ホンアマリリス」羽田は僕の横まで来て、巣穴から出る時のキツツキみたいにちょっと首を伸ばして廊下の左右を確認した。右手は暗い、左手は明るい。
「それは大変だったね」
「しかもあの肉買ったの花の後なの」
「何かに書き留めておけばよかったんじゃないかな」
「別に。だってレシートに書いてあるから」
「つまり、嘘?」
「違う。買ってからここまでレシートは見ていない。彼が持ってるの。それは本当。つまりね、ここまで憶えていられるかどうか自分と賭けをしていたの。どう、嘘じゃないでしょう?」
「たぶん、そうだね。難しいけど」僕は頭痛に耐えながら答えた。
「嘘を言った方が簡潔で信憑性も高いという時もある」
リビングに通すと羽田はテーブルの上で切り花の包みを解いた。茎はヒガンバナの形をして、その先に少し花弁の広いユリのような桃色の花が二輪ついていた。茎に葉がないのが少し不気味だけど綺麗な花だ。
「花瓶ある? あ、いいの。場所だけ言って。私取るから」
「和室の押し入れにあると思う。下の段かな」
「やましいものは入っていない?」
「ないよ、そりゃあ。もし入っていたら必死で阻止するだろうね」
羽田は和室に入っていって押し入れを開けた。最初は客用の布団が入っている方で、逆を開けると物置の方に当たった。その間海部はキッチンで勝手に肉を焼いていた。今まで家の中は化石みたいにしんと静まっていたのに、急に物事が動き始めていた。羽田は四角い背の高いガラスの水瓶を出してキッチンの流しで洗って水を溜め、「これが台拭き?」と訊いて僕が肯いた布巾で外側を拭いてテーブルに持ってきた。そこにホンアマリリスが差されてみると、ソファからの眺めはなかなかよかった。しばらく横になって眺めた後、テーブルの横で膝を突いて下から煽るくらいの位置で鼻を近づけて匂いを嗅いだ。いい匂いがする気がするのだけど、そもそもあまり鼻が利かないし、肉を焼いている匂いが漂ってくるのでますます判別がつかない。海部ときたら換気扇回さずにやってたらしい。僕がホンアマリリスに鼻を近づけたので羽田もようやく気付いて、キッチンを覗き込んで「換気扇つけてよ!」と文句を言った。
「彼、好き勝手やってるけど、慣れっこなの?」羽田は花の向こう側から僕を覗き込んで訊いた。花瓶のガラスに歪んだ彼女の顔が映った。
「うん。時々うちに来てゲームやったり宿題やったりしてる。居着かれると厭だからご飯が終わったら必ず追い出すけどね」
「こんなとこ、悪いやつらの溜まり場にならない?」
「それは嫌だから三人以上は拒否する」
「二人ならいいの?」羽田は自分を指して訊いた。
「今しがた前例ができたとこだよ」
海部の焼いた肉は、焦げてこそいなかったけれど、干し肉のように硬くてしょうゆによるストレートな味付けだった。僕は頑張って何枚か食べた。羽田も僕よりは食べたけれど、結局ほとんどは海部のものだった。僕は羽田のために冷蔵庫から作り置きのおかずをいくつか取ってテーブルに出した。糸こんにゃくとにんじんのきんぴらとかぼちゃのサラダ。羽田はラップを捲って一口ずつ試食してみてから「なんだか給食みたい」と微妙な評価を下した。
ホンアマリリスとアマリリスは全然別の植物なのです。