居場所と所属の間
まだ電車が混まない早朝に家を出て鳥たちの寝ぼけた声を聞きながら駅に向って歩く。僕の住むマンションは京成本線の関屋駅のほとんど目の前なのでものの数分にすぎない。家々の影がアスファルトの上に長く伸びている。ラーメン屋の裏で黒い大きなカラスの群れがペールから溢れたごみ袋を漁っている。電車の窓から見える町並みは朝の空気に包まれて低血圧のように青白く見える。発車ベルが不思議に遠くまで響く。電車にはいつも同じ席に座っているおじさんがいて、つまりそれは僕がいつも同じ場所に立っているということでもあるのだけど、彼は必ず膝に置いた鞄の上で千葉市立図書館のバーコードの貼られた本を読んでいて、その本は一週間ごとに別の本に変わった。不思議なことに分厚い本でもぺらぺらの本でも確実に一週間刻みだった。本の天を見ていると月曜日にはページの若い方が薄く、曜日が進むにつれて厚くなっていく。毎週毎週同じことを繰り返している。でも内容が違う。不思議なことに分野の偏りはない。ある週には従軍ルポタージュであり、ある週には猫の飼い方である(そのうち『戦場における猫の飼い方』を読み始めないとも限らないけど)。彼は同じ場所を回りながら少しずつ新しい知を積み上げている。一週前の彼と今の彼は合同ではない。それが安定であり、かつ充実である。不変は永遠の種だ。けれど人間は変わり続けなければ死んでしまう。不変であることと安定であることは別の状態なのだ。人の知の価値が死とともに失われるとしても、過去の自分を崇め、あるいは見下すことでしか人は時の流れや自分の変化を感じ取ることができない。イチョウの並木を通って校門に入り、下駄箱で上履きに履き替える。
高校生の僕が素直に教室へ直行したのは授業の初日だけだ。戸口に立ったところで明かりが点いていないので誰もいないのがわかった。暗い陰の中で学生机の天板が水面のように透き通って天井や外を映していた。決まったばかりの席を探して縦横に机の数を数え、傷の具合でこれだと判断して荷物を下ろす。窓を開けて風を通し、鞄の中身を机とロッカーに分け、開けた机の上に腕枕をして横になる。
しんとしていた。
世界の果ての闇をちょうど教室と同じ大きさに切り取ってきて街中の喧騒にぴったりと嵌め込む。その中に僕だけが閉じ籠っているような感じがした。顔を横にすると窓のガラスを通して外が見えた。ベランダに出て辺りを見渡し、腕を広げて深呼吸する。粉っぽい空気だった。いくら吸っても微妙に息苦しさが残る。開けた窓から首を中に入れて時計を見る。七時半。始業までまだ一時間近くあった。それを教室の中だけで消費するのはちょっと難しい。無理だ。もう一度じっくりと外を見回した。サザンカの木の枝にスズメが何羽か跳ねていた。目の前には弓道場の背の高い灰色のネットが張られていて、その向こうに表通りの往来が微かに見通せた。敷地の裏手なので奥行きはないが左右には開けていた。教室のベランダに沿って歩いてみることにした。まず左手に行くと、空調の室外機や給水設備など大掛かりなものがコンクリの基礎を打った上に据え付けられていた。そちらの終点は駐輪場の柵だった。
教室の前まで戻って逆へ行くと弓道場の的場の裏に公園の憩い場のような煉瓦敷きの開けた場所があった。煉瓦はベランダの基礎に接して隙間なく敷き詰められ、向こうは隣の校舎の非常階段下まで広がっている。むろんまだ誰もいない。その広場の脇に三畳ほどのブドウ棚がひっそりと立っていた。木の幹を模した四本の柱に支えられ、格子に組んだ角材の天井にブドウの枝葉が這っている。葉の陰の下に背凭れのないベンチが二脚並んでいる。座面が汚れていないかちょっと指先で確かめてからそこに腰を下ろし、試しに深呼吸をした。今度は上手く肺の中の空気が入れ替わった。歩いてきた方角を振り返ると、渡り廊下越しに僕の教室の前の廊下がかろうじて細く見えた。荷物を無人の教室に置きっぱなしにしてきたのが心配だったけれど、誰かが教室に入ってくればわかるだろう。ベンチの後ろに手を突いて、喉と顎がまっすぐになるくらいまで首を上に向けてみた。淡い緑色をした大きな葉っぱの間からまだ白っぽい眠気を残した青空が眩しく見えた。本当に静かな場所だった。外の騒音が遮断されているというわけではない。世界の存在を感じることはできる。でもそれらは僕とは無関係な場所にある。それでいて教室のような閉塞もない。いい気分だ。しばらくそこで休憩して教室に戻ると七時四十分を過ぎていた。まだ誰も来ない。窓を半分閉め、サインペンを出して卸したてのノートの表紙に丁寧に名前を書いた。二人目の到着は五十五分頃だった。互いに「おはよう」と短く挨拶をした。長い話はしなかった。僕はサインに戻り、彼女は机の上に荷物を置く。それからぽつぽつ生徒が増えてきて何度か同じように挨拶をした。席の近い連中とは少し自分の話もした。住んでいる町、使っている電車、出身校、一般か選抜入試か。それくらいのことだ。それくらいのことで仲の良さの伸びに微妙な違いが現れる。それを運命というのなら運命なのだろう。昼休みには近所と机を寄せてご飯を食べる。僕は豆乳を飲み、多少のおにぎりを食べる。僕が少食だという話になり、話しているうちに午後の予鈴が鳴る。
初日は放課後の予定もなく七時限もないので早く学校を出た。同じクラスの海部に生徒会の見学に行こうと誘われていたけれど、当人の都合が悪かった。春休みから水泳部の練習に参加していて、その日も練習があった。
帰る前に大塚駅南口のブックオフに寄った。特に目当ての本はなくて、何でもいいから電車に乗っている間に読む本を買っておきたかった。通学路に本屋があるのはなかなか悪いことじゃない。駅前に大きな看板が出ていてよかった。
そこで『人間の土地』を見つけた。実のところこの本は大抵どこのブックオフにもあるありふれた本なのだけど、この時の僕には失くした部品を見つけたみたいな運命的な出会いに感じられた。取ってみると安いのに質の悪くなっていない本だった。ページは白いし表紙には艶がある。僕はそこで他の本を見るのをやめてその一冊をレジへ持っていった。そして僕はその本を電車の中よりはむしろ朝のブドウ棚の下で読むようになった。
最初の国語の授業が終わったあとで尾上先生は僕のところへ来て美術部に入るかどうか確認した。尾上先生というのだ。自己紹介のところでわかった。僕はまだはっきりしないと答えた。なにしろまだ学校に慣れていないし、ということは僕は僕の人生の変動期の真っ只中に居るのであって、じっくり落ち着いてから考えてみなければそういう大事なことは決められないのだ。まあそれなら構わないからあまりこだわらずに選択しなさいと先生は言った。それが美術室で僕に話しかけたワイシャツジャージと同じ人であった。つまりワイシャツジャージの人は生徒ではなく先生であり、美術部の部員ではなく顧問だった。まだ名前もろくに知らない周りのクラスメイトは僕と先生の関係を訝しんだ。初回の授業で顔見知りということは部活動で知り合ったのだろう。でも部活に入るか入らないかという話をしている。これはどういうことか。
僕は弁明も会釈もせず、そんな視線には気づいていない振りをして板書の間に出た消しゴムの屑を丁寧に取り払った。
回数が進むと尾上先生の授業が月並みではない面白いものだということが一年生にもわかってきた。容姿はふわっとしているのに、始業のベルが鳴ると途端に辛口になる。教科書の設問を真に受けて使うことなんかない。こんな問題はけしからんと首を捻ってばかりいる。筆者の批判にも容赦はない。事実の怪しいことも言う。小説の読解など野暮である。作家が締め切りに追われて、あるいは眠気に押し潰されそうになりながら適当に書いた一文に傍線を引いて登場人物の感情だの筆者の意図云々と議論をぶつけるのは学問というより娯楽である。学生は大いに読解すればいい。しかしそこに答えを与えるのは教育としてナンセンスである。
例えば「山月記」を読むシリーズの終盤の授業で先生は中島敦の李徴が結局非凡の才人なのか凡人なのかと訊いた。
「文学的な修辞の考察はこのくらいに置くとして、私が引っかかるのは中島にとって李徴が非凡な人間なのかどうかということですね。虎になるくらいだから普通ではないのだけれど、でも人として非凡になりきれなかったからこそ虎になったとも言えるわけです。今までの問題ではそこは棚上げしていたところで、まだどちらとも判断しえない。君たちに考えを聞いてみようか。非凡か凡人か、ね。中島が意図的にあらわしたところだけではなく、無意識のうちに、というところまで考えて」
先生はそこで生徒に考えさせる時間も兼ねて黒板にチョークで選択肢を丁寧に書き、その下に点線を引っ張って票数を書き入れるスペースを作った。
「じゃあ、非凡だと思う人、はい」と訊いて自分でも手を挙げる。僕が尻をちょっと椅子の端へずらして教室の後方を見ると半分くらい挙げていた。凡人の方も同じように訊いてやっぱり半分くらいだった。
「なるほど、凡人の方が少し多いですかね。じゃあ、なぜ非凡なのか、なぜ凡人なのか。ぜひとも考えを聞いてくれと言う人は手を挙げて。そう、いない? 理由はあるけどまだ纏まってない? 残念。
実を言うと私は凡人だと思うんですね。では仕方がないから考えたところを申しましょう。六十ページの終わりからの段落を読めば、先程の設問にあった主題、『臆病な自尊心と尊大な羞恥心』で言ったとおり、李徴が自分の才能への恃みから努めて他人との交流を避けたことはわかります。従って李徴の中で非凡の才人は人との関わりを持たないものと理解されていることになるんですが、しかし李徴が非凡の才人を意識してあえて同じようにするということは、いいですか、逆説的に李徴がもとから非凡の才人ではなかったことを示している。裏を返せば、李徴がもし非凡であったなら、努めて非凡らしく生きようとする気持ちは不要であったはずなんですね。自分で当然だと思うように行動していれば、それが凡人から見た非凡なのですから。私の考えの根拠がわかりましたか? ああ、頷いているのは三分の一もないくらいですか。まあ、いいでしょう。ここは授業的にはエクストラですから。でも、そう考えるともう一つわかることがあるんですね。作者が凡人の立場で書いているということが。ということは、生前には芥川賞候補になっただけでさしたる名声を得られなかった中島自身の、自らの文才を非凡なものと確認できずにいるルサンチマンが李徴に預けられている。そういう解釈もできるんじゃないでしょうか」
しかしそんなことより尾上先生は板書の仕方が秀逸なのである。書き損じ以外には授業が終わるまでラーフルを使わない。黒板にうっすらと引かれた方眼に一文字、しかもフォント顔負けの美しい文字を一回五十分の授業で全面が埋まるようにびっしりと並べていく。文字は全て白で書き、強調は赤・黄・緑・青を適宜使い分けて傍点を打ったり波線を引いたりする。最後の文字か図を書き終えると教壇を下りて自分の作品を眺め、今日も良い出来だと言うように大きく頷く。文字が小さいのでしばしば後方から「そこ、なんて書いてありますか」と質問が飛ぶ。すると近くの連中を指名して音読させるから、目のいい生徒は気を抜いていられない。ある野球部は練習のやりすぎで一時限丸々居眠りをしていて、週直が消しにかかる前に起き出すと悠々と携帯電話を取り出して黒板の全景を写真に収めた。先生は別の生徒の机で質問を受けていたところだったがそれに気付いて、「完璧でしょ?」と怒った様子もなく訊いた。野球部の方も肝っ玉の据わったもので「はい、完璧です」と白い歯をきらっとやって返事をする。先生が一時間にきっちり一面使うのは表面的には親切であり、本質的には厳しさだった。定期テストで高得点を叩き出すのは決して居眠りをしない連中だった。大事なことは黒板には書かないのだ。
昼休みの間、何日かは僕も教室で周りと机を突き合わせて話をして、時に中学で流行った遊びを披露し合って時間を潰していた。けれどみんなが弁当を開けるとその匂いがごちゃ混ぜになって教室の中に充満して、徐々に僕はその匂いに初日の朝と同じ息苦しさを感じた。窓と扉を閉め切っている日は一層酷かった。トイレに行くと言って出ていって、用を足してから廊下を西に向かって歩いた。外階段や水道や自動販売機のある校舎の狭間に出ると、そこからブドウ棚が見えた。昼のブドウ棚は朝のブドウ棚とは全く別の場所になっていた。どこかに再現された精巧なレプリカのように、形も色も質感もほとんど一緒なのに、でもそこにある空気や光の加減や、微妙な表情が違っていた。それに日陰になったベンチには女子のグループが群がって弁当を広げていて、広場の日向に置かれたベンチにも数人が各々に膝の上で食事をしていた。それはもはや誰か一人が独り占めできる空間ではなかった。
昼のブドウ棚は僕の居場所にはなりえない。僕はその場所へ入っていく気にはなれなかった。立ち止まって考えを巡らせた後、外階段の下を抜けて渡り廊下から北側の校舎へ入った。そっちの一階には印刷室と資料室があるだけなので人気が消えて急に空気が冷たく感じられた。
階段を上っていく。踊り場の中央に光の柱のような細長い窓。
壁には昔の学生が描いた油絵が飾られている。シャルダンのような不安定でひんやりした静物画である。二階を過ぎると採光の具合で空間全体が明るくなる。壁の掲示物は直近の授業作品に代わり、画用紙いっぱいに描かれた各々の手のデッサンが貼られている。利き手で書くわけだから、どちらかといえば左手のモチーフが多い。
僕はおのずと四階の美術室を目指していた。けれど扉を開けたところでそこに人影はなく、明かりも消えていた。締め切られた窓、絵の具で汚れた流しのステンレス、空気の震え。人間嫌いの暗闇が僕の体を押し戻す。
期待を捨てて廊下を引き返す。三階の図書室に下りる。
図書室もまた静かな空間だった。けれど各々の人間があらゆる物音に注意を払っている静粛さは人のいない静寂とは明らかに違っていた。その静寂もまた僕だけのものではなかった。受付や新刊の区画を過ぎたところで足を止めて、書架のひとつひとつ、その頭の上に貼ってあるジャンルの札を遠目に眺めた。芸術は書架の間が細い通路になっているところにあるようだ。
それを確認したあとだった。部屋の奥から歩いてきた生徒とすれ違った。黒いブレザーを着た凛とした少女だった。奥の動物学の棚から下ろした一冊のハードカバーを腰のあたりで片手に抱えて、警戒するのでも気が抜けているのでもなく、柔和としかいいようのない表情で一瞬だけ僕に目を向けた。
彼女は単に僕の動きを見てぶつからないように気をつけただけ、僕が自分の知っている人物ではないか確認しただけのことだ。実際僕は無関係の人物だった。けれどその表情は外界の全てに対する自信や配慮を表しすぎるほど表していた。美しい人だった。
僕は芸術の書架の間に入って書架の向こうに目をやりながら少し考えた。あの美しさは単独であることによって得られるものなのだ。もし誰かと連れ立って話しながら歩いていたら僕に注意を向けることはきっとなかっただろう。僕を感心させることもなかっただろう。同じように僕の方でも、誰かを連れていたらその人の一瞬の柔和な視線に気づくことはなかったかもしれない。
南の窓の向こうに教室の校舎がある。窓の下は地誌の棚でそこへ近寄って見下ろすと向かいの一階の廊下が見えた。女子生徒が何人かロッカーの上に座って話し込んでいた。人と話すことが無意味だとは思わない。話は楽しい。話は思考を刺激する。ただそれにふさわしい場所とそうでない場所はあるのだろうと思う。
人は群れる。群れたいという衝動も理解できる。それはたぶん自分が正しくありたいからだ。異常ではないと思いたいからだ。群れの中で同じ考え方を共有していれば、たとえそれが理に適わないものでも、他の大勢が否定しているものでも、正しいものだ、何も問題ない、そうやって納得して安心できるからだろう。同じ趣味を共有していれば一般の無関心を嘆かずに済むからだろう。群れる人間は自分が特別であることを嫌うか、それともその特別さで群れを作って、別の特別さに対抗したいのだろう。
結局それが、難しくいえば、衆愚というものなのだ。馬鹿の肯定。話し合いの誤謬。一人の筋の通った意見を他の九人が目測を誤って没にする。しかしその九人の中で本当にその意見を否定していたのは二人だけだったかもしれない。後の七人は納得もしていないが声の大きい方か歳上の方へ惹きつけられる。
それはいわば思考や判断の外化で、その方が疲れずにエネルギーを温存してなんとなく生きていけるのかもしれない。何かに気を取られて、大事なものを見落としながら。
窓辺を離れて芸術の書架に戻り、ハーバート・リードの『芸術の意味』を少し読んでから教室に帰った。弁当臭い。五限目のチャイムが鳴って数学の先生が入ってくる。彼は顔をしかめて「弁当臭い」と言った。
図書室の少女はちょい役なのですが、実際一度きりすれ違っただけの人間に感化されることだってあると思うんですよねそういう思いを込めたシーンであり、。前に言った箱庭型作品に対するアンチテーゼです。
ちなみに学校の名前は出してないですけど、公立で、進学校で、付属高で、千住から通うのに大塚を通る高校、という条件なら見当つきませんか?




