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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第2章 踊り――あるいは居場所について
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土地と時間のアイデンティティ

 (今回追加で挿入した一節なのですが、ちょっと浮いている気がするので差し替えて後ろに回すかもしれません。)

「ミシロちゃん」というのが海部の僕に対する呼び方だった。

 可愛がっているのか、馬鹿にしているのか、微妙なところだ。僕はその響きがなんとなく気に入らなかった。

 海部は僕が高校の始めから比較的深く付き合っていた実に例外的な男だ。生徒会役員だとか中心的な役割を好んで務め、かつ協調性や配慮に篤い奴だった。弓道部兼水泳部、背は高く色黒にして筋肉質で、顔立ちもよく、髪はピンとしてまっすぐ、表情が乏しくあまり笑わなかった。当然女の子には人気があった。僕は例によって彼に対しても積極的な友好を心がけていたわけではないけれど、彼は弁論部の部長みたいに社会的な議論を愛していたから、僕が本を読んだり狭霧のことを考えていたりすると暇だと見込んで近寄ってくるのだった。僕がそれなりに意見を持っていたせいもあって彼にしてみれば毎度いい獲物だった。色々な音楽を試して結局一番癖のない歌手に帰ってくるみたいな感じだろうか。彼はとても鬱陶しくて、でも本質的には面白い考え方を持っていて、僕はどうしても彼の存在を僕の生活から完全に追い出してしまうことができなかった。

 海部は時々、というよりしばしば僕を誘った。休日どこかへ行くか、放課後僕の部屋に来るか、ほぼどちらかだった。僕はあまりどこかへ行きたい気分でない時が多かったから、どちらかといえば後者の方がありがたかった。

 海部は僕と会う時に基本的には他人を連れてこなかったし、誘うこともしなかった。もし彼が大勢の中に僕を誘い込もうとしていたら僕はそれを拒否していただろう。僕は大勢の中で目立てるタイプではなかったし、そうなると誘いに乗る意味、僕がそこにいる意味は溶けかけた角砂糖みたいにとても小さなものになってしまうはずだった。彼が僕だけを誘うなら、僕の時間は無駄なく彼のために捧げることができた。

 僕は五月という季節がどうも好きになれなかった。梅雨前の駆け込みみたいに気温が上がるし、体は暑さに慣れていない。何よりの問題は鼻詰まりだった。軽度の花粉症なのだろうけど、僕は五月になると丸々ひと月鼻詰まりに苛まれ、真ん中の一週間くらいは鼻水との無益な攻防戦を構えなければならなかった。

 海部と柏に行ったのはそういう時期、五月の頭だった。彼は国内の戦争遺跡に興味を持ち始めたところのようで、僕が飛行機好きだというのを知って柏飛行場の跡地を見に行かないかと誘ったきた。我々は北千住の常磐線ホームで土曜の九時半待ち合わせた。北寄りの端という話だった。僕が着いた時には予定の十分前で、これに乗るのだろうな、という便まであともう一本あった。海部はまだ来ていない。日暮里から乗ってくるはずだから、なんて考えていると次の便が入ってきて、ドアの前に海部の顔が見えた。海部が降りる前に僕が乗った。

「待ったか?」海部が訊いた。とりあえず反対側のドアに寄る。

「せいぜい五分くらいだね」僕は答えた。

「よく似合ってる」

「何が?」

「その格好」

 僕は股下まであるXLサイズの空色のTシャツにレギンスのような細いジーンズを穿いていた。鞄は小さめの四角いリュックサックだった。一方海部はバンド風のプリントがついたタイトなTシャツにワークジーンズだった。革紐に金属や石の玉を通したネックレス、同じく数珠のようなブレスレットをつけているのが呪術的だった。靴はコンバースのスニーカーだ。ネコでも入っていそうな大きなトートバッグを肩にかけていた。僕はトートバッグって好きになれない。膝に乗せると幅を取りすぎるし、片手で押さえていないと肩から落ちてくるし、片側が背中の方へはみ出るから電車の中で邪魔になる。他人の鞄で邪魔に感じる頻度が一番高いのはトートバッグだった。

「ミシロちゃん」

 例の呼び方だった。

「結構歩くだろ。最初はバスにしとくか?」

 海部は僕を気遣っているみたいだ。彼は肉体系だからいくらでも歩けると踏んでいるのだろう。

「海部が歩くつもりだったならついていくけど?」僕は言い返した。

 海部はちょっと困った顔をした。

「いいよ、バスで行こう」僕は言った。どちらかといえばそれが本音だった。

 柏駅で電車を降り、北口のロータリーで柏の葉方面のバスに乗った。席は空いている。なのに海部は前方に入って「座れよ」と一人掛けの席を僕に勧めた。僕は座った。海部は座らずに僕の横で席の背凭れについたハンドルを握っていた。

「バス酔いするの?」僕は訊いた。

「何?」

「バスでさ、特に後ろの方の席に座ると、酔う人は酔うでしょ。君はそれなのかって」

「いいや」

 バス酔いするから前の方へ来たのかと思って訊いたのだ。じゃあ僕と隣り合わせに座るのが嫌なのだろうか。でも訊くのが面倒臭くなったので黙っていた。

 天井から冷房の風が吹き出している。それが窓に沿って下りてくるので僕は窓に顔を近づけて外を見ていた。並木が流れ、木漏れ日の点滅が眩しかった。

 かつて柏には全長一・五キロのコンクリート製滑走路があって、その周りに掩体壕つきの誘導路が広がっていた。戦前の基準なら比較的立派な空軍基地といえる。第二次世界大戦後期には陸軍の飛行戦隊が集まって連日そこから色とりどりの戦闘機を飛ばしていた。首都防空の重要な一拠点だったわけだ。

 戦後は敷地の大部分が農地確保のために農家に任され、滑走路もコンクリートを剥がされて完全に消滅した。朝鮮戦争を機に米軍が再び接収、アンテナを立てて通信所――要は暗号解読などを行う諜報施設――として長らく居座っていたが、八〇年代に返還されて今日ミリタリー的な施設としては自衛隊の小さな通信所が残っているだけだ。広大な跡地には公園と大学と病院とショッピングモール、そしてその隙間を埋めるように住宅地が点在している。

 僕らは公園と戸建て宅地の間にあるバス停で降りて地図を開く。海部が用意したその白黒プリントの地図には遺跡の位置がピンクのマーカーでマークしてあった。その大半が燃料貯蔵庫だ。陸軍の飛行場は松戸だとか調布だとか東京の周りにたくさんあったけれど、柏の特別なところはロケット推進戦闘機の運用拠点として整備を進めていたところだ。ロケット戦闘機自体はすでに実戦投入に成功していたドイツから潜水艦を使ってとてもこっそりと、とても大変な困難を乗り越えて技術が伝えられたもので、日本側でも一応は機体をつくって飛ばすところまでは成功した。でも量産まではいかなかった。

 技術と量産の問題は別にして、運用上の問題は燃料の扱いがとても慎重を要するというところだった。液体ロケットというのは化学的にとても不安定な二種類の薬剤を混ぜて爆発的なエネルギーを取り出すわけだけど、そうするとこの燃料を保管しておく場所、方法に細心の注意を払わなければ悲惨な自爆事故を起こすことは免れない。だから当時の陸軍の技術者たちは非常に慎重に用地選定をして分厚いコンクリート製の燃料貯蔵庫を飛行場のあちこちに半地下で建設した。今でも一部が残っているのはその堅牢性と安定性のおかげだろう。

 宅地の中を歩きながら僕らはとりとめのない飛行機の話をした。

「秋水の実用化が間に合ってたらもう少し戦局が変わってたんじゃないかな」海部は言った。「秋水」というのが件のロケット戦闘機の名前だった。「とにかく上昇力がすごいから、偵察のB‐29は成層圏を飛んできても都市上空に入れないだろ」

「いや、僕はあまり好きじゃないな」

「秋水が?」

「うん。ジェットにしてもそうだけど、個別の兵器の性能の優劣が戦局を変えるというのは当時の軍部の幻想そのものだって気がするよ。結局のところ、当時の陸軍も海軍も、あるいは内政そのものが時間をかけて用意しなければならなかったものをあまりに軽視しすぎたんだ。満州に工場を建てて、軽空母で船団護衛をやって、パイロットのマスプロ育成をもっと早く始めていれば、雷電と疾風はもっと数を揃えられたはずだ。可動数とパイロットに余裕があればその分哨戒にも数を割ける。あえて相手が来てから登らなくても、上で待っていればいい」

「それはあまりにそもそも論だろ……」海部の反応は身も蓋もないような感じになってしまった。「だいたい、雷電と疾風じゃ護衛のマスタングの相手をするのに高高度はつらいだろう」

「それは秋水も同じだよ。というか燃料が足りなくて相手をしていられない。それに燃料切れの秋水はすごく軽いから、ダイブでマスタングから逃げられない。どうせ同じ不利なら数で押した方がいい」

「なるほど」

 海部もそれなりに飛行機が好きだったけれど、僕ほど実態には詳しくなかったし、いささかイメージで言っている部分も多かったと思う。それは彼の方もわかっていて、議論は吹っ掛けるのだけど、引くところは引く、折れるところは折れる、という判断が早いのはどちらかといえば美徳だった。

「やっぱりミシロちゃんと話してると楽しいよ。最近の若いのはほとんど零戦も隼も知らないし。まして女子なんてからっきしだろ。こんな話が通じる女子はいないよ。ミシロちゃんだけだな」海部は言った。まるで雲に向かって話しかけるみたいなあけっぴろげな口調だったので僕は放っておいた。

 十五分ほど歩いたところで民家の屋根の上に墳墓のような小山が見えてきて、擁壁に沿って緩い階段を上っていくと小山の斜面に法面補強とは毛色の違う、もっと荒っぽいコンクリートの肌が露出しているのが見えてきた。

「これだな」と海部。

 もう少し回り込むとその一角に開口部があり鉄板で塞がれているのがわかった。中は見えないけれど構造的に奥行きがある。もし石造りだったらそれこそ古墳の石室にも見えたのだろうけど、コンクリートゆえののっぺりとした丸みのせいでそれはむしろ掘っ建てのピザ窯のようなものを思わせた。それが燃料貯蔵庫のひとつだった。道の向かいにはちょっと大きめの戸建てが並んでいる。そういう立地だった。

 海部が息巻いていろいろなアングルからカメラを構えてそのコンクリートの塊を撮影している間、僕はちょっと離れた木陰まで避難して扇子をぱたぱたしながらペットボトルのカルピスを飲んでいた。暑さと鼻詰まりのせいで頭痛がした。

 五分くらいしてから海部も日陰に入ってきた。Tシャツの裾を引っ張って風を入れているもののあまり汗はかいていない。運動慣れしているのだ。

「よくあんなコンクリートの塊で盛り上がれるよ」僕は扇子を畳みながら言った。

「なんだ、面白くないのか?」海部は薄いデジカメを鞄の中に仕舞いながら答えた。

「飛行機の残骸とか、せめて滑走路の一部でも残っていれば、もう少し面白いだろうけど」

「俺だって別にあれだけで楽しんでるわけじゃないさ」海部はそう言って爪先でちょっと地面を叩いた。「あれだけ周りの建物と時代が違うだろ。あれがあることによって我々はこの下に違う時代の記憶が眠ってるってことを想像できるんだよ」

「そういう捉え方もできないことはないだろうね」

 それから我々は小山の上に登って街を眺めた。僕は建物の屋根の大きさを基準に長さの当たりをつけて景色の中に一・五キロの滑走路を想像してみた。とてもたくさんの建物がその輪郭の中に収まってしまう。全く馬鹿でかい構造物だな、と思う。全然跡形もないけど、そこにはかつて確かに滑走路が存在したはずだった。それは別の場所でもなければ、別の世界の存在でもないのだ。

「土地も不変ではないんだろうか」僕は言った。

「街の景色が変わっていく、って話か?」海部は草の上に座って脚を伸ばしていた。

「まあ、そういうことになるんだろうけどさ。なんというか、つまり、僕が言いたいのは、どれだけ巨大で、重々しく、頑丈そうに見えるランドマークでも、場合によっては跡形もなく消滅しうる、ということなんだよ。それはたぶん、そこにあった滑走路の上で生き、そして死んでいった人々の存在の痕跡や記憶の風化を圧倒的に早めてしまう。生き残った人間はただ何気なくこの景色を見てもきっと滑走路のことは思い出さない」

「まあな。八十年前ここに住んでたよぼよぼのじいさんがいたとして、そのじいさんが八十年ぶりにここへ戻ってきても、自分の故郷だとは思わないだろうな。わしゃあこんなトコは知らん、来たこともない、ってさ。そんで、よぼよぼなもんだから、かくかくしかじかで街の様子が変わってこうなったんだと説明してもとうとう理解しないだろうよ」

「うん。そういうことだ。そしてきっと彼はもはや現存しない自分の故郷を死ぬまで探し続けることになる。土地というのは、いわば座標平面のようなものだ。数学で点ナントカの時間当たりの遷移を求める問題があるけど、座標軸自体が動いていたら解きようがない。規模の差はあるだろうけど、そういうことが現実には起こりうるんだ」

「そいつは深刻な話なのかい?」海部は半分くらい僕の方を振り返って見上げた。

「僕自身の問題じゃない。でも僕が無関係な問題でもない」

「俺に話したら少し気が楽になるかね?」

「いいや、そんなに簡単な問題でもないんだ」

「そうか」海部はとても残念そうに頷いた。その萎れようはまるで雨に濡れた捨て犬みたいで、僕もさすがに言い方が悪かったんじゃないかと思ってしまった。

 それからまたうんざりするほど暑い日差しの下を歩いて燃料貯蔵庫をもう一か所、それから通信所の門を巡った。古い門柱はレンガ積みで、重厚かつ地震に弱そうな出来だった。

「もう帰るかミシロちゃん」門の写真を撮りながら海部が言った。

「なんで?」

 まだ地図のマークを全部回ったわけじゃない。僕は別に文句も言ってないし、体調だって決して万全ではないけれど疲れを見せるほど深刻でもなかった。

「もう満腹って気がしてきたんだ。駅前でアイスでも食って帰ろうぜ」と海部。

「いいけど、またどうして」

「考えてみりゃあ、飛行場それ自体の遺構ってのはないんだな。残ってるのは燃料庫と通信所だろ。普通の飛行機に関するものは掩体壕の一つだって残ってないんだ。秋水のための、いわば特殊な性格のものだけが残って、一方当然にあったものが残ってないってのは、不思議というか、皮肉じゃないか」

「皮肉っていうのは少し違う気がするけど。だって、当然のものというのはあえて特別頑丈に作ることもないし、特別保存する必要もないわけで、その分早く朽ちていくのは順当と言える」

「いや、それこそが皮肉なんだ。後世の我々がまずベースとして想起すべきものはむしろ当然のものの方じゃないか。その土台ありきで特殊なものの存在価値を正しく位置づけられるのさ。特殊な遺構だけ見て喜ぶのは馬鹿の所業だ。俺が馬鹿だったよ。普通の戦力が柏にどれだけあったのかも把握してないんだ」

「特殊なものは残りやすく、ゆえに当然の姿を想像するのは易しくない」僕は呟いた。

「そうだよ」

 海部は何の名残もなく門の前をあとにしてバス停を探し始めた。そして宣言通り駅前のタリーズコーヒーに入って二人でアイスクリームを食べた。海部はクッキー・アンド・クリーム、僕はストロベリーを選んだ。海部の奢りだった。

「ぴったり払えるよ。割り勘というか、各々自分の分だけ払えばいい」僕は財布の中の小銭を数えながら言った。

「付き合ってもらったんだ。これくらいはいいだろう?」海部は譲らなかった。

 予想より早く涼しい場所に戻れたのは純粋に嬉しかったけれど、何か余計なことを言ってしまったような後ろめたさもなかなか消えてくれなかった。

「僕」が男だとか女だとか、そんなことは今まで一度も言及してない。

 読者によってはこの一節があるいは性的アイデンティティの問題提起にも見えるかもしれない。

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