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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第2章 踊り――あるいは居場所について
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僕の返事、カラスの話

 狭霧の母の家はロンドン・シティから北西に三十キロほど離れたワトフォードという街のメリデンという地区にあった。彼女のフェイスブックのタイムラインにはそれなりに生活の充実が表れていて、草原や小川といったワトフォードの景色を写した画像があり、母親とのツーショットがあり、コメントには英語に混じって日本語もちらほら現れるようになって、見ればだいたいは僕も知っているか、卒業アルバムを探せば見つけられる名前だった。コメントのうちいくつかには狭霧のレスポンスがあって、そこから交互に日本語の会話が続いていた。

 狭霧は僕以外の日本の知り合いともメールをしているのだろう。でも僕に送ったメールほど長いものは他にはないという気がした。あんな長い複雑なメールを別の誰かに向けてもう一度書こうなんて僕なら思えない。

 狭霧のメールを受け取って、対する僕の返事がこうだ。


 言語というものがそんなにはっきりと人間の生きる世界を隔絶させるものなのか僕にはわからない。そんな、峡谷のように険しいものなのか。

 人以外の動物と話をしてみたらどうかな。人に関心を持っている動物がいいよ。相手がこちらを見ていなければ話は聞いてもらえない。見ていてもそれが単なる警戒の時はまだ話の意味は通じない。逃げた方がいいか逃げなくてもいいか考えているだけだから。この人は何を言っているのだろう? そういった目で見ている時でないといけない。そして野生の動物の方がいいよ。飼われている動物は人間に対して何かしら先入観を持っていることが多いから。お互い少し緊張して探り合っているくらいの方がいい。野良猫だとかね。

 僕は朝の学校でカラスと話をする。

 朝の学校は良いよ。できれば一番早く来るのがいい。誰もいない廊下は朝日があれば神聖な感じがするものだ。けれどその時間は長続きしない。太陽の向きはだんだん変わってくるし、いつかは次の誰かが来る。その間僕は大抵外にいる。そして時々若いカラスが居て僕の様子を観察している。食べ物が欲しいのかもしれない。僕はよくプチトマトを余らせてしまう。パックにたくさん入っていて、まずくなる前に一人で全部食べるのは結構大変なんだ。鳥は水分がある食べ物ならだいたい好きだって聞いたことがあったから、いくつか試してみて、やっぱり色が大事なのかもしれない、プチトマトがそれまでで一番良い反応だった。でも指でつまんで差し出していたんじゃ駄目だった。コンクリートブロックの破片を皿にして、そこへ置いてやらないことには、ちょっと欲しそうな顔はするけど、でも、手は出さない。まあ手じゃなくて嘴だけど、そういった慎ましさはあるんだな。彼には。あるいは彼女には。足の指が一本欠けているんで、僕のところへ来るのはいつも同じカラスだってすぐに分かった。でもカラスというのは性別が外見ではほとんどわからない。未だにわからないんだ。ちょっとした性別の特徴ってあるのかもしれないけど、これが雌です、これが雄です、ってそんなふうに見せてもらったこともないし、やっぱりわからないな。とりあえず、「彼女」ということにしておこう。


 カラスと話すのは例えば列車から見える景色のことだ。僕がブドウ棚で本を呼んでいると、彼女はまず向かいのサザンカの木に留まって僕を観察する。それから大丈夫そうだとわかると足元まで下りてくる。

「人間ってとても狭い世界しか知らないのね」とこんなふうにカラスは喋り始める。

「なわばりを持ってその中だけで生きていく動物は多いと思うけどな。カラスは違うの?」

「縄張りはあるわ。でもそこから出ていくこともあるし、何より縄張りの中のことは知り尽くしているの。ごみ捨て場の場所だけじゃないのよ。駐めてある自転車の順番とか、灯りの点いている部屋の位置とか、全部よ。それは巣やお気に入りの枝から見ただけではわからないものよ。あちこちを飛び回って、歩き回って、上下左右あらゆる角度から物事を見なければわからないことなのよ。それに引き換え人間は同じ場所を行ったり来たりしているだけで、電車の中から見える景色が自分の知っている世界の広さだと思っているのじゃないかしら」

 僕は家や学校の周りならうんと探検したことを説明した。

「じゃあ、途中の駅で降りてその街がどんなふうかって見てみたことはないのかしら」

「ほとんどないね」

「それじゃあ本当に知っていることにはならないのよ。電車の窓からどれほど遠くを見渡すことができても、見えているだけで、知っていることにはならない。道筋を辿らずに知らない世界へぽんと飛び込んできて、あなた怖くないの?」

「カラスは始めて行く場所を怖がるの?」

「とても。まず高く飛んで、旋回して、次に低く飛んで、旋回して、それを何度も繰り返してからでないと、どこにとまるのが安全か見極められないのよ」

「慎重なんだね」

「たぶん人間は自分の力ではないもので移動することにあまりに慣れ過ぎてしまったのよ」

「電車や?」

「車輪のついたものは全部そうよ。あとは水に浮かぶものも。自分の足で歩くことってとても少ないでしょう?」

「距離にしたら、その割合は少ないだろうね」

「割合? 論理はやめてくださいな。わからないから」

「はい」

「それでね、自分の力で行ってみなければ、どんな道を通ったか、どれくらい遠いのか、わからないでしょう。帰ってこられなくなるかもしれないという気持ちにはならなくて?」

「歩いて帰らなきゃいけないということになったら、この場所も僕にとってはあまりに遠い場所だね。だけどここなら車輪のついたものがたぶん使えるだろうし、帰る道も地図や標識を見たり、他人に訊いたりすればなんとかわかると思うな。確かにここまで来る別の道を僕はよく知らないけど、全く知らないわけでもないんだ」

「情報があるのね」

「景色が見えるからね。だけど本当に遠い場所の時、ほとんどの人間は飛行機を使う。雲の上に出ると、雲がなくても高度を上げると、飛んでいる間の地上の様子は全然わからないし、海だって越えていくかもしれない。発つところと着くところが完全に断絶していて、着いたところで始めて外の世界を見ることになる。全然知らない土地へ飛び込むということはやっぱり大変なことだろうと思うよ。上から安全な留まり木を探す暇なんかないんだ」

「なぜそんな危険なやり方をあえてするのかしら」

「人間が自力では飛べないからだよ」

 僕はこの会話を思い出して書き出している時に、自分で操縦している飛行機だったら、特に一人か二人乗りの小さなやつだと、自分で降りる場所を選ぶことができる、というか選ばなきゃならないんだってことに気付いたけど、そんな機会はやっぱり大勢の人間にはないんだ。歩くという機能の制約が人間に遠い世界の夢を見させたのだろうし、その領域で、例えば、鳥のように自在に飛行するというのは依然として特権なのだと思う。

 とにかく、全く参考程度に留めてほしいけど、カラスと僕はこんな話をするんだよ。


 僕はそのメールにカラスの絵をつけて送った。ところが鉛筆のスケッチをスキャンすると一本一本の線が硬くなってどうも角が立った感じになる。どうせなら封筒に入れて送ってしまえばいいのだけど、メールよりお金も時間もかかるし、届いた時に、なぜ安くて早いメールに添付しなかったんだろうと狭霧は思うだろう。メールの便利さは人をメールに惹きつけるだけではない。普及することで手紙などといった旧来の手段を否定していくのだ。結局画像補正で濃淡を少し柔らかくして手を打ったけれど、それは厳密には僕の絵ではなかった。


ここでカラスに「彼女」を選択したのは「僕」の姉に見立てるためです。

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