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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第2章 踊り――あるいは居場所について
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司書室のダイアローグ

 尾上先生が僕を美術部に誘ってから、昼休みの美術室へ上ってその度扉を開いただけで引き返す、というのを僕は繰り返していた。四度か五度目、五月の連休明け、その日は四限目の生物室に鞄を持っていってそのまま美術室を目指した。一階の静かな廊下をみんなと違う方へ歩いていく。すると三階まで上がったところで尾上先生に会った。彼女は図書室から出てきてその扉をそっと閉めたところだった。ジャケットを着て丸めたジャージを腕に抱えていた。

 僕が呼ぶと先生も気付いて「こんにちは」と応える。 

「美術室?」と彼女は訊く。

「ええ、誘われたから」

「誘われたって、もしかして私があなたに美術部に入らないかって言った件のこと?」

「そうです」

「まだ悩んでいたのね」先生はさして感動もなく言った。「ということは入ることに決めたの?」

「いいえ、まだ」

 僕は階段を上がる。踊り場の掲示は一年生が描いた石膏の幾何立体の素描に替わっていた。

「決めようとしているところです」僕は言い直した。先生の顔は見ていない。タイルのように並べられた白い素描を見上げている。

「入るとも、入らないとも、まだ決めていない。入らないかもしれないけど、入るかもしれない」と先生も階段を上り始める。

「それで、話をしようと思って」

「美術室に活動の具合を見に行くんじゃないの?」

「必ずしもそれが目的じゃありません」

「そう?」

「池辺には話を聞きました。彼女はあまり美術室にはいかないと言っていた。学校に居る間はバレー部の方が忙しい。美術部に入っているのは描く環境や助言が欲しいというより、とにかく定期的に描いてどこかに出したいからだと」

 踊り場で折り返す。階を上がって左手奥の音楽室から弦楽器の音が漏れて聞こえていた。まだ合奏ではなくチューニングの音だ。

「そう、わかった。活動がどんな具合か見たいわけじゃないのね。部員の話を聞きたいわけでもない」

「はい」

「それなら待って」先生は手摺に手を置いて片足を上の段に踏み上げたまま呼び止めた。僕の顔を見上げて、思いのほかまっすぐに目を向けている。「君は話をしたいと言ったけど、それは私と、という意味? それとも美術室で誰か美術部の人間と、という意味?」

 僕は足を止めて先生に目を向けたまま考えた。こういう時って普通は相手から目を逸さずにはいられなくなるものだけど、この時は不思議と相手を見たままでいるのが苦ではなかった。チューニングが聞こえる。

「先生に」少し口籠って答える。

「美術室まで行くともしかしたら落ち着いて話ができないという状況になるかもしれない。司書室に戻るという手もある」

「でも、先生はつくりに行くんじゃないですか」

「ああ、いいのよ」と言って先生は引き返す。「あれは私にとってそれほど優先順位の高い活動ではない。プリント作り、テストの採点、仕事がある時はお休みするもの。他にもっと重要なことがあれば犠牲にするべきものよ」

 僕は何も言わず、先生に続いて階段を下りる。「先生、司書室に居るんですね」

「そう。君は最近何度か図書室に来ていたわね」

「僕は気付かなかった」

「私は気付いた」

「僕は目立ちますか」

「そういうことじゃない。出入りする人間は、つまり歩いている人間は前を見ていて、止まっている人間は周囲を見渡している。それだけのことよ。自分の教え子なら見ればわかる」

 図書室に入り、閲覧室に向かう順路を左に逸れて司書室に入る。扉などの仕切りはない。閲覧室に面した貸出のカウンターがそのまま空間を緩く区切っている。職員室式に職員の机が並んでいて、コピー機があり、シュレッダーがある。窓際の建付けの棚の上に六十センチ幅の水槽が置いてある。弱い水流を生み出す浄水器がつけられていて、中のカージナル・テトラがそれに逆らって泳ぎながら群れをつくっている。尾上先生のデスクはその水槽に背中を向けて置かれていた。天板全体に書き物用の分厚いビニールが敷いてあり、その真ん中に置かれたノートパソコンは蓋がぴたりと閉じていて、その右に二クラス分くらいのノートが高く積み上げられている。パソコンの手前にA3くらいの空き地があって、先生はそこに持っていたジャージと弁当の包みを置く。

 それからキャビネットと壁の間に重ねられている木製の丸椅子を指す。僕はそれを一つ取って机の袖の前に座る。尾上先生は自前の座布団を敷いた事務椅子に座る。二人で膝を突き合わせる。水槽の水の跳ねる音がする。図書室に専属で働いている司書さんたちの話し声も聞こえる。仕事の話だ。雑談ではない。

「美術室の方が静かだったような気がします」僕は言った。

「向こうに誰も居なければね」と先生。

「というと?」

「時々邪魔しに来る生徒が居るのよ。私を囲んでお弁当を広げるの。私の妨害だけなら構わないけど、他の生徒が居ると迷惑よね。そういう時は仕方がないから追い払わないといけない」

「ここなら僕と先生が話していても誰も気にとめない」

「それもある。さあ、話しましょう。あと四十分しかないわ」

「お弁当、食べてください」

 先生はもう一度時計を見上げる。「そうしようか。持っているなら、どうぞ、君も召し上がれ」

 僕は鞄の中からコーヒー豆乳のパックを出して机の端に置く。先生は驚いたような不可解そうな顔をしただけで何も言わない。ジャージを机の下の収納ケースの上に置いて、その分広くなった机の上でお弁当の包み布を解く。両手にすっぽり乗るくらいの小さな漆器風の弁当箱で、梅と格子模様が描かれている。スヌーピーのマークのついたバンドで留められている。蓋を外すと、白飯とおかずが半々、卵焼き、牛肉とごぼうの和え物、ほうれん草のごま和え、ブロッコリー、プチトマトが一つ。バランスのいい家庭的なお弁当だ。先生は箸を組み立てて最初にプチトマトを摘み上げて口に入れる。

「僕を誘ったのに理由がありますか」

「美術部に?」

「ええ」

「君がミュシャの絵を見ていたからじゃないかな」

「じゃあコートを見ている客に試着を勧めるのと同じことですね」

 先生は首を捻った。

「違いますか」

「勧誘は私の職務ではないわ。気が向いたから」

「先生は僕の他にも誰かを美術部に誘いましたか」

「いいえ」

「昼休みに何十分も絵を見ていようという生徒はなかなかいませんよね」

「それに私はほとんど昼休みにしかあそこへ行かない」

「あえて誘うとすれば、何を基準にするんでしょうか。運動部なら中学時代の所属や成績を訊くでしょう。例えば、絵の技量でしょうか」

 先生はごはんを箸で口に入れて、それを咀嚼しながら眉を落として考え込んだ。

「関心や意欲の性格でしょうね。それが積極的な性格なら呼ばなくてもやってくる。消極的なら引っ張ってこなければいけない。君の場合、絵を見て時間を潰そうとする態度にある程度の関心は感じられた」

「そういう人間は僕以外にもいると思いますが」

「いるかもしれない。確かに。でも、かもしれない、よ」

 僕は了解した。先生が僕を誘った状況は全くの偶然だ。先生は僕を待っていたわけではない。とすれば先生のために誘いに応えるという義理はない。

 先生は水筒のコップにお茶を注いで弁当箱の横に置く。水筒のロックがかちっと鳴く。

「僕が考えているのは所属と場所の問題です」

「ええ」お茶を飲みながら頷く。

「誘いを受けたいのも断りたいのも両方に理由があります。だから決められない。どちらかに全てを傾けてしまうことに抵抗を感じる」

「境界線の上に居る」

「これは僕の自己分析であって、僕の信念ではないです。好きでそうしている、行動指針に従ってそうしているというわけではない。あくまで自己分析だということを前提に聞いてください」

「わかった」

「僕が美術部に入りたいと思ったのは、美術室を自分の居場所にしたいから。入りたくないと思ったのは、そこに併存する人とのつながりに囚われたくなかったから」

 先生は僕の言葉の意味を考えながらしばらく黙って口の中のものを噛み続けている。

「美術部に入れば部費で買った絵具や画材を使うことができるとか、荒巻先生から一段上のことを教えてもらえるとか、必ずしもそういったことを目当てに入りたいと思うわけではないんです。四時間目が終わるチャイムが鳴って、教室を出て、ここへ来て絵を描く。そして気付いた時に五分前の予鈴が鳴る。それだけでいい。居場所というのはそういう意味です」僕はテトラの水槽を見ながら話していた。豆乳を飲む時に先生を見る。

 先生は僕を見ている。

「でも、そのために無理やり人間関係を広げたくはない。人との付き合いをいたずらに増やしたくない。人と話したりするのが嫌いだというわけじゃないです。ただ、牧場の羊みたいに美術部という檻の中に囲い込まれて、上級生やあとの下級生たちと鎖で首を繋がれる、そういった束縛はされたくないと思うんです。少なくとも繋がれる前にそれが僕にとって必要な束縛かどうか見極めたい」

「居場所は欲しいが束縛はされたくない」

「二つの欲求を同時に満たす選択はできない。だから決められずにいるんです」

「どちらも取りたい、というのは少し傲慢に思える。違うかしら?」

「自覚はあります。それが僕という人間の限界なんだと」

 先生はまた手を止めて少し考える。「あなたはなぜ深い人間関係を嫌がるの?」

「人間というのは同時に複数の檻に入ることができると思うんです。家と学校、職場。そうでしょう? それだけじゃない。細かく見ればクラスと部活と委員会は違う檻だし、同窓会だってある。場所と時間によって様々な檻がある。一人の人間が同時に複数の人間の輪の中に属している。どんな檻にも入っていないというのは心細いことかもしれない。逆に、あまりに多くの檻に属しているのも複雑で忙しい。それをやっていける人間もいる。好む人間もいる。でも僕はそうじゃない。別の檻を行き来しているうちに、認識として、ひとつひとつの檻をきちんと別のものだと判別することができなくなってくるような気がするんです。算術でいう、暗算が得意な人間とそうでない人間が居るように、一人の人間広げられる人間関係の範疇はそれぞれ決まっているんじゃないでしょうか」

 僕は言い終えて豆乳で口を潤す。

「学生の間には所属の欲求というものがあると思う」と先生。「上ではなくてここに来たわけを、煩い生徒が来るかもしれないから、と言ったわね。つまり女子のグループがお弁当を持って私のところへ来て、私が話に加わるかどうかお構いなしにお喋りをする。そう考えると私の存在意義ってなんなのだろうと時々思うけど、それでもやっぱり彼女たちはやってくる。彼女たちはなぜ私のところに来るのだと思う?」

「なぜ……」

「ええ」

「先生と喋らなくても、先生を囲んで喋っているという感覚が落ち着くからじゃないですか。先生が居なかったら、多分どこか別の場所を探しに行く。今日もそうかもしれない」

「彼女たちが美術室に来た時、私が居れば安心するけど、居ないとちょっとした不安に陥る。他にどこへ行けばいいのかわからないからよ。つまり、彼女たちは知っているのよ。他の場所に居るよりも、毎回場所を変えるよりも、美術室に来て私を囲むことが一番落ち着けると知っている。部活に入るのもそれと同じではないの? 時間がない時、話し相手が居ない時、行く場所があり、呼ぶ仲間がある。どんなについてない時でも自分が除外されていないと思える。そうやって鳥が巣作りをしてまわりの鳥との縄張りの線引きをするみたいに、ある人間関係の中にあり、どんなときにも認められた居場所があるのだということを確認する。自分自身を規定する。それが所属の欲求」

 先生は水槽を見る。

「例えばこのグッピーだってそうよ」

「テトラですよ。カージナルテトラ」

 先生は唇を窄めてしばらく水槽を眺める。

 時々細かいことに気を取られて思わず話の腰を折っちゃうんだ。僕はそういう無粋な人間だった。

「例えばこのテトラだってそうよ。水槽の中に居て、大勢の仲間と似たり寄ったりの生活をしている。群れになっている自分に気づいて、そうか僕はテトラなんだとわかる。それが、なんだかテトラがおいしそうに見えるし、まわりは自分を避けているみたいだということなら別の肉食魚なのかもしれない。でも詳しいことはわからない。異なるということは明確な自己規定にはならない。違う?」

 僕は首を振る。

「あなたは他の人が無意識に肯定できる自己規定の方法を拒絶しているように思える。居場所については、どうかな、決して違ってはいないかもしれないけれど」

「僕の場合、それはあくまで絶対的な場所です。広義に居場所といえば、それは人間関係による相対的な居場所だということもできてしまう。きちんと地面に杭を打ち込んだ柵で囲われた檻か、それとも人が手を繋いで作った輪でできた檻か、そういった違いです。人というのは変動します。絶対じゃない。変わるかもしれないし、死ぬかもしれない。人に頼った自己は、だるま落としのだるまみたいに不意に足元をすっぱ抜かれてだめになってしまうかもしれない」

「家族とは一緒に暮らしてるの?」

「一人暮らしです。三月から」

「あら、立派じゃないの」

「いいえ」

「ということは、よ、あなたはあまりに広い人間関係に囚われたくないと言ったかな、それに従えば、狭い、ある特定の人間関係であれば囚われてもいい、むしろそうしたいと感じている。けれど実際には基底になる檻の中に人間関係が欠如している」

「おそらく」

「自分の抱えている問題がわかるの?」

「わかってはいないかもしれないけど、認識はしているつもりです。わかっているなら考えなくてもいいはずだ」僕は時計を見る。話し始めてから二十分くらい経っている。先生がお弁当を食べる時間や僕が豆乳を飲む時間、それからお互いテトラの水槽を眺めたりして考えている時間が言葉を交わす時間の間に均等な縞模様のように挟みこまれていた。

「君は自分の問題を認識している。それを保留したままで行動することも時には薬になる。あるいは君が実行しているように考え続けることも構わない。ただ……」と先生は首を振って中空を眺める。小蠅でも見つけたのかもしれない。「君はたぶん他の誰よりも根拠のある強さを求めているのよ。説得力のある、揺るぎない強さを。だから自分で納得できない足場の上には立てない。それを築き上げるのは時間がかかるし困難なことだと思う。誰か助けてくれる人も必要になる。あなたには個人的な込み入った話をできる相手は居るの? つまり、同年代の友達や」

 僕は目を瞑って考える。

「対等に心を開くことのできる相棒が必要なんじゃないかな。もちろん、歳や立場の違いを忘れられるなら、あなたが話したいと思うなら、それは私でもいいのだけど」


 僕は図書室を後にする。教室に戻ってリードの『芸術の意味』を少しだけ読んだ。五限目と六限目の間に海部が机の前にやってきて休み時間は何をしていたんだと訊いた。僕は尾上先生に相談しに行ったということは伏せたまま、部活に入るかどうか決めかねているんだということだけを言った。すると彼は弓道部に入れと言った。そういう問題じゃない。僕は所属の問題を噛み砕いて説明してやった。海部の理解は思いのほか早かった。彼が賢いってわけじゃなく、先生と話している時より僕の頭の中で整理が進んでいるのが思いのほかだった。

「おまえは順応を拒んでいるのさ、ミシロちゃん」と海部は言った。「自分の居るべき場所が他にあるって信じていて、ここに通ってくることを日常にできないんだよ。自分の大事なものはここにはない。そう思っているんだろう」

 もう一時間受けて学校を出る。耳にイヤホンをして考える。ジュエルの「アイ・ウォント・ウォーク・アウェイ」 

 対等に心を開くことのできる相棒。

 それは今とても遠くに居るように感じられる。近くには居ない。


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