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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第2章 踊り――あるいは居場所について
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さまよう世界

 僕も一度会場へ戻って、けれどまだ各校の調整で混み合っていたので建物の外に出た。

 美術館の建物の外周をぐるっと回る。指で額をつくって景色に翳し、片目を瞑っていい画になるか試してみる。いい画になったときは後でスケッチできるように携帯電話で写真を撮っておく。邪道だ。でも、平日にもかかわらず人がいっぱいいて、こんな人目の中で堂々とスケッチを始める気分にはなれない。

 ベンチで豆乳フルーツミックスを飲んでパックを畳む。ベンチは林の中の曲がりくねった小径にあって、木々の幹の向こうに広場の往来が見える。開館前の他の美術館に並ぶ大勢の老人グループ、老夫婦、大荷物でベビーカーを押す一家、韓国語や中国語を話す若者のカメラを首にかけた小集団。薄着にバックパックの白人。広場はまるでラッシュの新宿駅のような混雑だった。

 こんなにたくさんの人間たちが行き交っているのに僕はその中の誰一人とも関わりを持っていない。全て初めて見る顔、誰の名前もわからない。僕自身もまた他の全員にとってそんな空虚な存在なのだろうか。ふと他人としての僕自身を想像する。僕ではない誰かの視点で僕を見る。なぜこんな容姿をしているのだろう。僕の名前は本当にこの人間の名前なのだろうか。不思議な感覚だった。

 離脱。

 結局外へ出ても落ち着けなかった。

 屋内に戻る。正面入口からではなく、裏手の門に回り、階段、広場、階段、広場といわば棚田のように段々に下っているエリアを抜け、半地下階にようやく扉が見える。三方から建物に抱えられた空間。くっきりと濃い影が下りて、一帯の暗がりを雨樋か何かでそこに集めたように濃縮された暗さだった。真上を見ると巨人の井戸の底に居るような感覚になった。四角く縁取りされた空は青々として、十八時を回っているというのにちっとも夕暮れの気配がない。夏至が近いせいか。

 いくらか上の段の地面に根を張っている柳桜の枝に尻尾の長い中型の鳥が二羽飛んでくる。水色と黒の、滅多に見かけない種類だけど、オナガだ。翼をはばたいてふわふわ浮かぶように跳んでそこらじゅうの枝をハシゴしている。

 僕はガラス張りの壁の一部に設けられた扉から美術館の建物に入る。扉が閉まると、外にあった鳥たちの鳴き声や遠い駅の喧騒が蓋をしたように遮断されて突然静かになった。足音がいやに響く。壁に「エントランスホール」の表示と矢印。その逆側は「倉庫 関係者以外立入禁止」と書かれた両開きの扉。整列用のロープを張るためのポールが隅に固めて置かれている。納戸のような空間だった。

 一体ここはどこなのだろう。現実の地図には存在しない場所みたいに思えた。全然別の宇宙の、全然別の惑星の上のどこか。そこには僕らの世界とは異なる物理法則が働き、時間の流れる速さも違っている。そして僕だけが一人孤独に今までの世界から隔離され、その世界のある部屋の中に閉じ込められている。いつ世界と世界の間を渡ったのか僕は気づかなかった。でもそういうものなのだろう。理解できないものがあるなら、そもそも認識できないものがあったって何も不思議はない。これだけ静かなら思う存分好きなことを考えられそうだ。けれど早くも僕はもとの世界に戻れるのだろうかという不安が膨らんでくる。それはいささか差し迫った不安だった落ち着いて何かを考えることはできそうになかった。

 僕はその空間の出口を探した。時空と世界の結節点ではなく、現実的な出口を、だ。外へ出るガラス扉の他に、階上に上がる階段があった。その入り口はきちんとピクトグラムで示されていた。

 階井に入る。床も壁も手摺も白く塗り込められていて、上の階から入った光が影を落としてようやく物の形がわかるような具合だ。上を仰ぐと眩しい。

「どうしたの?」

 とその声は方々の壁に反響して空間全体から聞こえてくるようだった。首をぐっと反らせて真上より後方を見ると、階上の欄干から尾上先生がこちらを覗き込んでいた。

「その階、展示室の階ですか」

 先生はちょっと後ろを振り返ってみてから「ああ、そうだけど」と答える。後ろを確認することに何か意味があったわけじゃない。ただ僕の脈絡のない質問のせいでそうせずにはいられなかったのだ。

「初めて入る建物はちょっと怖いですよ。広い空間のない建物は特に。構造がわからないというのは」と僕。

「構造?」

「部屋の位置関係とか、階段の場所とか」

「ああ、そういうことか」尾上先生は妙なタイミングで納得した。

「え?」

「探検してたんだね?」

「はい」

「それで、どう、この建物の造りは把握できた?」

「少し」

「私も探検は好きだよ。上の階へ行く階段が見つからないとか、あっても目的の部屋は別の区画で廊下が繋がっていないとか、そういうのがわかると面白いわよね」

「あと扉や長い通路も。向こうに何があるのかわかっていれば安心して通れるけど、最初は暗くて寒い感じがする。ちょっと怖い」

「素直に全ての階が同じ間取りの建物ばかりじゃないというのも、また面白い」

 僕は階段を上がる。足音が響く。

 先生は欄干に肘を乗せて寄りかかって退屈っぽく待っていた。ベランダから野良猫でも見下ろすような感じだ。会場に戻ると我々の学校の区画はすっかり片付いて、絵と塑像が几帳面に並べられていた。

「荷物は残ってないですね」

「うん。荒巻先生が持ってってくれたの」

 他の高校の制服もかなり少なくなっていた。

「君の家、関屋でしょう。送ってってあげようか」

「いや」

「どこかで道草する予定でもあるなら構わないけど」

「ありませんよ、別に。でも角南さんと池辺は?」

「先に帰ったよ。彼女たちは学校の方だから」

「じゃあ、お願いします」

 高校生の作品の中を歩いて会場を抜ける。途中で一枚の絵に目が留まった。紙と鉛筆の細密なデッサンで、大判の画用紙いっぱいに割れた胡桃を拡大して描写している。繊維の一筋、殻の小さな破片にまで描き手の神経が行き渡っていて、現実では注視しなければ意識することのない細部のリアル、割られた胡桃のある種の死、内部というもののグロテスクさがそこにはあった。先生は少し先で立ち止まって待っていて、僕が絵の前を離れると黙って歩き出した。

 表から建物を出る。駅の方へ向かって道を渡り、JRのおびただしい線路を跨ぐ橋の上に出る。

「少し遠いんだよね」と先生。駐車場のことだ。

 来る時は公園の門のところで下ろしてもらったので先生がどこに車を駐めたのか僕は知らなかった。陸橋も初めてだった。

 眼下JRの敷地は軌条の錆に染まったバラストの茶色が一面に広がり、架線が巨大な機織に通された糸のように交わりながら遠くへ向かって伸びている。京浜東北線と山手線が並んで走り、端の方で長い貨物が時折きっきっと金切り音を立てながら徐行している。

 駐車場は線路沿いの土手の上だった。出入口で精算してから、先生は手前に止めてある他の車の間をじぐざぐに縫いながら歩いていく。もたもたしていると車止めが上がってしまうのでとりあえず枡の外に出して、僕が乗り込むとウォークマンかアイポッドを持っていないかと訊いた。「コードはあるから繋げばそれで音が出ると思う」

 道に出て左に曲がる。歩道の傾斜で車が揺れる。人も車も多いのでちょっと気が張る。

「あまり流行りの歌は聴きませんよ」

「だろうね」

 変換器のプラグをウォークマンに挿してランダムに再生する。いささか音が小さいのでウォークマンの方で音量を上げる。

「誰?」

「ジュエル。ジュエル・キルヒャー。『スタンディング・スティル』」僕はウォークマンの液晶を読む。

 先生は車を走らせながら確認くらいに一コーラス聞いて「こんなにポップスだったかな」と呟いた。「私の記憶ではもっと素朴な、つまらないといっていいくらいのカントリーだったけど。だから嫌いというわけじゃないのよ。それはそれで歌に合っていたからね」

「歌に?」

「なかなか思索的な、年頃の女の子の詩らしい詩よね」

「カントリーってギター一本で弾き語りみたいな感じですか」

「そう。そういう、みたいな感じよ」

 昭和通り。隣の車線を走る車と互い違いを維持して路駐や右折を上手く避けていく。東京の道路の流れだ。

「アルバムによってかなり性格が違いますよ。これは三作目で、確かにメロディアスな印象に残りやすい曲が多くて、その一方で一作目はとても物静かで、それがカントリー的ってことなのかもしれない。二作目は二つの差異を結びつける過渡的な位置にある」

「じゃあ、私が知ってるのは一作目か二作目かな?」

「たぶん」

「単にポップスに寄ってきただけなのか、それとも一連の変化の一部に過ぎなくて、これからまた別の場所へ向かっていくのか」

「実際家なし生活を経験しているんですって。場当たり的な性格だったのか、それとも不可抗力だったのかはわからないけど」

「さすがに二三作目を出す頃には住所を持っていたでしょうけどね。だけど経験として、そうやって一ヶ所に留まらずにいることでその度創造性を更新していたのかもしれないわね」

「どうでしょ。留まることで自分の創造性を死なせてしまうのだとしても、定住の安定と秤にかけられるものでしょうか。移動するということは、そうして新しい場所で新しい創造性を得るということは、自分の在り方を少しずつ変えていくということですよ。ポップスへの昇華でジュエルを評価する人もいるし、カントリー路線を維持してほしかったと思う人もいる。カントリー派の『続けてくれていれば』という仮定の中にある彼女は今はもう失われている」

「それも一理あるかな」

 やはり道の難しさのせいか先生の返事にはいささか思考が欠けている。

 曲は「サーブ・ジ・エゴ」に移る。甘く凍ったような歌声。灰皿は使っていない。綺麗だ。その中にウォークマンを置いて窓の外を見る。しばらく手元に集中していたせいで目の奥がもやもやした。酔いかけである。

「知らない景色だ」僕は言った。

 東京の下町。関屋の駅前に似ている場所ならいくらでもある。でも見憶えのない看板や標識ばかりだ。日々通学の電車の窓から下に見る街並みとは違う。見え方も、見える範囲も。もし送ってもらわなければ電車に乗って帰ったはずだ。普段通りの景色を見ていたはずだ。けれど今はその線路も川を渡る時に遠くに細く見えるだけだった。普段の景色を別の道筋から見ているのだ。

「あなたは車で学校や都内に出てくることなんてないわね」先生は両手でハンドルを握っている。

「まったく」

「私も最初はひやひやしたし、正直なところ今でも気が進まない」

「嫌な道ですよね」

「わかる?」

「ええ。先生の家はどこにあるんですか」

「流山。流山って知ってるかしら」

「話には聞きます」

「江戸川の左岸にあって、谷間のような行政区なのよね。谷間というのは、地形上谷あいということではなくて、東京と松戸や柏に挟まれて、都市化の計画から抜け落ちたような土地なのよ。田舎だとか、寂れているとか、そういうのでもない。ただ、時代に取り残されたように古くて窮屈な生活の土台が未だに残っている。例えば、井戸から水を引いて庭に浄化槽を埋めている家が結構あって、私の家もそのうちのひとつで、道は狭く曲がりくねっていて、唯一の私鉄は単線で自動改札もない。流山電鉄はすごくレトロな車両を使っていて、乗っていると戦前までタイムスリップしそうなの」

「面白そうだ」

「でしょう?」

「先生はそこが嫌いではないんですね」

「うん。なかなか興味深いところだなあと思いながら住んでるよ。もし松戸まで来たら終点まで流山電鉄に乗ってみることを勧めておくわ」

 関屋まではほんの十五分くらいの道のりだった。最後は隅田川の右岸をしばらく東へ走って、その間対岸に僕のマンションが大きな行燈のようになって夜の曇った空の手前に見えていた。部屋から見える橋を渡って到着。

「一応訊いておくけど、気は変わらないのね?」と先生は車を止めて訊いた。

 僕は肯く。それは信念だった。「やっぱり部活に所属するべきではないと思うんです」

 でもその言葉が心の中をクリアにしてくれるわけでもなかった。僕はこの日さまよう不安を味わったばかりだった。

「そう。別に構わないわ。もし描きたい、作りたいなら、今のまま遠慮なく美術室に来ればいい。あなたの居場所にすればいい。道具だって自分で持ってくる分には何の遠慮もないんだから」

 そして僕はその言葉に甘え、少しずつ昼の美術室に通うようになった。まず週に二日、三日、そしてほぼ毎日。初めは慎重に、次第に堂々と。いつしかそれは僕にとって、また周りの部員、顧問たちにとっても当然のことになっていった。

 教材費を払い、余った木枠とカンバス生地をもらって組み立て、プライヤーで引っ張って布を張り、タックスを打ち、出来上がった画面に下塗りして、荒巻先生がいる時に油絵の具の練り方や乗せ方を教えてもらった。そうでない時はカルトンに画用紙を貼って風景や飛行機の絵を鉛筆で描いた。

 四限目が終わる。ノートを閉じて机の中に仕舞い、筆箱と豆乳のパックを持って教室を出る。購買へ走る生徒とすれ違いながら高い日差しへ向かって階段を上る。美術室の扉を開け、後ろ手で慎重に閉める。四限が美術だったクラスの一部がまだ残って道具や作品を片付けている。僕はそれをすり抜けて美術部の備品スペースに潜り込み、描きかけの自分の絵を出して、窓枠に腰掛けてしばらく眺める。パースの歪みを確認する。今日はここを直そう、と思う。そうしているうちに授業組はだいたいいなくなる。棚で視界が遮られているけど、話し声があるかどうかで判断できる。もしまだ静かになっていなければ僕はそこで豆乳のパックにストローを差す。そして窓から上空を覗いて雲の流れを眺める。アイスクリームみたいな気持ちのいい雲もいれば、うどんの塊みたいなこわい雲もいる。窓に雨粒が打ちつけて外が見えない日だってある。そうしているうちに体の芯まで絵の具の匂いが染み込んでいく。美術室の匂いだ。

 定位置の作業台に荷物を置いて絵を描き始める。カルトンなら台の上に置いて描いたり、膝の上に立てて書いたりする。画面がちょうどいい明るさになるように日差しの具合によって角度を変える。少し鉛筆を入れて豆乳を飲む、また描いて飲む。まるでタバコみたいだ。脚を組み変える、立って鉛筆を削りに行く。僕はカッターで削るほど芯の状態にはこだわらない。がががっと電動で削る。芯の硬さだってたいしてこだわらないのだ。だいたいHBで描いて足りないところだけ濃いので乗せていく。

 僕が描いている間、ほとんどの場合は誰も部屋に入ってこない。僕は一人だ。他の生徒の騒ぐ声が窓の外に遠く聞こえる。美術室はまるで発泡スチロールの箱で包まれたみたいに外の世界から守られ、そして切り離されていた。

 たまに他人が入ってくるとすれば、一番頻度が多いのは尾上先生だった。荒巻先生や角南さんもきちんと活動はしているのだけど、どちらかというと放課後がメインらしい。昼休みにはほとんど見かけなかった。たとえ尾上先生が入ってきても僕らは挨拶くらいで特に話はしなかった。二人とも話しに来たわけじゃない。自分の作品を作りに来ているのだ。我々はお互いに敬意を払い、それぞれの空間と静寂を侵害しないように努めた。話すとすれば、それは一方が伸びをしたり歩き回ったりしている時だけだった。集中が切れたからそんなことをしているのだ。気晴らしに言葉を交わすのは悪くない。ああ、今度は建物の絵だね、上手く描けているね。そんな具合だ。

 どうしても手が進まない時、僕は非常階段の扉を開けて外の空気を吸う。乾いた空気、湿った空気、埃の匂い、雨の匂い、暑さ、寒さ。あらゆる刺激が体を包む。眺望は目をほぐしてくれる。何キロも遠くの鉄塔や煙突に焦点を合わせると眼球がきゅうっと絞られるのを感じた。じっとして近くばかり見ていてもだめなのだ。

 気が済んだら中へ戻る。そして一時五分前に予鈴が鳴る。僕はもうその時には絵を片付けて豆乳のパックを畳み終えている。作業台の上の消しカスを払って椅子を入れ、その状態を確かめて部屋を出る。学校本来の空気が廊下を進む僕の体にまとわりついていく。さあ、午後の授業だ。

 今にして思えば、入部を留保し続けたまま美術室に入り浸る僕は自分が客であることを忘れた客のようなものだった。

上野の美術館は明示してないけど都美のことです。宣伝しないから知らない人も多いと思うけど、都内の高校美術展も実際やっているのです。

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