狭霧のメール 二〇〇九年五月
三月に届いた狭霧のメールを訳してみると、内容は僕の引っ越しについてのこと、新しい土地や学校についてのことに対する質問だった。だから僕は北千住が島のようなものであることや、電車で本を読んでいるおじさんのこと、ブドウ棚のことなどを書いて送った。けれど狭霧の生活のことを訊くことはしなかった。そもそも狭霧の返信を期待するのが嫌だったのだ。もし彼女が向こうの世間に馴染んでいるなら、こっちから僕が呼んだって鬱陶しいだけじゃないか。
狭霧のメール 2009年5月
前のメールはごめんなさい。
ちょっと驚いたでしょ。もし驚いてくれたらサプライズの甲斐もあったというもの。
あれから何度かメールを書こうとして、その度英語の方が巧く書ける気がして手が進まなかったのです。今日は風もなくて、外は静かで、物音も声もなくて、空は青く抜けていて。
漂泊の愁いを叙して成らざりし 草稿の字の読みがたさかな
そんな感じ。これ啄木よ。
今、「書け」と駆動されたような気がする。母は仕事の長さによって気紛れに帰ってくるのだけど、今日はまだいません。家には1人で、隣家は留守で(壁が共有なの)、電話もなく、テレビやラジオも聞こえない、外に人の姿もない。不思議なことだけど、私の感覚域が無人であるせいか、今は頭の中に英語がないのです。
今はイギリスの記憶も日本語で再生している。時々自分が何の言語を話しているのか忘れることがあるのです。それと同じようにミス・ブラウンが言ったことを日本語で思い出すこともあるのです。面白いでしょ?
私の世界は、家とか、学校とか、いずれも支障なく運行しています。けれどひとつ強いて気懸りを挙げるとすれば、私の名前の綴りのことです。学校で提出するものがある時にsagiri と書くか、それともsaguiriと書くか未だに迷います。前者だと二音まで射手座と同じ綴りなので「サジリ」と読まれてしまうことが結構あります。あまり心地の良い音列ではないですよね。後者の方は確かに「サギリ」と読んでもらえるのですが、よく聞いていると「ギ」よりは「グィ」に近いような、それに声に出るまでに時間がかかるような気がします。たぶんあまり自然な綴りではないのでしょう。
ねえ、どっちの方がいいと思いますか? それとももっと正確な綴り方があるのかな。もしもあったら教えてください。
私の英語は文法的な誤りはほとんどない正確なものだそうです。まあせいぜい日本人が助詞を適当に嵌めた日本語を喋るようなものだと。でも時々、本で英語を覚えた弊害でしょうけど、書き言葉にしか使わないような単語や句が口を突いて出るようで、言葉が硬いと言われることがあります。ケイシィ・オコンネルなんか私のことを少しでも考え過ぎだと思うと「ヘンリエッタ・ジェイムズ」と私のことを呼ぶの。訊くとヘンリー・ジェイムスというとても難解な文章を書く作家がいるのだって。確かに難解だったわ。読んでみたの。だって読んでみないわけにいかないでしょう?
前にお母さんの休みが取れた日に二人でウェールズに旅行したことがあります。ウェールズの人は英語の他にウェールズ語を話します。年配の人だけではなく、子供たちも。それに、生粋のウェールズ人だけがそうだというんじゃなくて、中にはウェールズ語と英語を話すアイルランド移民の子もいる。学校で習うのです。イングランド式の(つまり王国下に普遍の)製品や情報媒体が浸透して英語だけで生活が成り立つものだから、ウェールズ語を喋るウェールズ人がうんと減ってウェールズ語は一度死にかけたの。これはまずい、学校で子供たちに教えないと本当にウェールズ語が死んでしまうぞって。
ウェールズ語は人が会話しているのを聞いていてもあまり違和感がないのだけど、聴き取ろうとすると英語専用の耳では全然駄目なのです。言葉も文法も英語とは全く違うの。英語と日本語くらい違うわ。
私の母はこの国の人と英語で日常会話をするようになってから自分の性格が少し変わったみたいだと言っています。当然その変化は私には感じられないものです。日本語で私と喋る母には変化がないのだから。だけど私自身のこととなるとどうもそれに似たようなところがあるのかもしれない。この土地に馴染んでいく私は今こうしてあなたに話しかけている私とは別物で、私は部屋に籠っていて、彼女が帰ってくるとベッドの上でその話を聞いているだけなのかもしれない。彼女はベッドに上がる時に靴を脱ぐけど、私は自分では床に靴を置いておく気にはなれないし、裸足でその床に下りる気にもなれないの。時々ここへ飛んで来られるだけ。
勇気がないんじゃなくて、古いものを守りたいから。冷蔵庫が年がら年中ぶんぶん呻っているみたいに、それは大きなエネルギーを消費することなの。例えば、友達から家に電話がかかってきて喋っていると、特にお母さんがまだ帰らない間にそういうことがあると、受話器を置いたあと家の中に居るのがとても落ち着かなくて、全然知らない場所にいるみたいに感じることがある。そういう時は一度外に出て誰かと話すか、ベッドの上でじっとして頭が冷えるのを待つか、どちらにしてもしばらく気が滅入って仕事に手がつかなくなってしまうの(仕事ってなんのことでしょうね?)。
ケイシィに訊くとウェールズの人々が言語ごとの人格を内に持つなんてことはないと言います。彼らに限らず複数の言語の中で育った人々は往々にしてそういうものなのでしょうか。つまり、複数の語彙や文法が混ざり合った海の中に生きているの? 全ての言語がひとつの人格を支えている? でも実際のところ彼らは異なった言語をきちんと使い分けている。それって不思議なこと。彼ら自身はいくつかの言語に自然に馴染んで生きてきたから、自己考察もなくて、私みたいな疑問を持つことがそれこそ疑問かもしれない。
少し羨ましくあり、少し軽蔑する。
返信を期待せずに済むようなメールにしたわけだから、そんな返事が来たことは驚きというか、少なからず嬉しかった。表向きの生活のことではない、内面的な問題を彼女はまだ僕に打ち明けてくれるのだ。彼女の中に僕と二人で共有した時間の意味が残っている。それが嬉しかった。
言語的アイデンティティ




