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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第2章 踊り――あるいは居場所について
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展覧会

 美術部については、結局、入部の判断を保留にしたままにしておいて展覧会出品にかかわる人手仕事を手伝うことになった。次の美術の時間だった。生徒たちは四人で一つのテーブルを囲み、テーブルの真ん中に石膏の十字型を置いて、それぞれカルトンに画用紙をテープで貼って鉛筆で素描している。石膏は縦の円柱に真横から四角柱が突き刺さった形をしていて、どことなくフランケンシュタインの頭の巨大なネジを思わせる。生徒たちが黙々とスケッチしている間を荒巻先生が歩いて回る。荒巻先生は学校の中でほとんど最高齢といった感じの老婦人で、美術の授業だけを専門に受け持っていた。時折足を止めて小声で指導する。生徒も小声で答える。俯いたまま小さく間欠的に「はい……、はい……」と言う。中身が聞こえないせいかなんだか説教をしているみたいで、先生が歩き始めると次は誰の後ろに止まるのか、爆弾ゲーム的な張りつめた空気が部屋の中に充満していた。いっそのこと「オクラホマ・ミキサー」を流してやったらみんな気がほぐれて楽しめただろうと思うけど。

 荒巻先生が僕の後ろで立ち止まる。手で頬を覆うようにこめかみを押さえて何かを考えている。向かいの窓ガラスにその姿がうっすらと映っている。けれど、僕の絵を見ているのだろうか、視線の向きがわからない。

 肩に手が触れ、僕は手を止めないわけにはいかなくなる。

 僕が顔を上げると荒巻先生は「尾上先生から聞いたんだけど、君だったわね」と訊いた。

 荒巻先生の喋り方は少し独特である。声は年配の女性特有の頬に籠った感じで、感情を抑えていて、言葉のひとつひとつの音が前後とくっつかずにそぼろのように細切れになっている。だから抑揚がないわけではないのだけどとても淡白な喋り方に感じられる。

「美術部の件ですか」

「そう。次の展覧会が六月二十日から、その前日に準備があるのよ。お願いできないかなあと思って」

「でも、入部は断りましたよ」

「毎年部員が足りないから、授業で美術を取ってる人に手伝ってもらえないか頼むのよ。だから」

「放課後ですか」

「そう。ここへ来てくれればいいわ」


 当日は尾上先生のekワゴンで上野に向った。作品を運ぶ業者さんは美術部と付き合いが長いらしく、荒巻先生は作品を積んだバンに同乗して先行した。ごま塩頭の、顎のラインにも同じくらいの長さの短い髭を生やしている画材屋の似合うおじさんだ。白いキャラバンの横には捻りのないポップ体で「フェミネロ」と塗装してあった。ekの方は僕が助手席、後席に他の部員が二人座る。

 右は角南さんという女の二つ上の先輩で、四角い黒い眼鏡をかけていつも眠そうにしていた。夢に出てくるふわふわした羊みたいな人だ。会話がとてもゆっくりで思考スピードが普通の人の半分くらいしかないみたいな感じがした。でもとても素晴らしい油絵や水彩を描くので、きっと普通の人の二倍いろんなことを考えているのだろう。

 左は同学年の池辺という女子で、こちらは角南さんとは対照的に活発だった。ファッションも個性的で、ガンマンみたいなスカーフを巻いてダルメシアン模様の股上の深くだぼっとしたハーフパンツを履いていた。美大に居そうなタイプだ。白髪一雄的に躍動感のあるペイントが得意で、小物を空間的に散らかした結構複雑な絵も描いた。美術部の他にも二三個兼部していてなかなか美術室に居る機会がない。

 車の中では先生と角南さんが去年の展覧会のことを話して、僕と池辺がへえへえ聞いていた。受付係の分担回数が他の学校より多かったとか、夜の駐車場を描いたでっかい絵がすごかったとか、そういう話だ。

 美術館の北側に面した通りに車を止め、後ろに積んだ小物を生徒で降ろす。ピクチャーボードの素描数枚と紙粘土の塑像二点。

 角南さんを水先案内に館の裏手へ回って搬入口の前に出る。奥行きの長いヘリンボーンの駐車場があるが駐車枡は軒並み貨物車で埋まって、各々開いたハッチから他の学校の制服たちが荷物の運び込みに左右へ行き交っている。駐車場が満杯なのを知らずに迷い込んだ赤い三菱コルトが人を掻き分けながらカタツムリみたいにのろのろ切り返そうともがいていた。尾上先生が車でこっちに入らなかったのはなるほどだ。

 似たような車ばかりだし、加えてハッチが上がっていてマーキングが見えないので少し手間取ったけれどフェミネロのキャラバンも着いていた。荒巻先生がハッチで作品の仕分けをしているので分かった。アースカラーのブレザーとスカートだった。フェミネロのおじさんは先に搬入を始めているらしい。一度そのままの荷物でバックヤードを通って展示室に入り、どの区画を割り当てられているのか確認する。既に荒巻先生の大きな絵が一枚壁に立てかけられていた。印象派式に六義園の雪吊りを描いた王道だ。真っ白な中に数人の庭師の背中だけ穴が開いたように黒く色彩が濃い。早朝の空気感の表現さすがに上手い。

 フェミネロのバンまで行って次の荷物を受け取る。工芸の茶碗が入っている籠、サイズの揃った授業作品の絵を詰め込んだダンボール箱、美術部のカンバスは大きいものから小さいものへ積んで担ぐ。途中バックヤードで天井のレールに垂らすワイヤーをとりあえず二十本貰っていく。掛け金具は各二つか三つ。五本ずつ束ねて結んであった。

 一度壁に絵を立てかけて横の間隔と上下の組み合わせを決める。角南さんは重ねたままの授業作品を一枚一枚僕らに繰り出させて遠目に見て色味や雰囲気の釣り合いをじっくりと確認する。

「テキトーで大丈夫ですよテキトーで」と池辺はさっぱり面倒臭がる。

「うーん」角南さんは顎に拳を当てている。「その列の前のと入れ替えてみて」

「掛けてみたらまた違うかもしれないっすよ」

 結局美術部の絵も同じように順番を決める。池辺は素描とペン画数点。平凡なものが多いけれど、縦の画面にいろんな種類の卓上ライトスタンドを並べたバウハウス的な一枚はデザインとして面白い。角南さんは油絵二点、書道か水墨をやっている人を横から、やや逆光に描いた色遣いの複雑な油絵と、こちらが異色なのだけど、縦長の画面の地を金色に塗って、その真ん中に丹頂鶴の立ち姿を描いた日本画的な油絵。とても細かなところまで描写に気をつけていて、陰影はほとんどない。目を近づけて横に見ると白絵のように絵具が盛り上げてあるのがわかる。この絵があって前の絵が引き立つ、多少に連作の性格を持つ二枚だった。

 だいたい配置の終わったところで尾上先生が到着したので、こんな感じでどうかと確認してもらった。荒巻先生は運営に話しに行っているし、フェミネロのおじさんは搬入が終わったところで帰ってしまったので現場は生徒だけになっていた。

「まあいいでしょう、合わなかったらその時変えよう」尾上先生は池辺寄りのようだ。

 脚立に登ってレールにワイヤを引っ掛け、留め具を通して絵を掛けていく。高さを揃え、上下の間隔を感覚で合わせる。大きい絵と小さい絵、題材の近い絵と遠い絵。位置が決まったらその横にキャプションをピンで刺す。壁の手前に机を立てて青いクロスを敷き、造形の作品を並べる。最後に高い脚立を借りてきて天井の照明の向きを調節した。

 設営は二時間ほどで済んだ。三人でロビーに下りてソファで休憩する。

「こういうのって初めて? その、絵を額に入れたり、掛けたり」片手で眼鏡を直しながら角南さんが訊いた。

「ありますよ」池辺か答える。

 その時二人はソファに並んでいて、僕だけはチラシのラックの前に立っていたから、角南さんが訊いたのは僕ではなくて池辺に対してだろうと思って答えなかった。池辺の方へ顔を向けただけだ。

「中学も美術部だったんで、市役所の壁に吊るしたり」池辺は続ける。

「確かにプロみたいだったよね、フックの捌き方」

「熟練の技ですから」と池辺はふざけて声を渋くする。「ミシロは?」

「僕は初めて。こういう展覧会の裏方みたいのも初めてです」僕は答えて二人の方へ体を向ける。

「あ、そうなんだ」角南さんは妙に大きく頷く。

「部活は?」池辺。

「というものでもないんだけど、放課後技術の先生から個人的に機械工作を習ってたんだ」

「旋盤とか?」

「うん」

「それは実践的だね」と角南さん。

「実践的?」

 僕が訊き返すと角南さんは瞳を明後日の方角へ向けてしばらく押し黙った。

「実学的といってもいいのかな。美術はむしろ教養で、それに触れる人間の外側には何も生み出さない……けど、実践的なものは人が何かをするのに必要なものを提供する」角南さんは迷走しながら言って自分でも納得の行かないような顔をした。

「つまり僕が技術室にいるのと、美術室にいるのと――」

「ああ、わかった」と僕の言葉に被せて池辺が言った。「先輩、それデザインとアートの違いだ」

「うん、なるほど」僕は頷いた。

 角南さんはちょっと口を開けたまま首を捻っている。

「要は、技術と美術の違いって、目的のある設計と、目的のない自己表現じゃないですか――」と池辺が説明を始める。

 角南さんはぽかんとしたままその説明を少しずつ飲み込んでいく。

 僕はその話には口は挟まなかった。ただ想像していた。もし僕が美術部に入ったら、去年まで金工室でやっていたことに対して意義的に真反対の環境に身を置くことになる。美術は優しく、目的なく、自己表現なのだ。そこで僕の存在意義を決めるものはきっと「役割」ではない。僕の意味はきっと僕の考えや表現そのものによって決まっていくことになる。

 そのまま五分くらい経過したところで荒巻先生が我々を探しに来て、これから三十分各自思い思いに鑑賞してもよろしいと号令をかけた。ソファの二人が腰を上げる。話の結末はうやむやのまま、漂白されるように消えていった。

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