アジールを荒らすもの
第2章前半を「居場所」をテーマとして調整するための追加部分です。
短い夢の中で狭霧は彼女の家の前に立っていた。黒いワンピースにクリーム色のジャケット、黒いパンプス。大人びた恰好をして不安げに門を見上げていた。
「ねえ、ここって本当に私の家なのかな。どうしてだろう、どこも変わっていないように見えるのに、何かが全然違うものになってしまったような気がするの」狭霧は門を見上げたまま言った。どうやら彼女はとても久しぶりに日本に帰ってきたところのようだった。
僕は狭霧の横に歩いて行って門を見上げ、それから格子の奥に見える彼女の家を見た。そこには一見何の変化も認められなかった。けれど長く暮らしてきた彼女にしかわからない変化もあるのだろう。
「ああ、ミシロ」狭霧は僕に気づいた。一歩下がって僕の額から爪先まで一通り確認する。「よかった。私、ちゃんと帰ってこれたんだね」
「ミシロちゃんの家、確か関屋だったな」帰りの電車の中で海部は訊いた。常磐線快速の上りは世界の終りのように空いていて、僕らは二人で長いベンチシートを独占していた。
「そうだけど」僕は目を覚ましてすぐに答えた。
「北千住から歩いて帰れるか?」
「帰れるけど、今日は足が疲れたから電車を使うよ」
「なあ、少し寄らせてもらえないか」海部は彼にしてはかなり腰の低い口調で言った。僕が一人で生活していることは彼もすでに知っていた。
「構わないけど……」
「この時間に帰っても家で顰蹙を買いそうなんだよ」
早く帰ると顰蹙を買う。どういう事情なのだろうと僕は思ったけど、あまり詮索したい気分でもなかったので訊かないでおくことにした。
「まあ、構わないよ。シャワーでも浴びて行けばいいよ」僕は言った。
北千住で東部線に乗り換え、牛田で降りて家まで歩いた。客として僕の部屋に入る人間は絹江さんに続いて二人目だった。もちろんその間にも電気やガスの点検で訪ねてきた人々はいるのだけど、彼らを客としてカウントするのはちょっと違う気がした。
「いい場所だな」海部はリビングの床に仰向けになって鴨が潰れたような声で言った。むろん彼は僕の部屋に上がっていきなりずけずけと入り込んできて床の上にばたんと倒れ込んだわけじゃない。いくら彼だってそこまではデリカシーに欠如していない。彼はきちんと荷物を下ろし、お茶を一杯飲んでからソファに座り、僕が楽にしていいと言ったのでまずそこに横になり、それから床へ滑り落ちたのだった。
「家の中にいてこんなに物音がしないってのは、なんだか奇跡みたいな気がするよ」海部は続けた。「うちはさ、死ぬほど家族が多いんだ。大人が四人くらいいて、子供も七人くらいいて、それがろくでもない狭苦しい一軒家の中におしくらまんじゅうみたくぎゅう詰めになって生活してんのさ」
「七人くらい?」
「一人暮らしを始めたり、戻ってきたり、彼氏彼女のとこへ転がり込んだり、別れて戻ってきたり、とにかく、俺より上の連中はいたりいなかったりするのさ。それでまた下は下で増えそうになったりしてるだろう。単にうちの両親が子だくさんってわけじゃないんだよ。いや、多いことには多いんだろうけど、年齢の幅が広いから、上の方の子供はもう親になってたりしてさ、だから構成が複雑なんだわ。それでもって点呼なんか取らないから、誰だって今自分の家に人間が何人押し込まれているのか、全然把握してないんだ。ただ、いつだってとにかくたくさんいるってことだけは変わらないからな、トイレにしろ、洗面台にしろ、ましてテレビなんか、たかが五分だって自分一人で占領することは許されないのさ。そのうち上は権威を振りかざし、下は泣き声を振りかざしてチャンネルを簒奪するんだ。まったく。そんなんだからみんな家に人が少ない方が喜ぶんだよ。ミシロちゃんは兄弟他に一人だけだろ、それじゃちょっと想像つかないかもしれないけどさ。ここは静かでいいよ」
その説明で僕は事情を把握した。人間が圧縮された空間の中で生まれ育ってきた海部にとって僕の部屋はあまりに広く、またあまりに静かだった。仰向けになった海部の顔にはとても内的な感動が浮かんでいた。そしてそのまま十分くらいも目を瞑っていた。眠っているわけではなかった。それは姿勢の正しさや顔の筋肉の緊張からわかった。たぶん彼はそうやって十五年分の静寂をどうにかして一気に摂取しようとしていたのだと思う。僕はテーブルの横の椅子に座って時々その顔を確認しながらじっとしていた。
「シャワー、借りるな」ふと海部が言った。それは再び時間が動き出す時の合図のようなものだった。
「いいよ」と僕。「服はないけどタオルは貸すよ」
「いやいや、持ってるからいいよ」海部は起き上がってトートバッグの中からスポーツタオルとトランクスを取り出した。
彼は体を伸ばしながらレコードの棚を眺める。
「変な飛行機だな」ウェストランド・ワイバーンの模型に目を留めてそう言った。ワイバーンという飛行機の存在を知らなかったようだ。
「預かりものなんだ」
「触ってほしくないってことか」海部はホールド・アップのポーズをとった。たぶん僕の口調に棘を感じたのだろう。
「僕にはそれを許可する権限がない。ただそれだけさ」
「いいよ。誰にだってそういうものはある。それはしるしのようなものなんだ。他人がそれを穢してはいけないんだよ」海部は言った。意外な察しの良さだった。
彼はガラス越しに三十秒だけワイバーンを眺めた。その間ややわざとらしく手を後ろに組んでいた。それだけだ。彼はそれ以上何も訊かなかった。
僕は風呂の場所を彼に教えたあと、リビングに戻ってきて念入りに鼻をかみ、キッチンの流しでうがいのついでに鼻の中を洗った。それで鼻のつまりはかなりよくなって、気分もすっきりした。風呂場で水の跳ねる音が響いてきた。初めて聞く音だった。僕がシャワーを浴びている時だって同じような音がするのだろうけど、それを外から自分で聞くことはできない。
ソファに座る。床の上に殺人現場のような人間のシルエットが残っていた。海部の寝ていたところにちょっとした結露が残っているのだ。僕は部屋の隅に立てかけてあるクイックルワイパーを振り返った。でもしばらくそのままにしておくことにする。その人間の形跡がどうやって消えていくのか、それともうっすらと残ったままになるのか、見ていたい気分になった。
いい場所だな、と海部は言った。たしか絹江さんも同じようなことを言っていた。いや、言ったわけじゃない。ただ、このソファに座ってとても落ち着いた様子で目を瞑っていたのだ。この空間にはまるでお香みたいに人間を落ち着かせる作用があるのかもしれない。それはこの忙しない大都市東京の片隅にあって一本のしっかりした留まり木のような役割を果たしているのかもしれない。何がそう思わせるのだろう。静けさだろうか。空気が特別なのだろうか。あるいは九〇年代から止まったままの調度がそう思わせるのかもしれない。時代に取り残されたものはそれ以上変化することはない。その安定感がいいのだろうか。
海部の人型は水気が乾ききってもまだうっすらと残っていた。水垢と同じだ。僕は雑巾をきつく絞って床を拭いた。
僕はこの場所の安定を守っていくべきなのだと思う。それでこそ狭霧を待つことが、彼女の居場所を用意しておくことができるのだと思う。でもそれはきっと難しいことだ。海部のような客だけが問題なのではなくて、僕自身、今の時代の人間で、僕の生活、活動そのものがこの部屋の性質を少しずつ変化させてしまうだろう。それはたぶんあの巨大なコンクリートの滑走路を今の柏の街へと変化させていったパワーと同じものなのだ。一日一日の影響はとても小さい。でもそれが何年、何十年と積み重なることによってあまりに大きな変化になっていくのだ。死守を決め込むあまり、僕がどこか他の場所へ移るとか、客人を拒むとか、そこまでするのはこの場所の意味をむしろ損なってしまうだろう。だからあくまで慎重に管理していくしかないのだ。
海部がトランクス一丁でタオルを首にかけて上がってきた。僕は彼の硬く締まった肉体を上から下までしっかりと眺めた。
「悪いな。先にちょっと涼ませてくれ」海部はそう言ってちょっと恥ずかしそうに体を曲げ、扇風機の風を最強にしてその目の前にしゃがみこんだ。汗だか水だかわからない水滴がぽたぽたと床に垂れた。
僕は肩を竦めた。いいんだ。汚れれば掃除をすればいい。汚れなければ掃除をしなくても済んでしまう。掃除はした方がいい。
「なあ、明日も来ていいか?」海部は風に震える声で訊いた。
「いいよ」僕は少し悩んでから答えた。
そして翌日、日曜日、海部はハードオフのラベルを貼ったままのプレステの箱を引っ提げてやってくると、僕の部屋のテレビにそいつを据え付け始めた。
「こいつはミシロちゃんにやるよ。だから時々来るときに遊ばせてほしいんだ」
「いや、それはだめだ。ここでゲームをするのは構わないよ。でもそれは君のだ。君がここへ来なくなる時、一緒に持って帰ってもらわなければだめだ。それは大事なことなんだ」僕はいささか腹を立てて言った。
海部はちょっと気圧されたあと、何か事情があるのだな、という感じで頷いた。
海部は飛行機やFPSのゲームをよくやった。僕も最初は戸惑ったけれど、彼がゲームをやっているところを眺めるのはあまり飽きがこなくていい暇潰しになったし、他にやりたいことがある時は彼一人をリビングに放っておいても全然問題なかった。さらに言うなら、海部が部屋に入り浸るのを僕が許したのはその方が寂しさが紛れるからだった。
結局、高校三年間で最も僕の部屋に入った回数が多いのは海部だった。悪く言えば鬱陶しい存在だったけれど、その間僕が僕の部屋を客のための空間として保っておくことができたのは彼のおかげでもあったのだと思う。




