「自分らしさとは何か」
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自分らしさについて
自分らしさという言葉が私は嫌いです。一時に安価に多用され擦り切れていく言葉は一種の惨めさを感じさせるものです。そういった言葉を嫌うのは反俗精神です。しかし俗と反俗の駆け引きは論う言葉の内容に触れないという点で本質的ではありません。反俗はなぜこの言葉が俗になったかというところに関心がないのです。したがって私の自分らしさ嫌いに反俗的根拠はありません。
問題は「自分らしさ」が個人の軸や芯となる役割を果たそうとしておきながら、それ自体が浮動するものであるという点です。それ自体にも軸や芯が必要なのです。自分らしさを振りかざすためには、個人がその個人の絶対的な部分についてよく認識している必要があるのです。
自分らしさが個人の将来にどう関わるか、個人が生きていく中で自分らしさをどう見極めるか、これらを突き詰めていくと、私の特異性とは何か、それをどうやって決定するか、となります。少なくとも私にとって、自分らしさを唱えることの効用はまず、他者に屈せず、他者と同化せずにあり、自分らしさの正体とは、私が私を特定できる証拠のことです。その証拠は私の中だけにあって、私自身にも取り出すことはできません
けれど、もし自分らしさが強い地盤の上に根付いているものなら、その根の張り方を鮮やかに言い表すことができるのなら、私は自分らしさという言葉の用法については肯定できると思います。人々がよく自分らしさを自信につなげるように、私も私の芯の中にそれを持っていたいのです。
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梅雨入りの前、五月の中旬のことだ。先生の出張で国語の授業が一齣空いてしまって、他の科目との入れ替えも都合がつかなかったので自習になった。その時日直が職員室に取りに行って配った課題プリントが「自分らしさとは何か」という題だった。
B4の藁半紙にいくつか視座の助けになるコメントが付けてあるだけで、残りはほとんど空白、回答欄だった。先生は回収した答案に目を通して、気に入ったものを五六個選り抜いたプリントを何回か後の授業で配布した。上に引用したのはそのプリントに載っていたもののひとつだ。
回答の時はプリント提出の有無で出席を取るので名前を書く欄があったけれど、まとめプリントでは名前はすべて伏せてあった。だからそれが狭霧の書いたものだと断言することはもちろんできない。だけど僕には確信めいたものがあった。あれは彼女でなければ書けない。リアス海岸みたいに複雑で気難しい文章。何度も読み直さなければ何が言いたいのかよくわからない文章。それは時間に制約があって書き直しができなかったせいなのだろうけど、でもだからこそ書いている人の頭の中に流れる思考の渦のようなものが表れているのだと思う。僕はその言葉の上に狭霧の声を感じた。そしてプリントを手にした狭霧の反応が僕の直感を裏付けていた。
定期テスト前の質問時間などで見たところ、狭霧はこの先生と仲が良かった。普段の授業でも、例えば宮沢賢治の「オツベルと象」の解説なんか顔をしっかりと上げて首を心持ちかくかくとやりながら熱心に聴いていた。けれど先生がこのプリントを生徒の手に行き渡らせて先述の部分の講評を始めると、狭霧は自分の机の縁の辺りに目を固定して顔を上げなくなった。角度や見方によっては授業に対する集中が切れてうつらうつらしているようにも見えたかもしれない。けれど少し後方からの横顔は頬の周りが少し緊張して、唇を口の中に巻き込んで噛んでいるように見えた。先生にだけ読んでもらうつもりで書いたものをみんなの前で読み上げられるのが相当恥ずかしかったんじゃないだろうか。僕はそんな気がしてならなかった。
今日の自分と、昨日の自分と、それが同じものだと信じている人間など、どれほどいるのだろうか。
あなたは昨日のあなたと同じ存在ですかと訊かれれば、そんなことは当然だと思う。なぜそんなことをわざわざ訊くのかと訝る。
そうだろう。でも、ほとんどの人間は普段そんなことなんか気にかけていないだけで、確信しているわけじゃない。気にかけていないのと確信しているのは違う。全然違う。
一つの夜に一つの人間が結び目なく繋がっている。それだけのことに、ある人間はつまらないと感じる。ある人間はこれほどの喜びはないと感じる。
同じ天井の下で目覚める。アジール。布団は知っている匂い。
ここで初めて「アジール」という単語が出てきます。『人間の土地』にも「避難所」という訳、「アジール」のルビつきで何度か出てきたと思います。要はこれが「安心できる土地、場所、空間」といった意味合いなのです。のちのちアイデンティティを支える要素としてキーワードになってきます。
むろんフィールドが変われば意味も変わります。歴史学では「占有地」とかを意味する用語なのかな? 僕は中世史はきちんとやっていないのでよくわかりませぬ。